使徒言行禄3:1~10
「ペトロは言った。『私には金や銀はないが、もっているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」(3:6)
聖霊が注がれたキリストの使徒たちは、人々の前で不思議な業としるしを行い、「あなた方が十字架で殺したイエスこそ、メシア、救い主だったのだ」と伝えました。使徒たちの業を見、言葉を聞いた「全ての人に恐れが生じた」と聖書に記されています。人々は、聖霊によって新しくイエス・キリストという名前の元に集められた教会の中に、人間を超えた力の働きを見たのです。
今日私達は、ペンテコステに聖霊を注がれたキリストの弟子、ペトロとヨハネが神殿で施しを乞うていた足の悪い人に声をかけ、イエス・キリストのお名前によって癒した場面を読みました。
ペトロとヨハネがここで足の悪い人をキリストのお名前によって癒し、立てるようにしたことで、人々の間にまた「恐れ」が生じました。私たちは、信仰の業は、人々に本当に恐れるべきお方を示していくことである、ということを見せられているのではないでしょうか。
この日、ペトロとヨハネが、午後三時の祈りのために神殿に上って行きました。私たちはまず、このことに驚かされるのではないでしょうか。ペトロもヨハネも、イエス・キリストが逮捕される時にすぐにキリストを見捨てて逃げた人たちです。ペトロは、「ナザレのイエスなんて人は知らない」と否定までして、自分の身を守りました。主イエスが十字架で殺されたことで落胆し、自分たちにも害が及ぶのではないかと恐れ、一か所に集まって、誰にも見つからないように肩を寄せ合っていた弟子達です。
そんなペトロとヨハネが、聖霊を受けると部屋から出て、使徒としてイエス・キリストの復活を伝えるために堂々と外に出て、「あなたがたが殺したイエスこそ、メシアだったのだ」と伝え続けたのです。そして午後三時に、堂々とエルサレム神殿に通って祈りを捧げていたのです。あの弱かった弟子達が、です。
あの夜主イエスを見捨てたのとは別人のようになったペトロとヨハネの姿がここにあります。この人たちをここまで変えた力があった、ということ、そして彼らを変えたのと同じ力が私たちにも働いている、ということに私たち自身も、恐れを感じるのではないでしょうか。
さて、二人は、神殿の門のそばに座って、そこで神殿の境内に入っていく人たちに施しを乞うている人を見ました。その人は生まれながらに足の不自由な人でした。この人は、毎日、誰かにここまで運んできてもらって、自分が生きていくためのお金を人々に求めていました。
この人にとって、そのことが、「生きる」ということでした。神殿の門に座って施しを乞うこと、それがこの人にとって「生きる」ということであり、「生活する」ということだったのです。
この人が神殿に通っていたのは、祈るため・礼拝するためではありません。この人にとって神殿は、祈る場所ではなく、そこに入って行く人たちから施しを受けるための場所でした。
この人にとって、礼拝する、とか、祈る、という気持ちは他の人たちよりも希薄だったのではないでしょうか。それよりも、礼拝に行こうとする人たちから得る自分の生活費の方を考えていたでしょう。
その人の前にペトロとヨハネが立ちました。
「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った」とあります。二人はこの足の悪い人を「じっと見」ました。
そして、「私たちを見なさい」と言われたこの足の悪い人も、ペトロとヨハネを見つめ返しました。「何かもらえる」と期待したのでしょう。
しかし、ペトロは言いました。
「私たちには金や銀はない」
この一言は、足が悪い人を落胆させたのではないでしょうか。
「それでは一体なぜ『私達を見なさい』などと言うのか、何を期待すればいいのか・・・」
ペトロは続けてこう言いました。
「しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
ペトロは右手をとってこの人を立ち上がらせると、この人は踊りあがって立ち、歩き出した。この人は、金や銀よりも価値のあるものをキリストの使徒たちから与えられました。
ここに、私達は、この癒しの業の象徴的な意味を見ます。ペトロとヨハネは、この人に手を差し出して、「立ち上がらせた」とあるが、これは元の聖書では「起こした」という言葉がつかわれています。
これはイエス・キリストの復活に使われている言葉です。私たちは、立たされた人に、キリストの名前を知った者として新しい命に生き始める信仰者の姿を、ある意味では信仰者としての「復活」の姿を見るのです。
足が悪かった人がキリストの名前を知り、最初にしたことは何だったでしょうか。神殿に入る、ということでした。
今まで、この人にとって、神殿は他の人たちが入っていく場所でした。しかし、キリストを知った今、この人にとって神殿は、自分が行く場所、自分が礼拝する場所へと変わったのです。
キリストを知った人・キリストに出会った人がまず何をするか、それは礼拝です。真の神の元へと導かれたことを知り、祈るのです。そのことが、「新しい命を生きる」、ということでした。
足を癒された人はこれまで毎日神殿の門に来て、神殿に入ろうとする人たちから「施しを」もらおうとしていた、ということが3節に記されています。今までこの人が求めていたのは「施し」でした。
この「施し」というのは、聖書の元の言葉を見ると「憐み」という言葉です。この人が求めていたのは「憐み」だした。毎日、人からの「憐み」を求めて生きてきた人でした。そして人からの「憐み」というのは、「金や銀」でした。
そこに、キリストの使徒が来て、「金や銀に勝るもの、イエス・キリストのお名前をあげよう」と言います。この人はここで、神・キリストからの「憐み」をいただきました。
それは、この人が期待していたもの、人間からの「憐み」とは全く違うものでした。「人からの金や銀をもらって生きる者」から、「自分の足で礼拝へと向かう者」とされたのです。この人は、キリストの証人とされました。
ペトロは、金や銀に勝る価値のあるものをこの人に施しました。それは、イエス・キリストのお名前、「キリストの憐み」でした。キリストの名を知った人は、変えられます。「自分に目を向けてほしい」、と思っていた人が、「自分を通してキリストに目を向けてほしい」、という思いで生き始めるのです。
この出来事は、一人の人がキリストの名によって癒された、というだけで終わりませんでした。起こされたこの人自身が、神を讃美しながら、ペトロたちと一緒に境内に入って行きました。そして先に神殿の境内に入っていた人たちは、後から、この人が踊りながら入って来たのを見て、我を忘れるほど驚いたのです。
キリストの名前によって起こされたその人は、ただそこにいるだけで、キリストを証しする者となりました。
私達は、福音書に出てくるレギオンを思い出すことができると思います。
ある人が、悪霊の大群レギオンに取りつかれていました。イエス・キリストがその人の下にやって来て、その人をレギオンの支配から救いだされます。悪霊レギオンの支配から解放されたその人は、その地方一体を巡って、自分に起こったことを人々に伝えていきました。
自分がキリストに救われた者として生きる、そのことで、人々がイエス・キリストを知るようになったのです。これは、私達も同じことです。
私たちは自分の力でイエス・キリストに出会ったのではありません。キリストの方から来てくださいました。そしてキリストを受け入れた・・・それだけです。
聖霊の働きの中で、自分の力に勝るキリストの名前を知り、キリストの恵みの支配の中で生きる者とされたのであれば、後は、キリストを信じ、キリストを求めて生きればいいのです。それが、そのまま証の生活となります。
ペトロは神殿の境内で驚いている人たちに向かって、「なぜ驚くのですか」と言っています。「私達がやったのではない。神がなさったことだ」と言います。
キリストの使徒たちがすごかったのではないのです。彼らには実は何の力もありません。ただの人間です。聖霊が、使徒たちを通して働き、キリストの業を行っているだけです。教会の働きとは、そういうものなのです。
私達は、使徒たちによって起こされたこの人に、自分の姿を見ます。私たちは、自分の弱さを知らずにキリストに出会うことはありません。自信満々に、自分こそキリストに相応しいと勝ち誇って洗礼を受ける人はいないでしょう。皆、自分が罪びとであることに打ちひしがれ、罪の許しを乞うて洗礼を受けるのです。その先で私たちは新しく生きる者とされます。
使徒パウロはローマの信徒たちに、手紙の中でこう書いている。
「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです・・・あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」
私たちはキリストとの出会いによって、自分のことばかり見る生き方から、神に対して生きる者へと生まれ変わりました。そして、「このような自分を通して、神の恵みは示されていくのだ」、という聖霊の不思議を思います。
パウロはコリント教会にこう書いている。
「神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」
キリストを知らない人たちは、私達がキリスト者として生きる姿に、イエス・キリストという名前を見るようになります。パウロが言うように、私達はキリストをまとい、キリストの香りを放っているからです。それは私達がすることではなく、神が私達を通してそうなさっていることです。
ヨハネ9章に、主イエスと弟子達との会話が記されています。ある人が目が見えないのを見て、弟子達が主イエスに尋ねます。
「この人が目が見えないのは誰の責任ですか」
主イエスは、「誰の責任でもない。神の御業がこの人を通して現れるためである」とおっしゃいました。弟子達にも、そして目が見えない本人にも隠されていた恵みの計画があったのです。
私たちは、神殿で足を癒された無名の信仰者のように、ただキリストに出会った者として、ただキリストを知った者として生きて行けばいいのです。難しいことではありません。イエス・キリストというお名前を知って生きる、それだけでキリストを証しする歩みとなります。
神の御業は、何も持たない弱い信仰者を通して現わされます。聖霊が使徒たちを用いたように、私たちの礼拝・祈りを用いて、キリストの香りは運ばれていきます。