4月10日の説教要旨

創世記15章

「日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(15:12)

イエス・キリストの十字架の痛み・苦しみを思う時を過ごしています。キリストの十字架は神がキリスト教会と新しく結ばれた愛の契約の儀式でした。キリストの十字架の意味をより深く知るために、先週に引き続き、創世記に遡って聖書を見ていきます。

アブラムは75歳の時に神に召され、自分の一族と故郷から離れ、はるばるカナンの地まで旅をしてきました。神を信頼し従ったアブラムには多くの祝福が与えられ、家が栄え、たくさんの家畜、財産に恵まれます。

しかしアブラムには、自分の祝福を受け継ぐ子供がいない、という空しさがありました。そのことを神に訴えた時、神はアブラムに子供と土地をお与えになることを約束されます。そしてそのしるしとして、契約を結ぶことを神は提案されました。

今日読んだところには、正に、神とアブラムが契約を交わす場面です。

12節を見ると、「日が沈みかけた頃」とあります。アブラムが契約の儀式の準備をしていると夕方になった、ということです。神がアブラムに満天の星をお見せになってから、日が昇り、また日が沈みそうになる時間まで、神とアブラムの語りはずっと続いていた、ということです。

私たちはここに、夜も朝も昼も夕方も、信仰者に祝福を与えようとなさる神のお姿を見ることが出来るのではないでしょうか。

その後すぐに神とアブラムの間に契約が結ばれて、アブラムに子供と土地が与えられる、ということが確かなものになりますが、その契約の儀式が最中、不思議なことが起こります。

契約の儀式をまさに始めようとする時に、アブラムが深い眠りに襲われたのです。アブラムは「恐ろしい大いなる暗黒」を見せられた、と記されています。ただ、眠くなって目を閉じた、というのではありません。祝福の契約の中で、なぜか「恐ろしい大いなる暗黒」が神から見せられた、というのです。

祝福の契約の儀式の中で光が見せられた、というのであればわかります。しかし、神は、アブラムに闇をお見せになったのです。

ここには、どのような御心があったのでしょうか。

神はアブラムに満天の星を見せ、「この星のように、あなたから信仰の民が生まれてくる」とおっしゃって祝福されました。そして、神は同時に、そのアブラムから生まれてくる信仰の民が通ることになる「恐ろしい闇」も、前もってアブラムにお見せになったのです。

アブラムから生まれる信仰の民イスラエルはやがて、400年にも渡って異邦の国で寄留者となり、そこで奴隷生活を・抑圧を体験することになる、と言われます。

神はこの契約の儀式の中で、これから起こることを全て示されたのです。

アブラムから信仰の民が生まれる、ということ。

その信仰の民は苦しい試練を通る、ということ。

そして最後に、その民は信仰の試練という闇の先で解放され、ここへと戻ってくる、ということ。

この夜アブラムに示された祝福は、複雑なものでした。子孫が与えられる、という単純な喜びだけではなかったのです。

アブラムからイスラエルという民が生まれ、イスラエルが苦難を通って祝福へと導かれる、という、アブラム自身が自分の生涯の中で見届けることが出来ないほど壮大な神の祝福のご計画がこの闇の中で示されたのです。

私たちは、「神から祝福をいただける」、と聞くと、すぐに自分の周りから問題がなくなって、すべての悩みと苦難が消えることのように考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、神が下さる祝福の中には、私たちにとって必要な試練も含まれているのです。

私たちは、出エジプト記を読んで、イスラエルがエジプトで奴隷にされた時の嘆きを知っています。神はそのイスラエルの嘆きを聞いて、エジプトからイスラエルを解放されました。しかし解放されたイスラエルはその後40年間荒野の旅を続けなければなりませんでした。その試練の先に、約束の地が用意されていたのです。

神の祝福は、人間の側の思いとは全く違った仕方で実現していきます。神の民イスラエルだから、教会だから、神に守られて何の苦も無く豊かになり、何の問題も心配もなく過ごせるようになる、というようなことが祝福ではないのです。

アブラムに示された祝福は信仰の試練・苦難を通った先にある祝福でした。

出エジプトの最後でモーセがイスラエルに荒野の旅の意味を告げます。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

イスラエルは荒れ野の40年という信仰の試練を通して、自分たちが神によって生かされている民であるということを学ばされたのです。約束の地はその学びの先にありました。

なぜ、神はこんなにも遠くにある祝福をお見せになったのでしょうか。16節の最後で、「アモリ人の罪が極みに達していないからだ」とおっしゃっています。

この時アブラムがいたカナンの地にはアモリ人が住んでいました。つまり、カナン人のことです。神は「アモリ人の罪はまだまだ大きくなる」とおっしゃいます。

アモリ人は偶像礼拝の罪を重ねていました。そして神は、アモリ人の罪が極みに達した時に、アブラムから生まれるイスラエルがこのカナンの地に戻って来て、真の神への信仰をもたらすことになるだろう、とおっしゃるのです。

神の壮大な祝福がここに示されています。

アモリ人の罪が、試練を経たイスラエルによって清められることになる・・・そのようにして真の神の民が増し加えられることになる、という、アブラムには想像もつかないような大きな計画でした。

さて、この、神とアブラムのやりとりを通してわかるのは、神は、信仰者に試練をお与えになる、ということです。そしてその信仰の試練は、祝福に至るための通り道なのです。神は、試練の中で、私たちを祝福を受けるにふさわしい者へと作り変えてくださいます。

私たちにとって、本当にしんどいのは、苦しみの意味が分からない時でしょう。なぜ自分が、なぜ自分の家族が、なぜ自分の愛する者が、なぜ家族の中で自分だけが・・・そのような心の叫びを誰もがもっています。神は、その私たちの心の叫びを聞きながら、荒れ野を共に歩いてくださるのです。

神の試練が無意味だ、ということはありません。荒野の中でこそ、神が共にいてくださることを私たちは見せられるのです。

アブラムに暗闇が臨み、これらの神の言葉が語られた後、二つに裂かれた動物の間を燃え盛る火が通り過ぎました。神とアブラムの間に契約が結ばれた、ということです。

その後、神はもう一度はっきりとおっしゃいました。

「あなたの子孫にこの土地を与える」(18節)

これは、「もうあなたの子孫にこれらの土地を与えた」と訳してもいい言葉です。元のヘブライ語では完了形なのです。「それはもう決まったこととなった」という言い方です。神の祝福の約束はこのようにして確かなものになりました。

さて、最後に、神がアブラムに示されたこの「闇」について考えたいと思います。アブラムに示された「恐ろしい大いなる闇」は、光へと通じる闇でした。出口のある闇です。

私たちにも、今、神から闇が見せられています。今、このレントの中で、イエス・キリストの十字架を見ています。ゴルゴタの丘で、キリストが十字架に上げられた時、「大地が暗くなった」、と福音書は記録しています。それこそ、我々罪びとに与えられた「恐ろしい大いなる闇」ではないでしょうか。

あのゴルゴタの闇の中で、キリストはご自分の血を流し、自らが生贄となって新しい契約をもたらしてくださいました。私たちに与えられた信仰の光は、あのゴルゴタの闇から始まったのです。アブラムに示された闇と同じように、それは単に恐ろしい闇ではなく、罪の許し・キリストの復活という光へと続く闇でした。

ヨハネ福音書を見ると、十字架に上げられる前の晩、キリストは弟子達に約束されています。

「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる」

イスラエルの荒野での40年が、約束の地へと向かう旅だったように、罪の闇から救い出された私たちも、今キリストが用意してくださった場所へと向かっていく旅を続けているのです。

ヘブライ人への手紙11章にこうあります。

信仰者たちは「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。・・・すなわち、天の故郷を熱望していたのです」

神がアブラムと結ばれた契約は、それは命がけの約束でした。神はご自分の命をかけて、創世記の初めから、御自分の民と共にいて、どんなことがあっても必ず救い出す、ということを約束されていたのです。

今、イエス・キリストという神の独り子の血が流され、契約が新しく結ばれました「私はあなたを愛する。私はあなたの神となり、あなたと共にいる」とキリストはおっしゃいます。

私たちはその神の愛の契約に対してどのように報いればいいのでしょうか。信仰の試練の中で痛みを覚えることがあっても、キリストの痛みを思い出して、神の元へと立ち返る歩みを続けて行きましょう。