6月5日ペンテコステ礼拝の説教要旨

使徒言行禄4:1~14

「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(1:12)

ルカ福音書の13章に、エルサレムをご覧になったイエス・キリストが嘆かれたことが記されています

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鶏が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

イスラエルの歩みが神の前にどのようなものであったかということが、このキリストの嘆きの中に全て込められています。神は、ご自分から離れていこうとするイスラエルを何度も何度もあきらめずに集めようとして来られました。

旧約聖書には、預言者たちが神から言葉を預かってイスラエルに伝え続けたことが記されています。預言者たちは、「あなたがたは、神から離れてしまっている。神に立ち返れ」、と言い続けました。

しかし、そのことが、逆に預言者に対する迫害につながって来ました。神の言葉を伝えるということは、「あなたは神の御心から離れてしまっている」ということを警告することであり、批判することだからです。神の言葉は、誰にとっても耳に痛い言葉であり、自分こそ正しいと信じている人ほど不愉快になります。

今日私たちが読んだ場面でも、同じようなことが起こっています。旧約時代の預言者たちが支配者たちからされたのと同じように、キリストの使徒たちも迫害されます。

この時のユダヤの指導者たちはペトロとヨハネを危険視しました。二人は、神殿の門で物乞いをしていた足の悪い人をキリストの名前によって癒しました。民衆はそれを見て驚き、使徒たちの言葉に聞き入りました。

ペトロとヨハネは、旧約の預言者のように、人々にイエス・キリストへの立ち返りを求めました。

「神は全ての預言者の口を通して予告して来られたメシアの苦しみを、このようにして実現なさった、だから悔い改めて立ち返りなさい・・・あなたがたは預言者の子孫であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です」

4節には「二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が5千人ほどになった」とあります。二人は、たった一日で、これだけの人々に大きな影響を与えたのです。指導者たちは、神殿で死者の復活を語るペトロとヨハネの言葉に、民衆が熱心に耳を傾けていたことを危惧しました。

神殿守衛長とサドカイ派の人々は、神殿の境内で民衆に話すペトロとヨハネ捕らえて牢に入れた。そして牢に入れられた使徒たちは、最高法院の人たちと直接向き合うことになったのです。

議員、長老、律法学者、そして大祭司とその一族がペトロとヨハネの二人を取り囲み、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問しました。

ユダヤの指導者たち・最高法院の人たちにとって神殿は自分たちの神殿だった。自分たちの支配の中で、ペトロとヨハネは勝手なことを人々に教えていたのです。指導者たちは、祭司だけが神殿の中心の至聖所に入ることが許される特別の権威をもっていると思っていました。それなのに、ペトロとヨハネは旧約時代の預言者たちのように、またイエス・キリストにように、神の権威をもって神殿で言葉を語りました。

ペトロとヨハネを逮捕したのは、サドカイ派の人たちでした。ユダヤ教の数ある派閥の中でも、サドカイ派の人たちは、死人の復活を信じていませんでした。ペトロとヨハネはエルサレム神殿で、十字架で殺され、「復活なさったナザレのイエスこそメシアである」と説いていたのを聞いて、見過ごすことが出来ませんでした。

逮捕され、最高法院の中で、「何の権威で・名でこんなことをしているのか」と尋問されたペトロは何のためらいもなく、「自分たちはイエス・キリストの名によって神殿で癒しを行い、キリストの名によって語っているのです」と告げました。

私たちはこのペトロの姿に驚くのではないでしょうか。ペトロとヨハネを取り囲んでいた最高法院の人たちは、主イエスに死刑を宣告した人たちです。

ペトロはこの人たちを恐れ、逃げました。最高法院の人たちが主イエスを裁判にかけている時、大祭司の屋敷の庭で「私はイエスなどという人は知らない」と三度否定しました。

キリストが逮捕されたあの夜逃げ出したあのペトロが、今最高法院の人たちの真ん中に立って、堂々とイエス・キリストを証しています。主イエスを見捨て、主イエスを知らないと言ったあのペトロとはまるで別人のようではないでしょうか。

何がペトロを変えたのでしょうか。

8節には「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。

ペトロは聖霊によって変えられたのです。これは主イエスが以前弟子達におっしゃった通りです。

「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」

キリストがおっしゃった通り、ペトロは最高法院の権威者たちに囲まれ、普通なら震えあがり、縮こまってしまうところを、堂々とキリストを証します。ペトロには、そして教会には、聖霊と共にキリストの証の言葉が与えられたのです。

キリストはこうもおっしゃいました。

「わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」

旧約時代、預言者がそうだったように、私たち教会は神の言葉を伝えることで全ての人に憎まれます。キリストご自身がおっしゃったように、私たちはキリストの名のために全ての人に憎まれるのです。

しかし、キリストは、それでも「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。命を勝ち取りなさい」とおっしゃっています。私たちは自分を憎む人たちのためにとりなし、神の元へと招きます。そのための言葉は、聖霊が備えてくださるのです。

私たちは、今、キリストをこの世に証する群れとして生きています。キリスト教会は、自分たちの思いや熱心さによってできているのではありません。天から注がれた聖霊によって祈りが集められ、語るべき言葉をいただいて、今この瞬間を生きているのです。

さて、ペトロは最高法院の人たちに向かってはっきり言いました。イエス・キリストのことを「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」

必要ないと思って捨てたものが、実は一番大切なものであり、そしてその捨てられたものから新しいものが生まれてくるという旧約聖書の言葉を引用して、痛烈に最高法院の人たちの信仰的な無知を指摘しています。「あなたがたが殺したイエスこそメシアだったのだ」ということを暗に告げているのです。

これに対して、13節には「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」と記されています。

最高法院の人たちは驚いたでしょう。ペトロとヨハネが立派で有名な律法学者だった、というのであればわかります。しかし、この人たちはガリラヤの漁師で、聖書の専門家でもなく、むしろ、「無学な普通の人」だったのです。そんな二人が、最高法院の人たち、聖書の専門家たちに対して堂々とイエス・キリストを証しをしました。

パウロはコリント教会に、こう記している。

「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良いものが大変わったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学なもの・・・選ばれました。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」

14節には「しかし、足を癒していただいた人がそばに立っているのを見ては、一言も言い返せなかった」とあります。聖霊は、証の言葉と一緒に、しるしも用意してくださいます。ペトロとヨハネの二人のキリストの使徒を前にして、最高法院という身分の一番高い人たちは黙るしかなかありませんでした。

教会には、言葉だけでなく、しるしも天から与えられています。そのことこそが、教会の強さなのです。

イエス・キリストが神殿で神の国の教えを説かれた時に、律法学者たちから質問をされました。「あなたは何の権威でこんなことをしているのか」

キリストの使徒たちも、神殿で神の言葉を語り、同じ質問をされました。「一体何の権威であんなことをしたのか」

「何の権威であなたはこんなことをしているのか」というのは、キリスト者である以上、いつの時代でも問われることなのです。私たちはその時に、言うべき言葉が天から添えられます。私たちの答えは決まっているのです。

「十字架にかけられて殺され、神が復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの権威によって今ここでそのキリストを証しています」

一回、一回の礼拝を通して、私たちは世に向かって証の姿を見せています。大いに聖霊に用いていただきましょう。私たちはキリストの名によって立たせていただき、歩ませていただき、生きることが許されているのです。キリストの名のために用いていただけるよう、聖霊に委ねて行きましょう。