3月1日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:25~30

兵士たちはナザレのイエスを十字架にかけ、その服を分け合いました。その後、彼らに残された仕事は、十字架の近くでイエスが死ぬのを見届けるだけでした。

罪人の家族や友人はその処刑を見ることが許されていました。許されている、というよりは、十字架刑は見せしめのための処刑法でもありますので、少しでも多くの人の目に触れるように考えられていました。

人々は罪人の十字架の上に掲げられた罪状を読むために、十字架に近くに寄らなければなりません。そうやって人々は十字架刑の怖さ、ローマ帝国に反逆したらどうなるか、ということを見せつけられたのです。

人々が十字架に近づくことが許されていますので、特にその罪人の家族や仲間が助けようとすることがないよう、十字架の下に兵士が立って、処刑を最後まで見届ける必要がありました。

今日私たちが読んだのは、兵士たちが十字架の下に立ち、主イエスが死ぬまでの時間を待っていた間に起こったことです。主イエスは、十字架に上げられ、息を引き取られるまでの数時間、わずかながら十字架の上で言葉を残されました。

ヨハネ福音書は、この時十字架の元にいた人たちに焦点を当てます。そこには4人の女性がいました。主イエスご自身の母マリア、その姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアの4人です。そしてもう一人、主イエスが「愛された弟子」もいました。

不思議なことに、ヨハネ福音書は、主イエスの母とその姉妹の名前を書いていません。その名前を知らなかったのではなく、あえて書いていないのです。

主イエスの母の名前はマリアでした。そしてマリアの姉妹は、他の福音書を見ると サロメという名前であったことがわかります。マタイ福音書とマルコ福音書を見ると、マリアの姉妹サロメは、主イエスの弟子のヤコブとヨハネの母でありゼベダイの妻であった、という細かい関係性まで書かれています。

それを踏まえると、この時十字架の下にいたこの「愛された弟子」は 主イエスといとこ同士であるゼベダイの子ヨハネであったということになります。主イエスの親戚、身内として、彼は伯母のマリアと、自分の母サロメと十字架の下にいたのでしょう。

しかし、ヨハネ福音書では、そのような名前や細かい関係性を書いていないのです。このことには、ヨハネ福音書独自の意図がありそうです。

ヨハネ福音書にはイエス・キリストの十字架の上における最後の言葉が記録されています。ほかの福音書には記録されていない言葉です。

主は十字架の上から言葉を残し、十字架の下にいる人たちに、何かを示されました。そのお姿を通してまず知っておかなければならないのは、十字架に上げられならがも、キリストはその場を支配しておられたということです。そこには間違いなく、神の救いの御支配があった、ということです。

私たちはなぜ、救いの御子がこのような死に方をしなければならなかったのか、と考えます。死に方、というよりは、「殺され方」です。なぜ、神がこの世をお救いになるために人としてお生まれになり、十字架でこのような残酷な殺され方をしなければならなかったのか、それが不思議でなりません。

「神は人間に負けてしまったということなのか。神の子であっても集団になった人間には勝てなかったのか」、と普通なら思うでしょう。しかし、神は全てを、この十字架の死に至るまでご自分の救いの御業の計画の中に含めていらっしゃいました。この十字架の上でキリストが口にされたいくつかの言葉にこそ、神の痛みに込められた御心が示されており、主イエスは十字架の上から道を示されたのです。

一つ一つ、見て行きたいと思います。

はじめに主イエスはご自分の母と、この福音書には名前が記されていない「愛する弟子」と呼ばれる人をご覧になりました。そしてご自分の母に向かって、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と「愛する弟子」を示されました。それからその弟子に「見なさい。あなたの母です」とおっしゃいました。「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。

普通であれば、主イエスはご自分の弟たちに言うべき言葉を、ご自分の弟子におっしゃっています。この時主イエスの弟たちはどこにいたのでしょうか。この時、弟たちは十字架の下にはいなかったのです。

主イエスは家の中では長男であったので、父ヨセフの死によってご自分が母と兄弟たちの生活を担って働いてこられました。しかし主イエスはある時から、福音宣教のために働き始められます。主イエスの弟たちは、兄がそのように突然預言者のような活動を始めたことを快く思わなかったようです。

ほかの福音書では、「自分たちの兄がおかしくなってしまったのではないか」、と主イエスを連れ戻しに来たことが書かれています。ヨハネ福音書では、7章5節に「兄弟たちはイエスを信じていなかった」とはっきり書かれている。

だから主イエスの弟たちは、この時十字架の下にいなかったのです。そこで、主イエスはご自分の「愛する弟子」にご自分の母のことを託し、母には、その弟子を自分の子のように頼るように、とおっしゃいました。

ヨハネ福音書は、なぜこのようなやり取りを記録しているのでしょうか。キリストは、ご自分の死後の母マリアの生活を心配して、そこにご自分の弟たちがいないので仕方なく弟子に母の面倒を見るように、とおっしゃった、ということなのでしょうか。

主イエスがどのような意味でこれをおっしゃったのか、福音書は詳しく説明をしていません。

はっきりとこの言葉の意味の解説はありませんが、間違いなく言えることは、神が御子イエス・キリストに託された使命は、この十字架の死によって途切れることはなかった、ということです。母マリアの生活をご自分の「弟子」に託された、ということの中に、キリストの使命が弟子たちに引き継がれていく様を見ることができるのです。

この弟子の言葉や業が、やがて「神の息・聖霊の風」によってキリストの言葉・キリストの業として用いられていくのです。そして、地縁や血縁を超えた、信仰の家族としての姿が立ち上がっていくことになります。

マルコ福音書で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私の母、私の兄弟とはだれか・・・神の御心行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」

十字架のもと、信仰の家族としての一歩が主イエスの言葉によって作り上げられたのです。

そしてこの後、主イエスは二つの言葉を短く発していらっしゃいます。「渇く」「成し遂げられた」という言葉です。

これらも、一つずつ見て行きたいと思います。

主イエスは、「渇く」とおっしゃいました。十字架の罪人は地中海の暑さの中、呼吸が十分にできず、喘ぎ苦しみ、最後は脱水になって喉が渇いてきます。しかし、ここでの主イエスの言葉は、ただ喉が渇いて漏れ出た言葉、というだけのものではないようです。

「イエスは、全てのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」、と書かれています。暑くて喉が渇いたので「渇く」とおっしゃったのではありません。全てのことが「成し遂げられた」のを知って、「渇く」とおっしゃったのです。

「成し遂げられた」というのは、全てが「終わった」という意味もあります。そして福音書は、「こうして、聖書の言葉が実現した」と書いています。主イエスが十字架の上で「渇く」とおっしゃったのは、何かの預言の実現した、ということでしょう。

これは詩編22:16の実現でした。詩編22編は、信仰者の苦しみの祈り・訴えの詩です。

「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上あごに張り付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」22:16

詩人は神に自分の苦しみをそのように訴えています。キリストは、十字架の上で、あの詩編22編の苦しみの詩人を体現されているのです。

私たちは覚えたいと思います。この方の十字架の上での渇きは、本当は世の全ての人が神の前に感じなければならないものでした。信仰者の苦しみの渇きを、主イエスは十字架の上で全て担ってくださっているのです。罪による渇きである、ということです。

十字架刑に処せられた罪人は喉が渇くのでそこには酸い葡萄酒を満たした器が置かれていました。人々はこのぶどう酒をいっぱい含ませた海面をヒソプにつけてイエスの口元に差し出しました。喉が渇いた主イエスに、人々が水葡萄酒を飲ませ、それを受けて主は「成し遂げられた」とおっしゃいました。

これにはどのような意味があったのでしょうか。主イエスは18章11節で「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」とおっしゃっています。

このことも聖書の実現だったのです。ヒソプは出エジプト記で、神とイスラエルが契約を結んだ時に用いられた植物です。

「神はイスラエルの神となり イスラエルは神の民となる」という契約を結ぶ際、モーセはヒソプに動物の血をつけ、それを民に振りかけました。

イエス・キリストは、このような仕方でご自分が生贄の子羊となられたのです。過ぎ越しの子羊として、キリストは世の罪の渇きを一身に担い、ご自分の血によって新しい神との契約を結ぼうとなさったのです。

主イエスはこの葡萄酒を受けて全てが終わり、全て「成し遂げられた」とおっしゃいました。「終わった」という意味の言葉です。傍から見ていて、「全て終わった」と叫んだのを聞いた人たちは、イエスは自分の計画が失敗に終わったことを嘆いて「終わった」と言ったと思ったのではないでしょうか。

十字架の周りにいる人たちは主イエスに痛みを与え、侮辱し、その死を待っていました。「イエスは自分の命が終わることを、自分の人生を嘆いている」と思ったでしょう。

しかし、そこには神の御支配がありました。十字架の周りにいる人たちも含めて、今新しい契約が結ばれようとしているのです。主イエスに殺意を抱き、十字架に上げた人たちをも含めて、神の御支配の内にあるのです。

イエス・キリストは、全て、ご自分の支配のうちに救いの御業を成し遂げられました。ヨハネ福音書は、そのことを描き切っています。

ヨハネ福音書はこのイエス・キリストの十字架の場面で、一度も受身形の言葉を使っていません。イエスはこのように「された」という書き方をしていないのです。全て、イエス・キリストがご自分の意志でこうした、という能動形で書いているのです。

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と主イエスはおっしゃいました。イエスキリストは殺されたのではなく、自らご自分の命を羊のために投げ出されたのです。

イエス・キリストは14章の16節でおっしゃっています。

「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし。あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからもあなた方の内にいるからである。私はあなたがたをみなしごにはしておかない。」

主イエスは息を引き取られました。しかし、残された信仰者には聖霊が注がれ、みなしごにはならないことを約束してくださっていました。私たちは今、そのことを知っています。キリストが聖霊を私たちにくださったからです。今私たちはイエス・キリストが神の子であられたように、聖霊によって神の子とされています。

ガラテヤ書4:6

「あなた方が子であることは、神が「アッバ父よ」と叫ぶ御子の霊を私たちの心に送って下さった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく子です。子であれば神によって立てられた相続人でもあるのです」

私たちは神の救いの御計画の相続人です。キリストからいただいた、神のもとに全ての人を招くという大切な使命を相続しています。その使命に生かされている私たちは、決してみなしごとはならないのです。キリストが、全ての渇きを十字架の上で担ってくださいました。

次の一歩は、聖霊が定めてくださるのです。私たちの信仰の歩きだしは、主の十字架の下から始まっているのです。