MIYAKEJIMA CHURCH

10月29日の礼拝案内

次週 礼拝(10月29日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書1:1~18

 交読文:詩編18:8~16

讃美歌:讃詠546番66番、217番、499番、頌栄542番

【報告等】

◇大島から伊豆諸島の教会の交流の一環で二人の方が三宅島伝道所を訪ねてくださいました。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:4)

旧約聖書の知恵文学・箴言の中に、こういう言葉があります。

「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。私によって、あなたの命の日々もその年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」9:10

我々人間にとって、神を知る・神に立ち返るということは、知恵の初めである、と聖書は言います。同時に、その神を知り、神の元へと立ち返る知恵を我々に教えてくれています。

聖書を通してまず私たちが学ぶべきことは、自分が神に背を向け、神を忘れて「知恵」をなくしてしまった闇に生きている、ということです。聖書はその闇のことを「罪」と呼んでいます。私たちはその自分の「罪・闇」を知るところから、光を求め始めるのです。そして聖書は「神から離れた罪の闇」から救い出してくださる存在を指し示します。イエス・キリストです。

創世記を見ると、土なる存在アダム、命なる存在のエバが「あなたも神のようになれるのだ」という蛇の誘惑の言葉で、食べてはならない実を食べ、超えてはならない一線を越えてしまった出来事が記されています。これは、人間を支配する「罪」の力の本質を教える出来事です。

人間にとって真の神に背を向けることほど悲惨なことはありません。自分の手で神を作り出すか、自分が神のようになろうとするしかなくなるのです。自分の手が神を作ったり、自分が神になろうとする・・・それが、真の神を忘れた人間が陥る道です。それは空しく、破綻にいたる道なのです。

しかし、ヨハネ福音書はその冒頭で、そのような私たちに神の方からこの世に迎えに来てくださった救いを高らかに宣言するのです。

今日も私たちは、先週と同じ、ヨハネ福音書の冒頭部分を読みました。この福音書は、他の三つの福音書とは違った角度からキリストを証ししています。言葉が抽象的で分かりにくいところもあります。この冒頭部分も、一度読んだだけではよくわからない内容ではないでしょうか。

しかし、「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」という箴言の言葉を思い出したいと思います。私たちが読んだこの冒頭の言葉の中に、我々が知らなければならない「知恵・分別」があるのです。

古代、ギリシャ哲学や、東方オリエンタル宗教は、基本的に二元論を持っていました。世界を真っ二つに分ける考え方です。多くの人々は、物質世界と精神世界をはっきりと分けて考えていました。

神はこの世を超えた光の中にいらっしゃり、私たち肉の存在である人間は、造られたこの物質世界の闇の中に押し込められている・・・天と地には明確な区別がある。霊の世界と肉の世界が交わることはない、という考え方です。

多くの人は、この世界を邪悪なものとして見ていました。肉体も、罪の肉であり、意味を持たないものでした。自分たちの魂が、この肉体の牢獄から解放されて神の元に戻って行く、という願いを持って生きていたのです。そのような時代に、この福音書は記されました。

この福音書の初めの部分を読むと、やはり、光と闇、霊と肉、などと二つの世界を想定した言葉がつかわれています。ただ、この福音書が当時の哲学やオリエンタル宗教の二元論と違っているのは、この世界は愛を持つ神によって造られたこと、この世界は「良いもの」として造られたこと、そして神は今でも人間を愛し取り戻そうとなさっていることを示していることです。

3節「万物は言によって成った。成ったもので言によって成らないものは何一つなかった」

「言」とはイエス・キリストのことです。天地創造の際、神がご自分の言葉で世界の秩序を整えていかれたあの「光あれ」という言こそ、イエス・キリストである、というのです。

4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

イエス・キリストは創造主であり、命であり、光である、と伝えます。キリストが来てくださったこの世は、光に照らされた命に満ちた、祝福の世界なのです。

旧約聖書が伝えて来たことは、人間は創造主を見失い、そのことによって命を見失い、創造の光を見失った、ということでした。イスラエルの悲惨な歴史を通して、人間の罪がもたらす苦しみを私たちに伝えています。

この世を空しいものにしているのは何でしょうか。罪です。では、罪とは何でしょうか。神を見失い、神の御心を見失い、神の創造の秩序を忘れた混沌に生きるところへと導く力です。

その混沌・闇の中に、救い主イエス・キリストが我々を迎えに来てくださった事実を福音書は証ししています。福音書に書かれていることは、神話のようなおとぎ話ではありません。真の神が、真の人間となって世に生まれ、最後には十字架でころされた、という歴史的な事実です。

さて、福音書はこの世の混沌の闇の中に、「洗礼者ヨハネが遣わされた」ことをいいます。先ほども少し触れましたが、当時の哲学やオリエントの宗教、いわゆる「二元論」では、神はこの世とは関りを持つとは考えていませんでした。神は神の世界に、人間は人間の世界に生きて、接点はない、と考えていました。神は神の世界で完結していて、この世で生きる我々人間とは無限の距離がある、と考えられ、信じられていました。だからこそ私たち人間は、自分の肉体が生きているこの世界から脱出しなければならない、という思考になっていました。

しかし、ヨハネ福音書は万物をお創りになった神が今も人間を愛し求めていらっしゃる、ということを証しします。

人は神から離れてしまいました。「神のようになれるのだ」という蛇の声に従って、神に背を向け、自分が神になろうとする道を歩み始めました。それでも神は、人間を諦めることはなさいませんでした。何度も預言者に招きの言葉を託し、世に遣わしてこられた。そして時が満ちて、洗礼者ヨハネが遣わされ、キリストがいらっしゃるための道を備え、神の独り子イエス・キリストが来てくださったのです。

神は、世界を創造するだけで、あとは関りを持たないような神ではありません。道を失った人間を取り戻すために招きの御手を伸ばしてくださる神なのです。

洗礼者ヨハネは光を証しするために来た、と書かれています。彼は「光ではなく、光の証しするために来た」と繰り返されています。

ギリシャ語の「証をする・証言する」、という言葉は、後に英語の「殉教する」という言葉の元になります。そのことは、ヨハネから始まり、イエス・キリストを証しするキリスト者たちの信仰の歩みがどのようなものであったかを示しているではないでしょうか。キリスト者たちは、自分たちの生涯をかけて、命を懸けて、イエス・キリストを証言していきました。

そもそも、そのようなキリスト者の証しの業によって、このヨハネ福音書は書かれたのです。聖書が書かれた。

21:24「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」

一体これまで、私たちを含めて、何人の証し人が起こされてきたでしょうか。一体これまで何人の人がキリストの光を知り、その光の中に生きながら光を指さしてきたでしょうか。何人のキリスト者が、自分の命を懸けて来たでしょうか。

キリストは十字架に上げられ、三日目に復活なさいました。そして弟子達に現れてこうおっしゃいました。

「父が私をおつかわしになったように、私もあなたがたを遣わす」20:21

神がキリストを遣わされたように、私たちもキリストから遣わされているのです。私たちには使命が確かに与えられているのです。キリスト教の知識を増やして、それで終わり、ではないのです。そんな自己完結を求められているのではありません。目の前にいる人・隣にいる人への、「一緒に、光に向かって生きよう。一緒にキリストの下に行こう」という一言を私たちは託されているのです。

5節で、「光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった」とあります。「理解しなかった」という言葉は、「克服しなかった、消すことができなかった」という意味もあります。確かに、この世はキリストを理解せず、十字架に上げました。しかし、罪の力は十字架でもキリストに勝つことはできませんでした。

この世に光が来た、ということは、この世の闇が浮き彫りにされた、ということですこの世の闇があぶり出された、ということです。光が来たからこそ、私たちにはこの世の「闇」というものが示されました。本当に戦うべき相手を知りました。それはあの蛇の誘惑の声との戦いです。「あなたは神のようになれる、見えもしないどこか空の上にいるような神など信頼できないじゃないか」という声が、様々な形で私たちに聞こえてくる。いくらでも思いつくのではないでしょうか。 Continue reading

10月22日の礼拝案内

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10月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「初めに言があった」(1:1)

ヨハネ福音書の始まりの部分を読みました。1:1の、「初めに言があった」という言葉はとても有名で、読む人を引き込む力があります。しかし、有名な言葉であると言っても、この一文がどういう意味なのか、ということになると、私達は考えさせられるのではないでしょうか。何か深い真理が隠されていそうな言葉ですが、そこに隠されている真理とは何でしょうか。

最初の一文だけでなく、今日読んだヨハネ福音書の冒頭部分は謎めいた表現が続いています。この1:1~18の言葉については、学者の間でいろんな議論がされています。これは福音書の序文なのか。これはもともと讃美歌だったのではないか、これは詩文だったのか。14節までがひと固まりなのか、それとも18節までを一つの塊として読んだ方がいいのか。これはイエス・キリストの紹介文なのか、それとも洗礼者ヨハネのことを説明している文なのか。

聖書学者の間で交わされている専門的な議論はさておき、少なくとも言えることは、私達が今日読んだ冒頭部分がこの後続くヨハネ福音書のキリストの証言を理解するための手引きとなる、ということです。

この冒頭で、ヨハネ福音書のキーワードとなる言葉が中でたくさん出てきます。「初め、命、光、暗闇、証、この世、血、肉、独り子、栄光、恵み、真理」・・・これらの言葉は、福音書の本編の中で繰り返し出てくることになります。私達が正しくこの福音書のイエス・キリスト証言を受け取るために、この冒頭部分を丁寧に見ておきたいと思います。

そもそも、この福音書は何のために書かれたのでしょうか。新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が入れられています。このヨハネ福音書は、他の三つの福音書が書かれてから少し時間が経って書かれた、と考えられています。三つの福音書が既にあったにも関わらず書かれた、ということは、他の三つの福音書とは異なった視点・異なった文体を用いて、改めて何かを伝えようとした、ということでしょう。

このヨハネ福音書は何のために書かれたのか、福音書の中にはっきり記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」20:31

イエスこそキリストである、と信じて、命を受けるためである、と言っています。それでは、ヨハネ福音書が私達に伝えようとしている、「イエス・キリストの名によって与えられる命」とは何なのでしょうか。

私達は既に命があります。今、生きています。しかし、聖書が示そうとしている「命」は、私達が普段考えているのとは何か違う・何か特別な意味をもった「命」のようです。

主イエスはご自分が逮捕される夜に弟子達の前で最後の祈りを捧げられました。その祈りの中でこうおっしゃっています。

「永遠の命とは、唯一真の神であられるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです」

神を知り、キリストを知ることがそのまま永遠の命なのだ、と主イエスは祈っていらっしゃいます。聖書が私達に伝えようとしている「命」はこれなのです。

「永遠の命」は、私たちが思い浮かべるような不老不死のようなことではありません。神と共にあることです。私たちが生きるにしても死ぬにしても、神が共にいてくださる、キリストと共にいる、ということなのです。「永遠のインマヌエル」、それが永遠の命です。

イエス・キリストは、ご自分の使命について、ヨハネ福音書の中でこうおっしゃっています。

「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をおつかわしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」6:38

肉体の死では終わらない、終わりの日の「復活」という希望をキリストはおっしゃいました。

福音書は2000年前、ゴルゴタの丘で十字架の上に上げられて処刑されたイエスという方を私たちに伝えています。この方を通して私たちは「永遠の命」を知り、「復活」を知り、肉体の死に勝る希望が見せられるのです。神の独り子イエスを知ること以外に神を本当に知ることはできません。

十字架で殺されたナザレのイエスとは、一体何者だったのか・・・これが、1世紀の人たちに残された謎でした。キリストの使徒たち、教会のキリスト者たちは、「十字架で殺されたイエスという方こそキリストであった」、と証言しました。

十字架刑の三日目の朝、復活なさったイエスに会った人たちがいました。その人たちが、誰にも信じてもらえないような死者の復活という神秘の出来事を証言し続け、そしてその数々のキリスト復活証言が集められて福音書が編み上げられていったのです。

もし、ナザレのイエスがただの政治犯であったというのであれば、誰も福音書など書いて後世に残そうとは思わなかったでしょう。「あの方の十字架は、旧約の預言者たちが、預言してきたメシアの到来と救いの実現だった」と、1世紀のキリスト者たちはイエス・キリストを指さしながら世に向かって証言し続けたのです。

しかし、世の人々は、キリスト者たちの証言をなかなか受け入れませんでした。今日読んだ冒頭の部分、1:5に「暗闇は光を理解しなかった」という言葉があります。その通りでしょう。これから私たちはヨハネ福音書を通してイエスという方のお姿を見ていくことになります。そして、福音書全体を通して描かれているのは、イエスがキリストである、ということを理解できない世の人々の姿なのです。

世の人々は、この方を神だと分かりませんでした。創造主だと分かりませんでした。救い主だとわかりませんでした。そして、この方が自分たちの罪を背負ってくださっていることにすら気づかず、十字架で殺したのです。

私たちはキリストのお姿を通して、光を理解しなかった暗闇、世の罪を見ていくことになります。それは私たち自身の罪に向き合うことでもあります。福音書の証言を通して、私達は自分自身に問うていきたいと思います。自分が信じたいようにキリストを信じていないだろうか。自分は、キリストに関して、信じたいところだけを選んで信じていないだろうか。誰にとっても、自分が信じやすいようにキリストを信じたほうが、都合がいいのです。

福音書には、分かりやすいことが書かれているのではありません。楽しいことだけが書かれているのでもありません。都合よく、わかりやすく解釈したくなってしまいます。

踏まえておきたいのは、この福音書は何よりもまず、神の招きに対する私たちの無理解を描いている、ということです。そして我々世の人間が、神の招きの言葉そのものであられたイエス・キリストを十字架へと追いやって行く様が証言されているということです。目を背けず、ヨハネ福音書を通して自分の罪に向き合っていきたいと思います。

さて、ヨハネ福音書は、他の三つの福音書と比べると独特の視点でイエス・キリストを描いている、ということをお話ししました。マタイ、マルコ、ルカ、それぞれの福音書は、主イエスがこの世にいらっしゃった時点から書いています。

しかし、このヨハネ福音書は、「初めに言があった」と、この世界の初めに遡って、そこからキリスト証言を始めています。天地創造以前に、「言」というものが神と共にあり、そしてその「言」は神であった、という、謎めいたことが言われるのです。

古代のギリシャ世界では、宇宙の理、世界の秩序の背景にあるものを「言」と呼んでいました。古代のユダヤ教では「知恵」という言葉で神の創造の秩序を呼んでいましたが、それとよく似ています。

1:18まで読むと、「言」とはイエス・キリストのことであることがわかります。1:1の「初め」は、創世記1:1と同じ言葉です。ヨハネ福音書はまず私たちを世界の初め、いや、天地創造の前にまで連れて行き、そこからキリストの証しを始めます。

そして天地創造の前にイエス・キリストがいらっしゃったこと、そして万物は全てキリストによって造られ、この方が人間を照らす光であられた、という根源に遡ってキリストを証しするのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことを、単なる人間としてではなく、この世界の秩序の根源そのもの、「言」であると最初に私たちに示します。このことが、ヨハネ福音書を読む大前提となるのです。

創世記の初めで、神が言葉によってこの世界の秩序をお創りになったことが書かれています。「光あれ」、という言葉でこの世界に光が与えられ、そこから創造の秩序が整えられていきました。

万物はキリストによって創造され、キリストの内に命があり、その命が人間を照らす光であった、と冒頭で言われています。ヨハネ福音書は、イエス・キリストが世に来られたことを新しい天地創造の始まりであると告げるのです。

預言者イザヤは、神の言葉を伝えている。

「天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは、私の下に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」55:9以下

神はおっしゃいます。神の言葉は、空しいものではない。必ず、神がお望みになる実りを結ぶ。神は、ご自分の「言」に使命をお与えになりました。「言」であるイエス・キリストにお与えになった使命とは何だったでしょうか。

十字架でした。ヨハネ福音書が描いているのは、「光あれ」という神の創造の言葉によって、世の中が全て明るくなって皆が幸せになった、という幻想ではありません。この世に来てくださった光が、この世を照らして闇を浮き彫りにし、その闇を背負って十字架で死なれた姿です。 Continue reading

10月15日の礼拝案内

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10月8日の礼拝説教

使徒言行禄27:17~30

「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」(28:28)

キリストの使徒パウロは、ついに福音の使者としてローマに着きました。福音の使者でありながら、ローマ皇帝の前での裁判に出頭する囚人としてローマに来ています。16節を見ると、「パウロには番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを赦された」とあります。見張られながらも、かなりの自由が許されていたようです。

使徒言行禄は、パウロが自分の裁判が開かれるのを待ちながら、自分の家を訪ねてくる人にイエス・キリストを証ししつづけた、というところで終わっています。不思議に思わされるのは、パウロがローマに来たところまで描かれてきたのに、その裁判がどうなったのか書かれていないことです。

使徒言行禄は中途半端なところで終わっています。私たちが興味があるのは、パウロの裁判はどうなったのか、パウロの使徒としての人生はどのように終わったのか、ローマで福音はどのように広がり新たにキリスト者が起こされて行ったのか、ということではないでしょうか。

それなのに聖書にはその後のことが何も書かれず、パウロがローマで異邦人に向けて福音を語り続けた、というところで突然終わっています。なぜこのような終わり方なのでしょうか。使徒言行禄は、この場面で私たちに何を見せようとしているのでしょうか。考えたいと思います。

パウロがローマに着き、まずしたことは、ローマの主だったユダヤ人たちを招き、イエス・キリストを伝える、ということでした。

23節には「パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとした」とあります。

ローマに来たパウロが一番一番会いたいと願っていたのは、実はローマ皇帝ではありませんでした。ローマにいたユダヤ人たちでした。律法と預言書を知り、イスラエルのメシアの到来を待っていた、パウロと同じ信仰をもっていた人たちです。

紀元49年にはクラウディウス帝によってローマからユダヤ人追放令が出され、その後、戻って来たユダヤ人たちは、それぞれが信仰の苦しみを経ていました。彼らはそのような苦難にあっても聖書の信仰を捨てることなく、メシア到来の預言に希望を持っていました。パウロは、その人たちとメシアの到来を共に喜びたいと願っていたのです。

パウロは、イスラエルの希望のために自分はこのように鎖でつながれているのだ、と言いました。たとえ自分が鎖につながれても、イスラエルに与えられた希望までも鎖につながれることはないことを言いました。

しかしローマにいたユダヤ人たちは、パウロが伝える福音を受け入れず、皆パウロの下から去って行きました。ある人は福音を受け入れたようですが、その人もパウロのもとには残りませんでした。

パウロは自分の下から去って行くユダヤ人たちに、預言者イザヤの言葉を引用し、自分は神を求める人たちにこれから福音を語る、と告げました。

パウロは新たに福音を伝えるべき相手を搾りました。ローマにいたユダヤ人以外の人たち、異邦人です。

使徒言行禄の最後の場面は、キリストの宣教の初めとよく似ています。ルカ福音書の初めを読むと、キリストははじめイザヤ書を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」とおっしゃいました。つまり、御自分が神のメシアであることをおっしゃいました。

しかし人々は信じられませんでした。

「あれは私たちがよく知っているイエスではないか。ヨセフの子ではないか」

キリストは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とおっしゃり、福音を受け入れるのはむしろ異邦人であることを預言して、そこを立ち去られました。キリストの福音宣教の旅はそこから始まります。

キリストも、パウロも、福音を受け入れない人たちに向かって、イザヤ預言の言葉を告げています。福音に背を向けて去って行くユダヤ人たちにパウロが26節以下で引用して語ったイザヤ預言は、イザヤが神に召された時に、神から言われた言葉です。

神に背を向けるイスラエルの民に「立ち返るな」と伝える内容です。「イスラエルの人々を私の下に連れ戻しなさい」ではなく、「イスラエルの人たちが私の下に帰ってこないようにしなさい」と神はお告げになりました。イスラエルが、偶像礼拝の裁きを受けるためです。

神はイザヤを始め、預言者たちを遣わして何度もご自分から離れたイスラエルに、戻ってくるようにと繰り返し御告げになりました。しかし、人々は聞かなかったのです。迫って来る巨大な帝国の支配の中でどう生き延びるべきか、いつもイスラエルは悩んでいました。そしてアッシリア帝国の支配に入り、アッシリアの神を取り入れることを決めてしまいます。

真の神から離れたらどうなってしまうのか、神の言葉を聞かず偶像礼拝に生きるとどうなってしまうのか、イスラエルは身をもって体験しなくてはならなくなったのです。それが、イザヤに託された神の言葉でした。

しかし神は、神の元に戻ってこようとしない人たちの中にあって、それでも神を求める少数の人たちがいることをイザヤにおっしゃいました。「残りの者」と呼ばれる人たちです。やがて滅びるイスラエルの中から、その人たちが、切り株から芽生えるひこばえのように、新しく神の民として成長していくだろう、という預言です。

パウロは、そのイザヤの言葉を、自分から去っていくユダヤ人たちに、つまり、イエス・キリストの下から去っていく人たちに伝えたのです。「あなたたちは今キリストの福音から去って行くが、やがて、あなたがたとは別のところから信仰者の群れが起こされて来るだろう」

パウロが告げた福音を受け入れず立ち去ったユダヤ人たちはこのあとどうなるのでしょうか。もうユダヤ人はイエス・キリストを知ることができなくなってしまった・・・神・キリストから見捨てられた、ということなのでしょうか。

そうではありません。

パウロはロマ書の9章で書いている。

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

パウロの同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとせず、むしろ、異邦人の方がキリストを受け入れていました。これがパウロの痛みでした。

しかしパウロはローマの信徒への手紙の中でこのように書いています。神はユダヤ人をお見捨てになったのではない、いずれユダヤ人と異邦人、全ての人がキリストの下に一つとされる、と。今は不従順なユダヤ人も、キリストに立ち返る異邦人の姿を見て、やがて立ち返るべきキリストの姿を見出すことになる、と言います。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、全ての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求める全ての人を豊かにお恵みになる。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」 今はそこに至る途中なのだ、と。

私たちは覚えたいと思います。神は全ての人が、自分の意思でご自分の下に戻ってくることを忍耐して待っていらっしゃるのです。今、私たちはそこへの途上を歩んでいます。

キリストの一番弟子のペトロは「神は忍耐していらっしゃるのだ」と言っています。

「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます」

私達は、すぐに自分の目に見えることで全てを判断してしまいます。自分の教会生活、礼拝生活がどれほど実を結んでいるか、自分の信仰生活がどれほど他の人たちへの証しになっているか、自分の周りを見てもよくわからないでしょう。

預言者が伝えて来た主の日、キリストがおっしゃった神の裁きの日は、来ないではないか、自分の信仰生活は無駄ではないか、と思ってしまうようなこともあるでしょう。自分の目の前や周囲を見回して、自分の信仰生活が成功しているのか失敗しているのか不安になることもあるでしょう。

しかし、自分が今どのように神によって用いられているのかは、自分の知識や見えるものだけではとらえきることは出来ません。神は間違いなく、今の私たちをご覧になっています。そして私たちと一緒に、一人も滅びないで皆が神の元へと立ち返る時が来るのを忍耐して待っていらっしゃるのです。

パウロはコリント教会にこう書いています。 Continue reading

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 聖書:使徒言行禄28:7~16

 交読文:詩編18:8~16

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10月1日の礼拝説教

使徒言行禄28:7~16

「こうして私たちはローマに着いた」(27:14)

復活なさったキリストは弟子達に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・地の果てに至るまで、私の証人となる」とおっしゃいました。その言葉通り、聖霊を受けたパウロはキリストの力を授けられ、エルサレムからはるか離れた場所で神の御業を行い、神の言葉を告げています。

裁判を受ける囚人としてローマへと運ばれていたパウロを乗せた船は嵐の中漂流し、マルタ島にたどり着きました。この小さな島にまで、神はパウロを通してキリストの福音を運ばれたのです。

島にはプブリウスという長官がいました。この「長官」というのは、元の言葉では「第一の人」という意味の言葉ですので、その土地を支配していた人だったのでしょう。プブリウスはパウロたちが流れ着いた浜の近くに自分の土地を持っていて、三日間、彼らを手厚くもてなしました。

聖書には「私たちを」もてなした、とあります。船には276人が乗っていましたが、この「私たち」というのは、パウロとその友人たち、パウロを護送していた百人隊長たちローマ兵のことでしょう。

ここでパウロはプブリウスの父親の熱病と下痢を、祈り、手を置いて癒しました。信仰者に授けられたキリストの力が働いています。キリストが多くの人を癒されたり悪霊を追い出されたりして神の支配がそこに及んでいるということをお示しになったように、パウロも、癒しの業を通してプブリウスの一家に神の力が及んだことを示しました。

島の人たちは、パウロに対して深く敬意を表した、と書かれています。

私たちは、島で尊敬を集めたパウロがその後どうしたのか、ということを見たいと思います。彼は三か月後、当然のようにローマへと向かいました。

漂流した先で長官や島民から尊敬を集めた、というのであれば、パウロがマルタ島を安住の地としてもおかしくありません。これからわざわざ自分の裁判を受けるためにローマに行かなくても、パウロはこれからの自分の生涯をマルタ島で過せば、迫害や争いとは無縁の生活を続けることが出来たのではないでしょうか。

しかし、使徒言行禄はパウロの旅がマルタ島に着いたというところで終わっていません。福音を携えたパウロの旅は続くのです。彼はまた船に乗り、キリストの証人としてローマへと向かうことになります。パウロは、アフリカの町・アレクサンドリアから島に来ていた船に乗りこみました。

パウロは既に神の声を聞いていました。

「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

パウロには、迷いはありませんでした。自分が人々の尊敬を集めたマルタ島に留まることなく、ローマに向かう船に乗ったのです。

神がそうおっしゃるから、です。パウロにとってそれが全てでした。

さて、船はマルタ島からシチリア島のシラクサ、イタリアのレギオン、プテオリといくつかの港に寄りながらローマに近づいて行きました。

プテオリに着いた時には、「兄弟たち」がそこにいて、パウロたちを待っていた、と書かれています。「兄弟たち」というのは信仰の兄弟たち・キリスト者たち、ということです。パウロはイタリアのキリスト者たちに請われるまま7日間そこに滞在しました。

かなり自由にふるまうことが許されていたことが分かります。百人隊長がパウロにこれだけ自由を赦したのは、パウロの無実を知っていて、船の中でパウロの信仰が皆を勇気づけ、島で神から授けられた力をつかって癒しを行ったのを見ていたからでしょう。このエルサレムからローマまでの航海の中で、百人隊長だけなく、船に乗っていた人たちは皆、パウロを通してイエス・キリストの力の目撃者とされていたことがわかります。

私たちはここで特に、行く先々でパウロを待っている人たちがいた、ということに注目したいと思います。ついに14節で「私たちはローマに着いた」とあります。文字通り、パウロの旅は終わったのです。

三度に渡るパウロの福音宣教の旅、そして、ローマに護送されていく船旅をパウロは体験しました。長年にわたって町々を移動しながらのパウロの福音宣教の旅の最終地ローマについにたどり着きました。

パウロのこれまでの福音宣教の道を振り返ってみると、決して平たんでまっすぐな道ではありませんでした。妨害、迫害、回り道ばかりでした。しかし、パウロの通った後には、福音の芽が出て、根が張って行き、成長して実を結んできました。不思議です。

パウロはコリント教会にこう書き送っている。

「(私は)しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難にあい、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々私に迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事がある。誰かが弱っているのなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか」Ⅱコリ11:26

ローマに着き、福音宣教の旅が終わっても、パウロのキリスト証言に終わりはありませんでした。ローマは当時のローマ帝国の中心です。しかしエルサレムからやって来たパウロと、付き添って来たキリスト者たちにとっては、イエス・キリストが弟子達におっしゃったようにローマは「地の果て」でした。

「あなたがたは地の果てに至るまで私の証人となる」とおっしゃったキリストの言葉は、まさに神のご計画として、今、パウロを通して、キリストの使徒たちを通して実現しています。

パウロにとって、ローマは初めての土地であり、「地の果て」でした。それにも関わらず、なぜキリスト者たちが迎えに来たのでしょうか。

パウロは3度目の福音宣教の途中滞在していたコリントの町から、既にローマの信徒たちに手紙を書き送っていました。今、新約聖書の中に入っているローマの信徒への手紙です。紀元55年から56年の間に書かれたとされます。

その手紙の中でパウロはこう書いています。

「何とかして、いつかは神の御心によってあなた方のところへ行ける機会があるように願っています・・・ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と書いている。

この手紙を受け取ったローマのキリスト者たちは、パウロが来ることを待っていたのです。パウロにとっては見知らぬ土地、「地の果て」であっても、神は既にパウロを受け入れる信仰者たちを備えてくださっていたのです。

振り返ると、パウロのこれまでの福音宣教の旅もそうでした。パウロは知り合いがいたからその町に入って行ったのではありません。明確な計画をもってその町に入って行ったのでもありません。ただ福音を携えて町の中に入って行ったのです。

パウロたちが新しい町に入ると、そこに、福音を求める人、キリストを求める人が既にいました。パウロは行く先々で、ユダヤ人や、土地の人たちからの反対にもあいますが、そのような中でもわずかに、福音を受け入れキリストを信じる人たちが起こされていきました。

パウロは何千人もの人たちをいきなりキリスト者に変えていったのではないのです。福音の種をわずかずついろんな町々に蒔いて行ったような旅を彼は続けました。わずか数人の人がキリストを信じるようになると、そのままパウロは次の町へと向かった・・・そんな旅だったのです。

しかし、わずかに蒔かれたその福音の種が、キリストが弟子達におっしゃたように、

「30倍、60倍、100倍」と成長していきました。そして今、ローマでパウロを迎え入れるキリスト者たちが港に迎えに来てくれるまでになっていたのです。

パウロは手紙の中で書いています。

「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも、水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です」

パウロはローマに着き、自分を迎えに来てくれたキリスト者たちを見て、「勇気づけられた」とあります。これは、正確には「勇み立った」という能動態の言葉です。神のご計画を信じてローマまで来たパウロが、自分を迎えに来たキリスト者たちを見て、「やはり自分は間違っていなかった、今確かに神のご計画が進んでいる」と知り、「更に勇気が出た」という表現です。

パウロはここまで地中海を渡って来ました。逆風、暴風雨、漂流という厳しい船旅でした。それでも、キリストは前もってパウロのために備えてくださっていたのです。マルタ島でも、ローマに向かう途中に立ち寄った港でも、キリストはパウロをお用いになって御自分の救いを、招きをお見せになっています。

私たちは、パウロの姿を通して考えさせられます。私たちはキリスト者として次に何をすればいいのか、どこに行けばいいのか、ということを考えます。どうすればキリストにお応えすることが出来るのか、と考えます。そして自分の無力さに不甲斐なさを覚えるのではないでしょうか。「あの方は私のために死んでくださったのに、私はあの方にどのように報いればよいのか」 Continue reading