ヨハネ福音書15:1~8
キリストは弟子たちとの最後の別れの時を過ごされました。弟子たちひとりひとりの足を洗い、ご自分がいなくなった後どうすべきか、どうあるべきかということをお伝えになりました。そして14章の最後で「さあ、立て、ここから出かけよう」とおっしゃってご自分の十字架への歩み自ら歩みを進めて行かれます。
今日私たちはイエス・キリストが弟子たちに、「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃった場面を読みました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」有名なイエス・キリストの言葉です。
「ここから出かけよう」とおっしゃってからの言葉なので、歩きながら、キリストは「私につながっていなさい」と話されたのでしょう。
これまでも、福音宣教の旅の中でイエス・キリストは弟子たちや人々に向かってご自分を何かに例えながら、「私は何々である」という言い方をしてこられました。「私はまことのパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は良い羊飼いである」というように、ご自分が神から遣わされたメシアであることを、「私は〇〇である」という表現で示してこられました。
しかし、それを聞いた人達が全員その意味が分かって「この方はメシアだと」受け入れたわけではありませんでした。6章では、「私の肉を食べ私の血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」とおっしゃったキリストの言葉を聞いて皆「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と離れて行ったことが書かれています。
今日読んだところが、ヨハネ福音書で最後の、「私は何々である」というキリストのたとえになります。十字架に向かって歩みながら、おっしゃいます。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」
この例えは、今までのものと少し違っています。キリストはこれまではご自分が何者であるかということを例えてこられましたが、ここでは、「私の父は農夫である」と、天の神についてもたとえいらっしゃるのです。
この15章のキリストの例えを読むと、神の独り子イエス・キリスト、父なる神、そして私たちキリスト者の関係性がよくわかると思います。ここでキリストは「私はまことのぶどうの木」とおっしゃっています。単なる「ぶどうの木」ではありません。「まことの」ぶどうの木です。
「まことの」という言い方がされているということは、「まことではない・よくないブドウの木」もこれまであったということでしょう。
聖書の中には葡萄畑やブドウの木に関する記述がたくさんあります。当時の世界ではブドウは身近な果物であり、聖書の中でも度々例えとして用いられてきました。聖書の中では、律法や信仰を語る際に例えとしてよく用いられました。
しかし残念ながら、素晴らしい葡萄の実が実ったということは聖書ではあまり言われていないのです。むしろぶどう園には実が結ばなかったと言うような表現が多いのです。
詩篇80:8
「あなたはブドウの木をエジプトから移し、多くの民を追い出してこれを植えられました。そのために場所を整え根付かせこの木は地に広がりました」
詩篇の詩人は神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事を「農夫が葡萄の木を新しい場所に植えた」、というイメージで歌っています。そこでたくさんのぶどうの実が実ったかというとそうではないのです。このような言葉が続きます。
「なぜあなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆摘み取って行きます。」
神がエジプトからイスラエルの民を救い出し、約束の地へと新しく民を導き入れられたにも関わらず、そのイスラエルは神を正しく信仰する歩みを続けることができなかったことを嘆く詩人の言葉です。
預言者イザヤもイザヤ書の5章で「ブドウ畑の歌」と呼ばれる歌を残しています。
「私の愛する方が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、その真ん中に見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱい葡萄であった」
これも先ほどの詩編の言葉と同じ内容を歌っています。神によって救われたイスラエルがその救いの御業に報いることなく不信仰に落ちてしまったことを歌うのです。
イザヤだけではありません、ほかの預言者たちも異口同音にイスラエルの不信仰を糾弾してきました。それほどにイスラエルは神のぶどう畑として良い実を結んでこなかったのです。それが神の民イスラエルの歴史でした。
しかし今、イエス・キリストはご自分のことを「まことのぶどうの木」とお示しになりました。これまでの実を結ばず、農夫である神の期待に沿うことをしてこなかったイスラエルとは違う、新しいぶどうの木として正しい信仰の象徴としてご自分を示されるのです。
「私はまことのぶどうの木」というのは不思議な言い回しだと思います。イエス・キリストが農夫であり実の収穫をされる側でお話しなさっていないのです。キリストはむしろ収穫される側のブドウの木にご自身を例えていらっしゃいます。神の側ではなくイスラエルの側にご自分の身を置いて「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃるのです。
ご自身が神の民イスラエルそのものであり、イエス・キリストに繋がることによって私たちはイスラエルの民とされているのです。信仰者の群れの中心にはこの方がいらっしゃるということでしょう。
洗礼者ヨハネは荒野で叫びました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」
「悔い改めにふさわしい実」とは何でしょうか。キリストはおっしゃいます。「ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である」
「悔い改めにふさわしい実」とは、イエス・キリストに立ち返りキリストに繋がった歩みの中で見せられる何かです。キリストから離れたところでは見ることができない何かのことです。
キリストを知る前、キリストにつながる前、キリストから離れていた時、私たちは何を求めて生きていたでしょうか。キリストを知ってから、何を求めるようになったでしょうか。ここでそれぞれ、振り返りたいと思います。
キリストの使徒パウロはローマの信徒に向けてこう書いています。
「あなた方は罪の奴隷であったときは義に対しては自由の身でした。では、その頃どんな実りがありましたか。あなた方がいまでは恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは死に他ならない。あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」
キリストとの出会いは文字通り人生の岐路となります。罪の支配の中に生きるか神の支配の中に生きるか。 罪の支配の中で結ぶ実は、死で終わるものです。しかし神の支配の中で結ぶ実は、私達にとって永遠だとパウロは言います。
イエス・キリストから離れたところで私たちが結ぶ実は、どのようなものでしょうか。それが何であれ、この世のもの、過ぎ去るものでしょう。自分がいなくなったら、跡形もなく消えてしまうようなものではないでしょうか。あっという間に過ぎ去っていく宝です。
しかし聖書は私たちに天に富を積むことを教えてくれます。そこには泥棒が入ることもなく朽ちることもなくしぼむこともない宝の貯蔵庫があるのです。私たちの肉体の死を越えて永遠に価値を持ち続ける宝の置き場所があるのです。それを知るということが、肉体の死に向かって生きる中でどんなに大きな希望となるでしょうか。
キリストは「私につながっていなさい」と弟子たちにおっしゃいました。
この「つながる」というのは「留まる」という意味の言葉です。
14章2節で、キリストが「私の父の家には住むところがたくさんある」とおっしゃっていますが、「住むところ」というのが「留まるところ」という意味の言葉です。イエス・キリストが弟子たちに教えを残したこの夜、「留まる」という言葉が何度も何度も使われているのです。 Continue reading →