【次週 礼拝(11月23日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:ヨハネ福音書18:1~11
交読文:詩編19:12~15
讃美歌:讃詠546番、63番、90番、324番、頌栄541
【報告等】
◇11月30日(日) 東支区青年部が訪問
【牧師予定】
◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

MIYAKEJIMA CHURCH
【次週 礼拝(11月23日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:ヨハネ福音書18:1~11
交読文:詩編19:12~15
讃美歌:讃詠546番、63番、90番、324番、頌栄541
【報告等】
◇11月30日(日) 東支区青年部が訪問
【牧師予定】
◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

ヨハネ福音書18:1~9
イエス・キリストの、地上での最後の夜のお姿を追って福音書を読んでいます。キリストは弟子たちと過ごされる最後の夜、語るべき言葉をすべて語り、共に祈るべき言葉をすべて祈られました。私たちが今日読んだのは、告別の言葉と、執り成しの祈りが終わり、最後の夜の闇へと出ていかれたキリストのお姿です。ついに、イスカリオテのユダの手引きによって逮捕されることになります。
主イエスは弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出ていかれた」、とあります。そして、「そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」とあります。
一行は神殿のそばにある園・庭へと向かいました。そこは、主イエスと弟子たちがよく集まっていた場所でした。エルサレムに滞在している時には、弟子たちはその庭で主イエスと共に祈ったり、主イエスから教えを聞いたりしていたのでしょう。
当然、イスカリオテのユダもその場所を知っていました。「過越祭を目前に控えて、一行はいつものようにあの場所に、あの園に集まるに違いない」、と考え、ユダは、兵士と下役たちを案内しました。主イエスの一行の行動を先回りした、ユダの裏切りの場面です。
主イエスの一行が向かったのは、オリーブ山のゲツセマネと呼ばれていた場所でしょう。マタイ、マルコ、ルカの福音書には、そこで主イエスが苦しみ悶えて最後に神に祈られた様子が記録されています。
しかし、ヨハネ福音書では、「オリーブ山」とか「ゲツセマネ」という言葉がつかわれていません。おそらく、敢えて、ゲツセマネという言葉をつかっていないのでしょう。そうすることによって、他の三つの福音書とはあえて違うところに焦点を当てようとしているようです。
ヨハネ福音書は、主イエスの一行が「その途中、キドロンの谷を通って行かれた」と書いています。「ゲツセマネに向かって行かれた」ではなく、「キドロンの谷を通って行かれた」です。
ヨハネ福音書は、「ゲツセマネ」ではなく、この「キドロンの谷」という場所に私たち読者の目を向けさせようとしているようです。この夜の「キドロンの谷」には何があったのでしょうか。そこに、イエス・キリストの救いを象徴する何があったのでしょうか。
「キドロンの谷」は文字通り谷ですので、谷底には川が流れています。その流れはエルサレム神殿の脇を通っていました。そして過越祭を控えたこの夜、川の水は神殿で犠牲に使われた動物を洗うのに使われていました。過越祭の前の晩ですので、たくさんの生贄が捧げられていたでしょう。キリストがこの時渡られた川は、血で赤く染まっていたのではないでしょうか。
キリストは赤く血に染まった川の流れを超えていかれた、というその姿は、その先でキリストを待ち受けている流血を象徴的に表しています。まさに、死線を超えていかれるキリストのお姿がここにあるのです。この時の川の色は、キリストご自身の痛みであり、死を象徴していました。その流れを超えていかれるキリストの歩みは、キリストの覚悟そのものを現していたのです。
私たちが何より忘れてならないのは、キリストは、ご自分の歩みの先に何が待ち受けているのかをすべてご存じの上で、その川をご自分の意志で渡られた、ということです。
イエス・キリストは、ご自分に課せられた使命を知らず、運命に抗うこともできずに十字架に上げられた悲劇の英雄ではありません。本当は、逃げようと思えば、いつでも逃げられたのです。やめようと思えば、この夜の内に、やめることはできたのです。
しかし、キリストはご自分の意志で、羊のために命を投げ出す良い羊飼いとして、キドロンの谷を流れる、血で赤く染まった川の向こう側へとご自分の足を進めていかれました。
この「キドロンの谷の向こうへ行かれた」という一文に、キリストはご自分の計画をご自分の意志と力で進めていかれた、ということ、神の御計画にご自分の身を差し出された、ということを、見出したいと思うのです。
イスカリオテのユダに率いられた人たちがナザレのイエスを目指して逮捕しに来ました。「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやってきた」とあります。
「一隊の兵士たち」というのは、ローマ兵の部隊のことで、600人もしくは1000人規模の部隊のことを意味します。600人でも、1000人でも、一人の人間を逮捕するのには、十分な数です。十分どころか、大げさな人数です。
そして兵士たちと一緒にやってきた「下役たち」というのは、ファリサイ派と大祭司の指揮のもとにある神殿警備兵のことです。以前、この下役たちが、で主イエスを逮捕に来ようとしたことがあります。(7:32) しかし、その時、彼らは主イエスの教えを聞き、捕らえることができませんでした。「今まで、あの人のように話した人はいません」と彼らは上役に報告しました。そして今、またその下役たちが主イエスの逮捕のためにやってきました。
こうしてこのヨハネ福音書のキリスト逮捕の場面を見ると、この世の政治権力者・宗教権力者らが総力を挙げてイエス・キリストに向かって来たということがわかります。
ローマ兵が、反乱を企てる危険な人物を捕らえに来たというだけならまだわかります。しかし、これまで主イエスの御業を見て、主イエスの教えを聞いてきたユダヤの祭司や律法学者までが、未だに主イエスに神のお姿を見出すことができていないというのはどういうことなのでしょうか。
それほど、この世の闇は深かった、ということでしょう。キリストを逮捕しに来た彼らの姿は、ヨハネ福音書が書いている「この世」の罪を象徴しています。
彼らは、「松明やともし火や武器を手にしていた」と書かれています。過越祭は満月に行われるので、松明など本当は必要ないぐらい明るかったはずです。しかし彼らは、用心深く「明り」を持って来ました。
このことも象徴的です。自分たちの手に自分たちの明かりを持って、「世の光」であるイエス・キリストに向かっていったのです。それは、彼らの「自分たちこそが真の世の光である」という思いの象徴でもあるのです。
さて、1節に、主イエスと弟子たちが「園に入られた」、と書かれています。4つの福音書の中で、「園に入った」と書いているのはヨハネ福音書だけです。「イエス・キリストの逮捕は、園の中で起こった」、ということをヨハネ福音書はここで強調して私たちに見せようとしています。
園という言葉で思い出すのは、旧約聖書の創世記に記されている「エデンの園」です。エデンの園で、アダムとエバは蛇の誘惑によって神との関係を壊されました。誘惑が、園の中に入って働いていた、ということと、祈りの園にユダに率いられた人々が入って来た、ということに、私たちは変わらない罪の働きを見ることができるのではないでしょうか。
世の誘惑がキリスト教会に向かってくることの象徴として見ることもできるでしょう。つまり、ここに私たちの信仰の現実が描かれていると見ることができるのです。
ユダに率いられた兵士と下役たちがキリストを逮捕しにやって来たその姿に、私たちは、この世の誘惑にさらされるキリスト教会自身の姿を見るのです。
キリストは今ここで起こっていることをすべてご存じでした。その上で進み出て、「誰を探しているのか」とおっしゃいます。兵士たち・下役たちは「ナザレのイエスだ」と答えました。キリストはためらわず、「私である」とおっしゃいました。
6節を見ると、「私である」という言葉を聞いて、兵士たちは「後ずさりして、地に倒れた」、とあります。兵士たちは、「早速、捕らえる相手が見つかった」、と言って喜んだのではありません。彼らは、「私だ」とおっしゃるキリストに圧倒されて、倒れてしまったというのです。
彼らはなぜ倒れてしまったのでしょうか。これは、神のお名前に畏怖する人間の姿です。
ダニエル書10:9で、神の声を聞いた預言者ダニエルが、倒れてしまった、ということが記されています。
「その人の話す声が聞こえてきたが、私は聞きながら意識を失い、地に倒れた」と書かれています。倒れてしまったダニエルを、神が引き起こして、さらに言葉をお聞かせになったとあります。
ヨハネ黙示録でも、イエス・キリストの姿を見たヨハネが、倒れてしまう、という記述があります。
「私は、その方を見ると、その足元に倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。『恐れるな。私は最初のものにして最後のもの、また生きているものである』」
キリストは人間の支配に負けたのではありません。神の救いの御業を進めるために、進んで兵士たちに服従することで、ご自分の支配を貫かれています。ヨハネ福音書は主イエスがすべてをご存じでありすべてのことをご自分の支配の内に置かれていることを強調しています。
今何が起こっているのか、キリストはすべてご存じでした。キリストは一歩前に出て、その場を支配されます。「私である」というのは、英語で言えば、I Continue reading →
ヨハネ福音書17:20~26
大祭司の祈りと呼ばれているイエス・キリストの祈りの最後の部分を読みました。これまでもお話ししてきたように、これはキリストの「執り成しの祈り」です。弟子たちのため、また弟子たちの言葉によってキリストを信じる人々のために、キリストは大祭司として神に執り成してくださっています。
イエス・キリストは神のもとから世に来られ、神の国の教えを説き、神の御業をお見せになりました。キリストの使命はそれだけではありませんでした。この世に神のもとへと続く立ち返りの道を切り拓くという大切な使命がまだ残っていました。文字通り、そのことに命を使われるのです。「神とキリストと信仰者が一つになる」、という救いの平和の完成へとこの世を導いていかれるのです。
旧約聖書の預言書イザヤ書に、預言者イザヤが見た幻が書かれています。
「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登りヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう、と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう』」
「終わりの日」とか「この世の終わり」と聞くと恐ろしいイメージがありますが、聖書が伝えるのは、信仰の民に続いて多くの人々が主の光の中へと立ち返っていく「救いの完成の時」です。
「主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」とこの世の人々は互いに言い合うようになる、とイザヤは預言しています。神の光の中を歩み、天の国を目指すイスラエルの民に向かって、多くの人が「私も一緒に行かせてください」という日が来るのです。
その時が迫っている、そしてその時に至る道が、キリストによって今まさに切り拓かれようとしています。それが、このイエス・キリストの祈りの時なのです。
1人の「良い羊飼い」が、「まだ囲いに入っていない羊」を取り戻し、一つの群れとなります。羊飼いと羊の群れが一つとなる、というのは、神とこの世が一つとなる、キリストの平和の内にすべての命が生きるようになるということです。
弟子たちはこれから「良い羊飼い」が神のもとから来てくださったことと、神のもとへと世を連れ戻してくださることを伝える使命を担うことになります。その弟子たちと、弟子たちに続いて福音宣教の使命を担うキリスト者のために、キリストはこの夜、執り成しの祈りをしてくださったのです。この夜のキリストの祈りは、今の私たちにまでも包み込んでいる、ということです。
この夜の祈りの言葉は厳しいものでした。弟子たちは、この世に残されることになります。しかも、この世に生きながら、この世に属さないことを願っていらっしゃいます。「信仰をもって楽しく、この世で楽しく生を謳歌しなさい」、というのではありません。世に属することなく、天の宝を目指し、キリストに従いながらキリストを証しする厳しさを含んでいることがわかります。
キリストはこの時、祈りながらのちのキリスト教会、私たちの姿をご覧になっています。神とご自分が一つであるように、世の民もご自分と一つとなるように、と願われています。神と信仰の民が一つとなるところ、それこそ、まさに教会の姿ではないでしょうか。
キリストの使徒パウロは、教会のことを、「キリストの体」と呼んでいます。目や鼻や口、体の部分それぞれに役割があるように、教会で生きる一人ひとりには神から与えられた尊い使命があることを伝え、「体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っています。そうやって、完全でない一人ひとりが集められ、キリストの御心を果たしていく共同体となるのです。
キリストの体の一部分として生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストの救いのお働き、招きの御業の一端を僅かであっても担っていく生涯を生きるということでしょう。たとえ小さくても、キリストの福音を携えて生きる、ということです。そしてそれは、キリストと共に生きる喜びを抱いて歩み続けるということです。それがそのまま福音宣教の生涯となるのです。
普通は、「イエスは神のもとから遣わされた方だった、あの方は神だった」、と聞いても誰も信じないでしょう。しかし、キリスト者が神と共に生きる姿は、この世に向かう大きな問いかけとなります。教会の民が互いに愛をもって仕えあい、自分以上に大切な何かを抱いて生きているということが、この世に「キリストは生きてあなたを招いていらっしゃる」という大きな言葉となるのです。
17:22「あなたが下さった栄光を私は彼らに与えました」
キリストは、父なる神から受けた栄光をすべての信仰者と共にしてくださいます。教会は、神がキリストにお与えになった栄光を既にいただいているのです。その栄光とは、24節にあるように、天地創造の前からイエス・キリストが栄光です。
自分の姿を顧みて、「一体自分のどこに栄光を感じることができるだろうか」、と誰もが思うでしょう。しかし、教会の民の一員として過ごす私たちの一日一日は、キリストの体の一部として、キリストの働きをそれぞれが担わせていただいています。これは間違いないことなのです。
自分の無力さを嘆くこともあるでしょう。キリストのために、教会のために自分はどれほどのことができているだろうか、と考えることもあるのではないでしょうか。しかし教会が一番恐れ、嘆かなければならないのは自分の無力さではなく、教会の内に愛が無くなる、ということです。仲たがいや分裂をして神の栄光を映し出さないことです。教会がこの世のつまずきになることほど、愚かなことありません。
「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」とキリストはおっしゃいました。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という命令です。キリストは弟子たちの足を洗われた後、「私があなた方を愛したように」とおっしゃいました。
これは、単なる道徳的な教えではありません。「キリストのように」愛する、ということです。友のために自分の命をお捨てになるイエス・キリストの愛に倣う、という命令です。それは、神と命を共にし、神の働きに自分を差し出すということです。
なんと厳しい命令だろうか、と思わされます。しかし、キリストは、おっしゃっています。
「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」
キリストが自分を愛してくださったように、互いに愛し合うこと、そこに真理があり、そこに本当の意味での自由があるのです。実はそのことが私たちにとって一番楽な生き方なのです。
私たちにとって、真理とは何でしょうか。本当の自由とは何でしょうか。「神、我らとともに在り」、インマヌエルという真理がキリストの御生涯を通して示されました。そして、神が共にいてくださるからこそ、私たちは罪の暗闇から解放され、自由とされています。
イスラエルの歴史は、解放を求める歴史でした。エジプトからの解放、バビロンからの解放。イスラエルの民をとらえてきたのは、罪の力でした。イスラエルは、いつでも、異教の偶像に心惹かれてしまい、罪の暗闇の中へと自ら足を運んでいきました。その先で待っていたのは、国の滅びであり囚われの生活でした。
そのような暗闇の中に、神は光をお見せになるのです。神から離れ、神を知らず生きる暗闇の中にあっても、まだ絶望ではありません。神はそのあなたに光の御手を差し伸べて、立ち返りの道を照らし、ご自身のもとへと招き続けてくださるのです。
ヨハネ福音書17:13~19
イエス・キリストの最後の執り成しの祈りを読んでいます。
キリストがこの世を去って行かれると、キリストを拒絶する人たちとキリストを受け入れる人たちに分かれることになる、ということ、また、弟子たちをはじめ、イエス・キリストを受け入れ信じる人たちは、キリストを信じようとしない人たちから憎まれることになる、ということが、祈りの中で言われています。
キリストはこの祈りの中で、ご自分に従う人たちとのつながりを願い求めていらっしゃいます。キリストがこの後十字架で殺されても、弟子たちとのつながりはなくならないように。弟子たちがキリストの道を歩むようになり、キリストがそうであられたように、世から迫害され憎まれても、守られるように。
イエス・キリストは、弟子たちが自分たちを迫害してくる「この世」から離れたり、迫害が無くなったりすることを祈られておられるのではありません。弟子たちがこの世に留まり、迫害の中にあっても神の守りがあることを願っていらっしゃるのです。
キリストが弟子たちにお教えになった「主の祈り」の中に、「我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉があります。私たちがキリストからいただいた祈りは、「誘惑のないところ・悪のないところに生きる」ことではなく、「誘惑と悪に負けない」ことを願うのです。
弟子たちは「この世に属していない」、とキリストはおっしゃいます。しかし、弟子たちが生きるのは、この世のただ中なのです。この言葉遣いに注意したいと思います。弟子たち・信仰者は、「この世の中に生きながら、この世のものとはならない」のです。キリスト教会は、この世にあるが、この世には染まらない・・・そのような信仰の群れなのです。
私たちが生きるこの世は、誘惑にあふれています。「誘惑」というのは、私たちを神から引き離す力です。聖書はその力を「罪」と呼んでいます。罪は、神など信じることなく生きる道をいくらでも示してきます。信仰者をいろんな方向に導こうとして「神など信じることなく、この道を行けば、もっと自由になれるじゃないか」、という誘惑です。
私たちには、「この世」で迫害があるのなら、「この世」から離れて、「この世」と無関係に生きる道だってあるでしょう。「キリスト者が、信仰ゆえに苦しめられるのであれば、苦しめてくる相手と距離を取ればいい」、そう考えるのではないでしょうか。信仰者だけが集まって、閉鎖的に排他的に生きればいいではないか、という考え方もあるでしょう。
反対に、「この世」に迎合する、というやり方もあります。自分たちの信仰を攻撃してくる人たち、イエス・キリストのお名前を受け入れない人たちがいるのなら、その人たちと同じになる、ということです。そうすれば、もう信仰ゆえの迫害を受けなくて済むようになるのです。この世の楽しみを、キリストを知らない人たちと同じように楽しむ、という道です。
パウロの手紙に、「食べたり飲んだり仕様ではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という、死者の復活を信じない人たちの言葉があります。パウロは、それを受けて、「悪い付き合いは、良い習慣を台無しにする」と書いています。
しかし、イエス・キリストは私たちにそのようなことを望まれたのではないのです。私たちには、様々な誘惑があります。主イエスがそうであったように、私たちも、世にありながら、世に属してはいないのです。
神の言は、この世を照らす光でした。キリストは、おっしゃいます。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」
明らかな誘惑が教会にも、クリスチャン個人にも与えられます。この世と自分を切り離そうとする力、もしくは、自分を世と同化させようとする力は働いています。
しかし信仰者は、キリストの光に照らされて、この世の中で、隠れることができないのです。この世に来た光に、この世の暗闇は勝てないということを、私たちは身をもって示していくのです。だから、キリスト者は世の中にとどまって生きることが求められているのです。キリストはその私たちのために、その最期の時間を執り成しの祈りに使ってくださいました。
キリストはご自分の弟子たちを、また弟子たちに続いてきたキリスト教会の信仰者たちのためにこう祈られます。
「真理によって、彼らを聖なる者としてください」
「聖なる者」というのは、「区別された者」という意味の言葉です。神のためにこの世から特別に区別された者、ということです。
旧約聖書を見ると、祭司・預言者・王が神によって聖別されていったことが記されています。彼らが選ばれたのは自分たち自身のこの世の栄光のためではありませんでした。その人たちはこの世の栄光ではなく、ただ神の御計画のために働くためにこの世から区別されたのです。
預言者エレミヤが神に召された時、このように声をかけられました。
「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別して、諸国民の預言者として立てた」
当時まだ二十歳前後だったエレミヤは答えます。
「ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」
エレミヤは神によって聖別されたことを恐れました。自分にはできない。若く、経験もなく、語る言葉も蓄えていないことをよくわきまえていたのです。
しかし、神はおっしゃいました。
「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」
エレミヤが神によって聖別されたのは、エレミヤが優秀で、素晴らしいことをしたそのご褒美としてではありませんでした。なぜ預言者に選ばれたのか。その選びの理由はわかりません。ただ、神はエレミヤにお決めになっていた、ということでした。エレミヤがどうあがこうが、嫌がろうが、神はエレミヤを召し出されたのです。
エレミヤが預言者として聖別されたのは、この世での幸せのためではありませんでした。ただ、神の御心のために働くため、ただ、神の言葉を人々に伝えるためでした。エレミヤが若者にすぎなくても、言葉をもっていなくても、彼は神の器として、その時その時語るべき言葉が神から与えられることになっていたのです。
エレミヤは預言者として苦しみました。神の言葉を伝えても、人々は自分を馬鹿にするのです。エレミヤがどれほど苦しんだか、彼は告白しています。
「主の言葉のゆえに、私は一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上ります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。私の負けです。」
エレミヤは神に訴えました。「もう無理です」。それでも自分の体の内から神の言葉がわきあがってきて、押さえつけられず「私の負けです」、と自分に与えられた使命を果たす道を歩み続けました。
エレミヤは、敵国バビロンに降伏するよう訴えると、売国奴として捕らえられてしまいます。バビロンが攻めて来てもう国の滅びが決定的になったとき、エレミヤはこれまでとは全く違う、「バビロン捕囚の先にある解放」という、救いの預言をすることを求められました。
彼はバビロンにエルサレムが滅ぼされるのを見ました。そして、エジプトに行って再起を図ろうとする人たちに無理やりエジプトまで連れて行かれてしまいます。エレミヤは、そこで偶像礼拝を始めた人たちを非難しなければなりませんでした。
イスラエルの偶像礼拝の罪を糾弾し、イスラエルの滅びを預言しなければならなかったエレミヤの預言者としての40年は、どれほど辛かったでしょうか。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれています。
神に聖別される、ということは、こういうことなのです。神から特別に地上の栄光を与えられて人々からの尊敬を受けるようなことではありません。ただ、神の御用のために、この地上から区別される、ということです。
主イエスはこの祈りの中で、弟子たちが聖別されるようにと願われました。つまりそのことは、キリスト教会である私たちも、この世から聖別されることを願われた、ということでもあります。
預言者エレミヤのように、神のために自分を差し出す中で、涙を流さなければならないこともあるかもしれない。キリストはその一歩のために、執り成して祈って下さるのです。
教会の迫害者であったパウロが、キリストの使徒として選び出される際、神はおっしゃいました。 Continue reading →