ヨハネ福音書15:22~27
ヨハネ福音書のはじめに、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。
神は世を照らす光としてこの世に独り子を送られました。イエス・キリストは「この世を暗闇のままにはしておかない」、という神の救いの御心そのものでした。
福音書の序文にあるように、イエス・キリストはこの世に神の招きの言葉を伝えに来たにも関わらず、反対と憎しみをお受けになりました。しかし、ここまで私たちが見てきたように、光であるイエス・キリストが世に来られることによってこの世には影も生まれたのです。その影はイエス・キリストのことを神の子・世の光として見ることなく、ナザレのイエスの宣教とその弟子たちの働きを「危険なもの」とみなしました。
私たちは今日、イエス・キリストが、弟子たちが受けることになる迫害の予告をされる言葉を読みました。なぜキリストの弟子たちは世から憎まれることになるのでしょうか。キリストの弟子達が世に憎まれるのであれば、キリスト教会も憎まれるということでもあります。なぜキリスト教会がこの世から迫害されなければならないのでしょうか。教会はそんなに悪い集団なのでしょうか。
キリストは旧約聖書の言葉を引用してこうおっしゃいます。
「人々は理由もなく私を憎んだ」
これは詩編の言葉です。キリストが世に憎まれた理由、キリストに従う教会が世に憎まれる理由はこれなのです。つまり、「理由はない」と言うことです。
「人々は理由もなく私を憎んだ」というのは、詩篇35編19節の言葉です。詩編35編は無実の人が裁判で訴えられる苦しみを歌ったものです。
「不法の証人が数多くたち私を追求しますが私の知らないことばかりです」と詩人は神に訴えます。そして35編の19節で「無実な私を憎む者が、侮りの眼で見ることがありませんように」と語ります。
この
「無実な私を憎む者」というのが、キリストが引用された詩篇の言葉です。無実な人を憎む、ということにはどんな理由があるでしょうか。理由などありません。無実の人を憎むことで自分が安心できる人が、そうするのです。
キリストは「彼らの律法にそう書いてある」と皮肉を込めておっしゃっています。「彼らの律法」と言っても、律法は聖書のことですから一つしかありません。「私の律法」「あの人の律法」などという表現は本当はおかしいのです。キリストが「彼らの律法」とおっしゃるのは、「彼らが勝手に自分に都合よく解釈している律法」という皮肉が込めていらっしゃるのです。
ヨハネ福音書の9章に、イエス・キリストが目を開かれた盲人がパリサイ派の人たちによって会堂から追放された、という事件が書かれています。目が見えなかった人が確かにキリストによって癒され見えるようになりました。その人の両親も、そのことを証言しました。それなのにファリサイ派の人たちは癒された盲人を「罪びと」と呼び、会堂から追放しました。
それは人々の心が自分達からナザレのイエスに移ることを恐れてのことでした。世は、このようにして無実の人を憎み、自分を守ろうとするのです。神の言葉、神の御業ではなく、自分の立ち位置を守る方が大切なのです。
今でもこのことは変わっていません。今でも、キリスト者が侮られたり、キリスト教信仰をバカにされたり理解してもらえないことの方が多いでしょう。当然です。イエス・キリストがそうだったからです。
キリストはこの世の中でどんな悪いことをなさったのでしょうか。殺されなければならないような罪を犯されたでしょうか。理由などありません。人々は自分の立ち位置を守るためにナザレのイエスに罪びととしたのです。
皮肉なことですが、その罪は、この方が背負ってくださったこの世の罪・自分たちの罪でした。しかし彼らはそのことに気づきませんでした。私たちのキリストへの信仰が理解されないということには、なにかこれという理由があるのではないのです。この世の中でキリストの光が示されたところには影もできる、ということです。
主イエスはこの世の人全てを否定されているわけではありません。ここでは、実際にご自分のことを非難してきたユダヤ人たちのことをおっしゃっています。
イエス・キリストの全ての言葉はこの世を神の元へと導く救いの言葉でした。しかしユダヤ人たちはイエス・キリストの言葉を無視しました。キリストの福音宣教は、この後イスカリオテのユダに先導されるユダヤ人たちによって逮捕されて終わります。
22節で、主イエスは恐ろしいことをおっしゃっています。
「私が来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」
イエス・キリストの言葉を知らないというのであればまだ弁解の余地はあったのです。しかし彼らは実際にキリストの言葉を聞き、何度もキリストの業を見て、その上でキリストをこの世から排除しようとしました。
キリストの言葉・業を受け入れないということは、キリストを憎むということです。そしてここでおっしゃっているように、キリストを憎む人はキリストの父である神を憎むということです。
キリストはご自分と神と弟子達のつながりについてお話なさいます。弟子たちを愛する者はキリストを愛するのであり、キリストを愛する者はキリストを遣わされた父なる神を愛するということなのだから、弟子たちを憎む者はキリストを憎むということであり、弟子達を迫害する者は神を迫害するということであることが示されています。
今、教会はこの世からどのように見られているでしょうか。私たちの信仰はただ辛いだけのものなのでしょうか。神を信じているというだけでバカにする人多いでしょう。キリストを信じているというだけで、「どうして外国の宗教を信じるのか」と言われることもあるでしょう。
私たちは、論理的に相手を説得してキリストを信じさせるようにすることはできません。なぜ自分がキリストを信じるようになったのか、信じ続けているのかを説明してわかってもらうことも難しいでしょう。キリストが人々から言われたように、しるしを見せてみろ、証明してみろと言われても何も言えないし何もできないのではないでしょうか。
しかしそれでもキリスト者はキリストのもとに留まります。言葉で説明できない何かによって私たちはキリストにつながっているからです。キリストはそれを真理の霊と呼ばれます。
イエス・キリストがこの世で福音宣教なさって、十字架の直前まで実際に従い抜くことができたのはたった12人でした。そしてこの夜、1人が裏切るために去って行きました。あとの11人も、主イエスの逮捕を見て、全員が逃げ出します。
イエス・キリストに本当の意味で従う群れができたのはキリストの復活の後なのです。聖霊が注がれてそこから初めてイエス・キリストの言葉と技の意味が示されました
私たちの信仰もそうだったのではないでしょうか。あの時はイエス・キリストなんて知らなかったし信じてもいなかった。しかし後になってあの時キリストは本当に私と共に歩んでくださっていたことが分かった、と思える瞬間があるのです。聖霊を通して、キリストへと導いてくださる言葉や出会いが与えられるのです。今でも、そしてこれからも与えられ続けるのです。
ここでのイエス・キリストの言葉は法廷での弁論のように聞こえます。自分がイエス・キリストの言葉と業に対して、自分たちがどう向き合ってきたのか、ということを振り返らされるのではないでしょうか。
私たちは世の終わりに神の前に立たされた時、神から何と言われるでしょうか。
「私の言葉を聞いて、私の業を見ても、あなたは信じなかった。あなたにはもう弁解の余地はない」
この世の終わりにキリストからそう言われることほど恐ろしいことはないでしょう。では、今私たちがどう生きるか、ということです。
私たちが声高にイエス・キリストのことを叫んでもうこの世はあまり聞こうとしません。「自分には関係のないことだ。自分はキリストを知らなくても充分立派に生きていける」。皆そう言うでしょう。
そう言われると私たちはそれ以上何も言えなくなってしまいます。では私たちは何ができるのでしょうか。祈ることです。礼拝向かい続けることです。キリスト者が祈る姿が、また礼拝に身を置く姿が、何よりイエスキリストを証する力を持っているのです。
忘れてはならないと思います。聖霊は祈る群れに注がれました。立派な人が集まって「自分たちの力で教会をつくろう」と言って、踏み出したのではありません。どっちに向かって踏み出していいのかわからず祈るしかなかった群れに聖霊は注がれました。そして語るべき言葉と行くべき場所が示されていったのです。
使徒パウロは手紙の中で書いています。
「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」
パウロは教会のことを「神の畑」と呼んでいます。神の畑の収穫は、神が作り出されます。そしてパウロは教会の人々こそ「神の霊が内に住んでいる神殿である」と書いています。
私たちは、神の畑であり神の神殿なのです。「イエス・キリストのことを伝えるために自分にはどんな知恵が必要だろうか」と私たちは考えます。
しかし使徒パウロは逆のことを言います。
「もしあなたがたの誰かが、自分がこの世で知恵のあるものだと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かなものになりなさい。この知恵は神の前では愚かなものだからです」「そして誰も人間を誇ってはなりません」「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」
世が私たちの証に心を向けてくれない時、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス・キリストは目に見えなくても共にいてくださっていると言うことを私たちはどうやって感じることができるのでしょうか。
祈り、またその祈りに対して聖霊が注がれる。そこにおいて私たちは2人3人の群れであってもイエスキリストの臨在を感じるのです。
3:17でキリストはおっしゃっています。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」
私たちの小さな信仰生活が、この世の中で、イエス・キリストを指し示す光となり、人々をキリストへと導く道として示されます。神の救いの御業は、確かに、私たちの信仰の日常を通して進められているのです。