MIYAKEJIMA CHURCH

10月19日の礼拝案内

次週 礼拝(10月19日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書17:1~5

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番55番、361番、385番、頌栄541

【報告等】

◇11月30日(日) 東支区青年部が訪問

【牧師予定】

◇11月3日(月) 香川県高松教会にて さぬき島しょ部協議会

◇11月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道協議会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

10月12日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:25~33

イエスキリストと弟子たちが過ごされた最後の夜の場面は、ヨハネ福音書13章から17章にかけて描かれています。かなりの分量です。13章で、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたことが描かれ、17章ではイエスキリストの最後のとりなしの祈りの言葉が記録されています。その間にある14章から16章までの言葉が、直接イエス・キリストが弟子たちに語られた告別の言葉ということになります。

その14章から始まるキリストの最期の言葉は「心を騒がせるな」という一言から始まります。弟子たちの心は騒いでいました。先生がなぜ自分たちの足を洗ってくださったのか、弟子たちは戸惑いました。

ペトロは「師であるあなたが弟子である私たちの足を洗われるのですか」とはっきり言いました。その時の主イエスの答えは、「今私がしていることはわからないだろうが、後でわかるようになる」でした。そしてそのまま、一人一人の弟子たちの足を洗い、拭って回られたのです。

自分たちが今、何か特別な時間を過ごしている、ということを弟子たちは感じたでしょう。心を騒がせ、戸惑い不安になる弟子たちに向かって、イエス・キリストは「これから私と君たちは離れ離れになる」とおっしゃり、同時に、「けれども大丈夫だ」とおっしゃいます。

今日私たちは、14章から続くキリストの言葉の最後、16章の最後のところを読みました。イエス・キリストの弟子たちへ教えのまとめ・集大成ともなる言葉です。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」

心騒がせる弟子たち、また生きる不安を抱える信仰者たちにキリストはこの言葉を残してくださいました。

生きる中で逆風を感じる時、いつでも私たちの心は騒ぎ不安になり戸惑うのです。右を見ても左にいてもイエス・キリストの姿は直接見えません。キリストの存在を感じられない時、「自分は一人なのだろうか。神に見捨てられたのだろうか。キリストは自分に背を向けられていらっしゃるのだろうか」と不安になるのです。

この夜の弟子たちこそ、生きる中で不安を抱えた信仰者たちの姿そのものではないでしょうか。そして、そのような信仰者たちにとって、一番必要な言葉がこのイエスキリストの言葉なのです。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

聖書は「神我らと共にあり」というインマヌエルの喜びを伝えています。インマヌエルという真理こそが、聖書が全体を通して今の私たちに伝えようとしている福音・喜びの知らせなのです。

何か生き方に迷った時、何か悲しむべきことが起こった時、私たちの信仰の足元は揺らぎます。簡単にぐらつきます。イエス・キリストの歴史を見ると、目に見える神を求めて繰り返し偶像礼拝に走ったことがわかります。

私たちだって、何か不安なことがあれば目に見えてわかりやすい救いを求めるのではないでしょうか。そのような闇の中でこそ、イエス・キリストのこの言葉は福音の光として輝くのではないでしょうか。

「神我らと共にあり「イエス・キリスト我らと共にあり」

既に世に勝っていらっしゃる方が、世で苦難を生きる私たちと共にいてくださる、という約束が与えられています。

この約束をもって、キリストは弟子たちへの告別の言葉を締めくくられました。主イエスの弟子たちへの最後の言葉は励ましの言葉でした。

今日読んだ最初のところで、「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた」とおっしゃいました。確かに、主イエスはこれまでいろんな例えを用いてご自分が何者であるかということを示してこられました。

「私はまことのぶどうの木。あなた方はその枝である」

「私は良い羊飼いであり、良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」

「私は羊の門である。誰もこの門から入らなければ救いに至ることは出来ない」

しかし、この夜、弟子たちとの最後の別れに際して、主イエスはもうたとえを用いない、とおっしゃいました。もう弟子たちに何も隠しておく必要はないのです。キリストははっきりおっしゃいました。

「私は父の元から出て世に来たが、今世を去って父のもとに行く」

このように直接はっきりおっしゃったので、主イエスがこれから死ぬことになることが弟子たちも現実味を帯びて伝わったでしょう。

弟子たちは答えます。

「今は、はっきりと話になり少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で誰もお尋ねする必要のないことが今分かりました。これによってあなたが神の元から来られたと私たちは信じます」

弟子たちははっきりと、「この方こそ神の元から来られた方である」と信じました。

弟子たちの信仰告白と言っていい言葉です。しかし、これに対してイエス・キリストは、不思議な言い方をされています。

「今ようやく、信じるようになったのか」

私は一生懸命あなた方に私が何者であるかを伝えてきたけれども、ようやくここにきてやっとわかったのかという、キリストが弟子達の無理解に呆れていらっしゃるようにも聞こえる言葉です。しかしこの言葉は、元の聖書のギリシャ語を見ると、もっと単純な言葉です。

「今、あなたたちは信じるのか」

ようやく信じるようになったのか、という弟子たちの無理解を責めるような言葉ではありません。むしろ弟子たちが今、きちんと信じている、ということを確認されている言葉です。

そして、この言葉は、今の信仰は、次の瞬間どうなるだろうか、というキリストの思いを含んでいます。「今確かに君たちは私のことを信じている。しかしこのあとはどうだろうか」という意味合いの言葉なのです。

イエス・キリストはこの後十字架の上で孤独な死を遂げられることになります。しかしその十字架の前で一体何人の弟子たちが立っていたでしょうか。今、「あなたは神の元から来られた方です」とはっきり信仰告白をした弟子達は、この夜の内に主イエスの逮捕を見て、逃げていくことになるのです。

旧約の預言者ゼカリヤがこういう言葉を残しています。

「羊飼いを撃て。羊の群れは散らされるがよい」

真のイスラエルの羊飼い、良い羊飼いであるイエス・キリストはこの後、文字通り撃たれるのです。鞭で、釘で、十字架へと打たれていきます。そして、主イエスの羊である弟子達は散り散りに逃げ去ることになります。ゼカリヤの預言は実現するのです。

「今、あなたたちは信じるのか」

このようにおっしゃるキリストはどのようなお気持ちだったのでしょうか。主イエスは弟子たちがご自分を見捨ててしまうことを既にご存知でした。それでも今この瞬、弟子たちが自分を信じてくれているということを喜ばれたのではないでしょうか。 Continue reading

10月12日の礼拝案内

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書16:25~33

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番54番、240番、461番、頌栄541

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月5日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:16~24

イエス・キリストは弟子たちとの最後の夜、これから弟子たちにこの世からの迫害があることをおっしゃいました。そして同時に、聖霊の注ぎによって弟子たちが担っていく信仰が、この世を真理へと導いていくこともお伝えになりました。

信仰者のこの世での信仰生活が、聖霊の働きによってこの世全体をイエス・キリストへと向かわせていくということは、今を生きる私たちの信仰生活に大きな希望を与えてくれるのではないでしょうか。

この夜語られたイエス・キリストの弟子達への告別の言葉は、新しい出発に備えるように、という励ましでした。主イエスはこの後、弟子達から離れて行かれることになります。しかし、それで全てが終わりではないのです。その先にも弟子たちには歩むべき道がきちんと用意されているのだから希望を捨ててはならない、ということが語られました。聖霊の働きによって、弟子たちの信仰がこの世に希望をもたらすことになり、彼らの信仰がこの世を神の支配へと導くことになるのです。

しかし当然、この夜それを突然言われた弟子達は戸惑い、心が騒ぎました。主イエスがおっしゃっていることの意味が分からなかった弟子たちは、代わる代わる質問しました。ペトロが、トマスが、フィリポが、イスカリオテでない方のユダが、順番に質問しました。

「どこに行かれるのですか」「おっしゃっている道というのがわかりません」「御父を示してください」「どうして私たちだけにおっしゃるのですか」

主イエスは一つ一つそれらの質問にお答えになりましたが、今日読んだところを見ると弟子たちはやはり主イエスが何を伝えようとなさっているのか最後まで理解できなかったようです。

17節を見ると、弟子たちは互いに言い合っています。

「『しばらくするとあなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのかわからない」

混乱する弟子たちでしたが、主イエスにとっては、この時はそれで良かったのです。この夜、理解できなくても、後々、弟子たちが歩んでいく信仰の道の上で、この夜キリストから告げられた言葉を思い出し理解して行くことになるからです。

私たちも、その時はわからなかったけれども、今になって与えられていた神の導きに気づく、ということがあるでしょう。私たちの信仰がそうであるように、弟子たちにとっても、この夜は真の信仰の歩みへと続く途上だったのです。

主イエスは「しばらくすると」という言葉を何度も繰り返していらっしゃいます。今日読んだところの中でも7回繰り返されています。

弟子たちがこれから通ることになる信仰の苦難の時、つまりイエス・キリストとの別れと一生涯にわたるイエス・キリストの証する苦難の先で彼らは喜びが与えられることになることを約束されているのです。

「しばらくすればあなた方の悲しみは喜びに変わる」とキリストはおっしゃいます。「しばらくすれば」です。弟子たちこの主イエスがおっしゃる「しばらく」がどれぐらいの期間なのかが分かりませんでした。

信仰者であれば、「その『しばらく』というのはどれぐらいの期間なのか」と知りたいと願うでしょう。数日なのか、数年なのか、知りたいと願います。しかし、それは私たちにはわかりません。それはキリストにお任せしておけばいいのです。

主イエスは「今しばらく」という言葉をこれまでも繰り返してこられました。7章33節を見ると、ファリサイ派の人々が主イエスを捕らえるために下役たちを遣わした時のことが書かれています。

主イエスは下役たちにおっしゃいました。「今しばらく私はあなた達と共にいる。それから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは私を探しても見つけることがない。私のいるところにあなたたちは来ることができない」

人にはわからなくても、イエス・キリストはいつでも、すべてをご自分の支配の内に時を備えて救いの御業を進めていかれるのです。

主イエスがおっしゃっているのは何のことなのでしょうか。「しばらくの間」とここでおっしゃっているのは、どれだけの時のことなのでしょうか。「父のもとに行く」とはどういうことなのでしょうか。

これは間違いなく、主イエスが死に向かっていらっしゃるということを意味していました。それだけでなく、主イエスがここでおっしゃっているように、この世は主イエスの死を喜ぶということもお分かりでした。

それは弟子たちにとってはこれ以上ない痛みでした。そんなことを想像するのも嫌だったでしょう。主イエスが殺されるというのであれば、自分たちがここまで従って来たのは一体何だったのか、という思いになるでしょう。

しかしだからこそ主イエスは、「その痛みはやがて喜びに変わる」と前もって断言されるのです。「だから、来たるべき私の死について備えるように」、と強調されるのです。

「あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむがその悲しみは喜びに変わる」

私たちは、この後イエス・キリストが十字架に挙げられることを知っています。キリストの死を見てキリストの母マリアやマグダラのマリアは泣きました。しかしキリストの墓の外に来たマリアはふたりの天使から告げられます。「婦人を何故泣いているのか」

キリストの復活を告げられたマリアの悲しみの涙は喜びの涙へと変えられました。

痛みが喜びに変わる、と言う信仰の実りのことを、キリストは出産に例えていらっしゃいます。子供が生まれた喜びのために、それまでの苦痛は喜びに取って代わられるということ・・・信仰の痛みは、必ず信仰の喜びとなって実を結ぶのです。

詩編126編にこう歌われています。

「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる」

私たちの信仰生活はここまでどうだったでしょうか。

分かりやすい実りだったとは言えないと思います。キリスト教信仰をもっていたから、わかりやすい「ご利益」があった、というようなものではなったでしょう。

むしろ、信仰の危機の中を歩んできた。その中で、痛みも悲しみもあったけれども、振り返ると、神はそれを恵みへとつながる道へとしてくださっていた、と思える・・・そのような歩みだったのではないでしょうか。

信仰の痛みが、喜びへと変えられることになる、という恵みが、この夜、弟子たちに与えられた約束でした。普通は、信仰にそのようなことは期待しないのではないでしょうか。

神を信じたことで痛みがある、世からの憎しみが自分に向けられる、というのであれば、普通は信仰を求めたりはしないのではないでしょうか。反対に、「信じたらこんないいことがある、こんな利益がある」、ということを聞いた方が信じたくなるでしょう。

しかしキリストははっきりと、信仰による苦難を予告されます。そして、その信仰の苦難が、確かに弟子達にとって、また私たちキリスト者にとって、喜びへと変えられていくという逆説的な恵みを約束なさいます。

確かに、旧約聖書に出てくる預言者たちを見ても、新約聖書に記録されている使徒たち、教会のキリスト者たちを見ても、神の言葉を世に伝えるためにどんなに険しい道を歩んだか、ということが書かれています。

しかし、神に召された信仰者たちは、信仰の道を歩くのをやめませんでした。

アブラハムが息子イサクをささげるよう神から命じられた時、アブラハムは約束の地モリヤへとまっすぐに歩いた姿は印象的です。

生まれ故郷から召し出されて、様々な苦難を経たアブラハムは最後に、独り息子のイサクをいけにえとしてささげるよう言われ、何も言わず息子と二人で三日間旅をするのです。その三日の道のりはまさに信仰の試練、信仰の苦難でしょう。神を信じるからこその痛みでした。 Continue reading