7月3日の礼拝説教

使徒言行禄7:54~8:3

「『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」ステファノはこう言って、眠りについた。(7:54)

何千人もの規模になった教会は、12人の使徒たちだけでは秩序を保つことができなくなりました。そこで教会は新しく7人の世話係を選び出し、12人の使徒たちがみ言葉の奉仕に専念できるようにしました。

選ばれた7人は、ただの世話係ではなく、キリストの復活を伝える使徒としての働きも担いました。7人の内の一人、ステファノもまた、民衆の間でイエス・キリストの証言を続けていました。

民衆の一部の人たちは、ナザレのイエスという人が復活したということを疑い、死者の復活を聞くことを快く思わず、ステファノに議論を仕掛けてきました。しかし、ステファノが「知恵と霊とによって語るので、歯が立たなかった」と記されています。

そこでステファノに言い負かされた人たちは、民衆をそそのかして「私たちは、ステファノがモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせたのです。もちろん嘘の情報です。このことで、ステファノは逮捕され、最高法院へと連行されてしまいます。

ステファノは、大祭司から「訴えの通りか」と尋ねられました。彼は神がどのようにモーセを導かれたのか、そして、どの時代のイスラエルの指導者も、モーセのように神がお選びになった預言者たちの言葉を受け入れなかったことを語ります。そして、最後に、イエス・キリストの復活を受け入れない最高法院の人たちに向かって厳しくこう言いました。

「あなたがたはいつも聖霊に逆らっています」

「預言者を迫害した先祖と同じように、今や、あなたがたは律法に背く者となっています」

イエス・キリストの復活を信じようとしない最高法院の人たち・イスラエルの指導者たちは「預言者を迫害して来た先祖と同じだ」と言い切ったのです。

ステファノは人々の怒りを買い、石を投げられ、殺されてしまいます。ステファノの処刑をきっかけに、この日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、キリスト者たちは皆エルサレムの町からユダヤとサマリアの地方へと追い散らされてしまいました。ここまで成長を遂げてきたキリスト教会は、ついにここにきて、大迫害を受け、解体されてしまったのです。

教会はもうここで終わりなのでしょうか。

そうではありませんでした。

ステファノの殉教は、不思議な仕方で聖霊に用いられていくことになります。私たちは、不思議な福音の広がり、不思議な教会の成長を、この使徒言行禄の中に見ていくことになります。

ヨハネ福音書に、こういうキリストの言葉があります。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」

キリストを信じ、教会のために働いた結果、ステファノがこのような悲劇的な殺され方をした、ということは私たちに様々なことを考えさせるでしょう。信仰者が、その信仰ゆえに殺されてしまうとは、なんと報われないことか、と思います。

しかし、ステファノの殉教は、何かを新しく生み出しています。ステファノの死を通して、新しいキリストの証人が生みだされていきました。そしてこの日を境に、福音がエルサレムから外へと、世界へと広まっていったのです。

ステファノが殺されるのを、一人の若者が見ていました。サウロという人です。彼はステファノに石を投げる人たちの上着の番をしていました。サウロは、ステファノを殺すことに賛成していたのです。

この人は後にキリストに召され、キリストの使徒となって働き、殉教するその日まで、教会のために生涯をささげることになります。後のパウロです。ステファノという一人の殉教者が、パウロという新しい一人の殉教者を生みだすことになったのです。

神は、サウロを召される際、こうおっしゃいました。

「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」

教会を迫害したサウロは、「キリストのために苦しむため」に召し出されることになる。サウロは、やがてパウロと呼ばれるようになり、その言葉通り、キリストのために苦しみながら身を捧げました。鞭で打たれたり、石を投げられたり、船で難破したり、盗まれたり、ということが数えきれないほどあったことを、自分の手紙の中で書いています。

しかし、パウロは後に、手紙の中でこうも書いています。「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」

パウロは教会を迫害する者から、教会のために苦しむ者へと変えられました。それを彼は「神に召された恵み」であると言います。そして「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」とも言っています。

「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日の私があるのです」

ステファノは一粒の種となり、地に落ち、一人の使徒を実らせました。ステファノの死は、パウロという新しい使徒を生みだしたのです。教会を迫害していた人を、教会のために働き苦しむことを喜ぶキリストの使徒へと変えていきました。

それだけではありません。ステファノを殺した人たちは、キリスト者たちをエルサレムから追い散らしました。しかし散らされたキリスト者たちは、迫害から逃れた先で、キリストの十字架と復活を伝えていったのです。その福音は、サマリア地方にまで伝えられました。

当時、ユダヤとサマリアの人たちは、お互いに交流がありませんでした。しかし、サマリアの人たちは、ユダヤから来たキリスト者たちが行う業を見、キリスト者たちの証を聞いて、喜んで福音を受け入れたのです。

教会に対して迫害が起こり、キリストの使徒が殺され、せっかく何千人にまで大きくなった群れが散り散りにされてしまったのを見ると、大きな損失のように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。聖霊の働きは、そこから、新しい芽吹きを生み出していったのです。

さて、私たちは、今日読んだステファノの姿を通して、信仰を抱いてこの地上の命を終える「殉教」ということについて考えたいと思います。ステファノは、キリスト教会で最初の殉教者でした。

殉教というのは、信仰のために命を落とすことです。今の世界では、狂信的な思想に囚われて、他の人たちを巻き添えにして自分が死ぬことまでが殉教と考えられがちですが、それは聖書が記している殉教の姿ではありません。

そもそも、聖書で言われている「殉教者」という言葉は、「目撃者」という意味を持っています。自分自身を超えた真理を目撃した人、キリストを見た人、神を見た人、という意味が含まれているのです。神から見せられた真理に自分の命・生涯をかけた人、という意味で、ステファノは、「殉教者」でした。

ステファノは何を目撃したのでしょうか。人々から石を投げられる際、ステファノは天上のイエス・キリストを見ました。最高法院の中でイエス・キリストを証したステファノの顔は、「天使のようだった」、と記されています。そして最高法院の人たちに言葉を語り終えると、「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見た」と記されています。

ステファノは確かに殉教者でした。しかしそれは単に、「信仰のために殺された人」、ということではなく、「自分の命に勝る永遠の命を目撃した人」という意味で殉教者だったのだ。

私たちは信仰を通してしか見えない何かがあります。キリストを信じた先でしか見えてこない世界があります。

ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」「(信仰者たちは)自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです・・・すなわち天の故郷を熱望していたのです」

信仰者たち・殉教者たちは、天の故郷を見ていた人たちでした。私達にも、キリストを信じなければ、決して歩むことがなかった道・選択することがなかった決断があったでしょう。そのように、キリストを信じなければ、見えてこない天の故郷があるのです。

聖霊は、私たちをキリストへと導き、そして私たちがやがて帰る天の故郷へと導きます。聖霊は、私たちを目撃者としてくださいます。私たちの信仰の目を通して見せてくださるのです。信仰を通してしか見えない、天上へと続く道を見せてくださいます。

聖霊を通して天の故郷を見た人は、その生涯を通じて神に用いられます。その命が尽きたとしても、私たちの信仰の足跡は、後に続く人たちのために道しるべとなります。イエス・キリストがそうだったように、ステファノがそうだったように。

教会は、私たちの信仰は、迫害では終わりません。迫害を通して、苦難を通して、聖霊が福音の種を不思議な仕方で育てていく奇跡を見せられていくのです。

最後に、ステファノの死に際の言葉を見たいと思います。

「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言いました。そして「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言いました。ステファノはこう言って眠りにつきました。

この言葉は、十字架でイエス・キリストがおっしゃったのと同じです。キリストは、ご自分を十字架に上げ、「メシアなら十字架から降りてこい」と叫ぶ人たちのために、神に許しを祈られた。「彼らは何をしているのか分かっていないのです」

ステファノは、キリストの足跡を、そのまま辿りました。私たちがキリストとしての生き方、また死に方というものを考えさせられる姿ではないでしょうか。

イエス・キリストはルカ福音書でこうおっしゃっています。

ルカ6:27~28「私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい・・・あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」

人を愛するということはどれだけ難しいことでしょうか。家族を愛することでさえ難しいのです。ましてや、自分に敵意を持つ人を愛する、ということは私たちにできるでしょうか。私たちは自分の力、自分の意思ではできません。

それは、キリストに倣う、という信仰によってしかなしえないことです。キリストはご自分を十字架で殺す罪びとたちのために取りなしを祈られました。なんという痛みでしょうか。

それが、キリスト者が後に続く痛みなのです。愛するという痛み、許す、という痛み。

私たちはその信仰の痛みの先で、キリストを見ます、ステファノのように。

ステファノは、求めるものを、この地上に、ではなく天に見出していました。自分の地上の命以上に求めるべきものを天に見たのです。そして彼は、一粒の麦として地に落ち、それが新しく実を結んでいきました。

私たちはステファノの殉教を通して、覚えたいと思います。キリスト者の死は、決して「全ての終わり」ではありません。ステファノは天にいらっしゃるキリストを見ました。そこへと旅立ったのです。キリスト者・信仰者としての生涯は、また信仰者の死は、必ず一粒の麦となって、次の福音の芽生えとなって用いられます。

愛するという痛み、そして許すという痛みをもってキリストの後に従う・・・その先で私たちはステファノのように、目撃者とされます。本当の意味での、殉教者とされるのです。

イエス・キリストが十字架の上で祈られたあの執り成しの祈り、ステファノが石を投げられながら祈ったあの許しの祈りに続く時、私たちは、神に喜ばれる一粒の種として、生き抜くことが出来るのだ。