MIYAKEJIMA CHURCH

9月24日の礼拝案内

次週 礼拝(9月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄27:39~28:10

 交読文:詩編18:2~7

讃美歌:讃詠546番55番、336番、498番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月17日の礼拝説教

使徒言行禄27:13~38

「皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、その通りになります。」(27:25)

ローマに向かうパウロを乗せた船が、嵐に襲われて漂流してしまいました。パウロは「今は船出するべきではない」と言いましたが、熟練の船乗りたちは「次の港に行ってそこで冬を過ごそう」と決断したのです。パウロを護送するローマの百人隊長ユリウスは、パウロではなく船乗りたちの判断を信用しました。

船出した後、静かな南風が北東の風に変わり暴風となりました。当時の船乗りたちが「エウラキロン」と呼んで恐れる暴風です。船は風に逆らって進むことが出来なかったので、流されるままになりました。15節でも17節でも、「流されるにまかせた」とあります。人間の力ではもう進路を取れなくなった、ということです。

更に船は暴風に悩まされたので、人々は「積荷を捨て始めた」「三日目には船具を捨てた」とあります。20節を見ると、「助かる望みは全く消えようとしていた」と書かれています。皆、船酔いして、陸を近くに感じた船乗りたちは逃げ出して自分たちだけ助かろうとしたりもしています。船に乗っていた人たちが極限の状況でもがく様子がわかります。

さて、我々はこの漂流する船の様子に何を見るでしょうか。この極限の状況・危機の中に果たして神のご計画を見ることが出来るでしょうか。使徒言行禄はパウロの姿を通して、私たちに神のご計画の進展を見せようとしています。そして、私たちが生きているこの世界の本当の支配者を見せようとしています。

私たちは船が置かれた危機の中で人々がどこに救いを見出したのか、どのように励ましを得たのか、ということを見たいと思います。嵐の中漂流する船の上で、人々を励ましたのは、船乗りたちではありませんでした。パウロでした。熟練した船乗りたちの航海術ではなく、キリストを信じる一人の信仰者の祈りの姿に皆希望を見出していったのです。

もう船乗りたちの熟練した航海の腕も、百人隊長の軍人としての権威もこの船の上では何の意味も持ちませんでした。不思議なことに、ローマに運ばれる一囚人であるパウロが、舟の上で指導的な立場になって行きます。皆が希望を捨てる中、パウロだけは希望を捨てませんでした。一人のクリスチャンが抱く信仰の希望が、最終的に人々を元気づけていくことになったのです。

パウロは神の言葉を聞いていました。

「恐れるな。あなたは皇帝の前に出廷しなければならない」24節

これは、「出廷することになっている、神によってそう定められている」という意味合いの表現です。

26節でもパウロは「必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」と言っていますが、これも、元の言葉では「打ち上げられることになっている、神がそうお決めになっている」という意味の言い方なのです。

パウロは神の言葉を聞き、神のご計画を知りました。それを人々に伝えました。神はこの危機の中で、私たちに何かを見せようとなさっている、静かに神の御声に向き合おう、と伝えたのです。パウロは今、一人の預言者として神の言葉を同じ船の上に載っている人たちに語っています。

パウロは、この危機の中で本当に畏れるべきものを知っていました。嵐ではありません。神です。嵐そのものではなく、嵐の中で神を見失うことの方が怖いのです。

パウロは預言者として人々に伝えました。「船は失うが、誰一人として命を失うものはない。一緒に航海している全てのものをあなたに任すと神がおっしゃっている。」彼は神を信頼する一人のクリスチャンとして、その信頼を貫き、絶望的な状況にある船の上で、人々に頼るべき方を示しました。

この船の上でのパウロの姿は、旧約聖書のヨナ書に出てくるヨナと比較することができます。ヨナ書のヨナと反対のことをパウロはしています。

神はアッシリアのニネベに行って、人々にイスラエルの神への立ち返りを告げるようヨナにお命じになりました。当時のアッシリアはイスラエルにとっての敵であり、イスラエルよりもはるかに強大な帝国でした。

ヨナは、神から与えられた使命を嫌がりました。そんなことをしたらアッシリアの人たちに殺されるかもしれません。しかも、敵であるアッシリアの救いのために働きたくなどありません。

ヨナは逃げ出しました。船に乗り込んで、ニネベとは反対の方向に向かいます。彼は神の使命から逃げたのです。しかし、そのことでヨナを乗せた船は嵐に巻き込まれてしまいます。一人の預言者が神から逃げたことによって、舟が嵐に巻き込まれてしまう、という物語です。

旧約聖書のヨナ書は、「逆転」の物語です。イスラエルの預言者が、イスラエルの神から逃げてしまいます。逆に、神の招きを聞いた異教徒や異邦人がイスラエルの神の言葉に従い、神の前に悔い改めました。

ヨナ書の最後で、ニネベの人たちがイスラエルの神に立ち返ると、預言者ヨナは怒っています。ニネベなど、滅びてしまえばいい、と思っていたのでしょう。ヨナは、ニネベで神の裁きを告げた後、少し離れたところで、ニネベに神の裁きが下されるところを見ようと思いました。それなのに、ニネベの人たちはヨナの言葉を聞いて悔い改め、イスラエルの神に立ち返り、神はニネベの人たちをお許しになったのです。

ヨナは神に対して怒りました。しかし神はおっしゃいます。

「お前は、自分で弄することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」

ヨナ書は不思議な物語です。異邦人に向かう神の招きという愛を通して、イスラエルの預言者にもとらえきることのできないほどの救いの広さが描かれているのです。

パウロを乗せた船はそれと反対のことが起こっています。確かに、船は嵐に巻き込まれました。しかし、神の言葉・福音を携え、神の使命に従ってローマに行こうとする預言者パウロが船に乗っていることで、船は嵐の中でも守られるのです。

パウロはなぜ、ヨナのように不安にならなかったのでしょうか。神から逃げようとしなかったのでしょうか。

イエス・キリストは、「ヨナのしるし以外にはしるしは与えられない」とおっしゃいました。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいて、その後陸地に吐き出されました。イエス・キリストも三日間墓の中にいて、三日目の朝に復活されました。それがこの世に与えられた救いのしるしです。たった一つのしるしなのです。

パウロは、復活されたイエス・キリスト、つまり、「ヨナのしるし」を見ました。キリストの復活を信じる者は、どんな苦境に置かれても祈るべき方を知っています。復活のキリストです。私たちのために十字架で死に、私たちの罪を背負い、復活を通して永遠の命の希望を示してくださったキリストです。

苦境にあればあるほど、我々の祈りは強くなります。苦境にあればはるほど、私たちは嵐を沈めてくださるイエス・キリストを見失ってはならないのです。私たちは自分の祈りをどなたに向かってぶつければいいのかを知っています。それが、信仰者がもっている強さなのです。

パウロは、船具まで捨てて動けなくなり、流されるままになった船の上で人々に繰り返し「元気を出しなさい」と言います。「今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。『神は、一緒に航海している全てのものを、あなたに任せてくださったのだ』、天使が言いました。ですから、皆さん、元気を出しなさい」

二週間経った時、パウロは一堂に食事をするように勧めました。「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」

パウロは、なぜこんなにも自信をもって「大丈夫だ。元気を出しなさい」と言えたのでしょうか。パウロ本人に自信があったからではありません。パウロが神を信頼し、その神がそうおっしゃったからです。

イエス・キリストは、世の終わりの時が来ることを弟子達にお話しなさったことがあります。「世の終わりが来る前に、人々はあなた方に手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなた方にとって証をする機会となる」

キリストは、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなた方に授ける」と約束してくださいました。そして、こうおっしゃいました。「私の名のために、あなた方は全ての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」

キリスト者は、世の終わりまで逆風に吹かれることになります。イエス・キリストご自身がそうだったように。キリストに従う私たちもその逆風に身をさらすのです。

しかし、その逆風の中でこそ、私たちには神のご計画が、イエス・キリストのお姿が、聖霊の守りがよりはっきりと示されるのです。ガリラヤ湖の小舟の中で、嵐を沈められたキリストを見た弟子達のように。嵐の中でこそ、逆風の中でこそ、私たちはメシアが近くにいてくださることを知るのです。

パウロは「食事をしよう」と船にいた人たちに提案しました。そして一同の前で、自分がパンを取って、神に感謝の祈りを捧げてから、それを裂いて食べ始めました。普通だったら、「無神経な奴だ」と思われるのではないでしょうか。

しかし、それを見た人たちは、パウロに倣って食事を始めました。船に乗っていた276人が、「元気づいて食事をした」と書かれています。

なぜ人々は元気づいて食事をしたのでしょうか。何に元気づけられたのでしょうか。どこを見回しても助かる見込みはまだ見えません。漂流する船の上で皆が不安で食事もとれなくなっていた中で、パウロという一人のキリスト者が、神に全幅の信頼を寄せて船の上で食事をする姿が、皆を元気にしたのだ。パウロが祈り、静かに神に感謝をささげて食事をする姿が、不安と絶望の中にあった人たちに希望となったのです。 Continue reading