使徒言行禄27:39~28:1~10
「私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。」(28:1)
パウロたちが乗った船は暴風雨に襲われ、積荷だけでなく船具まで全て海に投げ捨て、漂流していました。漂流して14日目の夜、真夜中ごろ陸地が見つかり、船乗りたちは帆を上げて砂浜のある入江に上陸しようとします。しかし、船は浅瀬にぶつかって乗り上げてしまいました。船は波を当てられ船尾から壊れ始めました。
この時、船にいた兵士たちが囚人たちを殺そうとし始めました。もしここで囚人たちが逃げたら、兵士たちの責任になってしまうのです。しかし、船に乗っていたローマの百人隊長が、パウロを殺させないよう囚人を殺すことを禁じました。船に乗っていた人たちは泳いで、全員が無事に島に上陸しました。
一行が流れ着いたのは、マルタ島でした。現在でも、船が流れ着いた場所は「パウロ湾」という名前で残っています。島には、ギリシャ語を話さない島民がいました。
当時、ギリシャ語を話さない人はバーバリアン、つまり「野蛮人」と呼ばれていましたが、この島の人たちはギリシャ語を話すことはなくても、大変親切に船の人たちをもてなした、と書かれています。マルタ島の人々が「大変親切にしてくれた」ということに、神が特別な方法でパウロを守り続けていらっしゃる、そして福音を神のご計画に沿って運んでいらっしゃるということがわかります。
聖書は、「ローマに移送される囚人が運よく島に打ち上げられて助かった」、という書き方をしていません。神の働きによってこの小さな島に福音をもたらされた、という書き方をしています。
今日読んだ27章から28章にかけて、「救う」という言葉が繰り返し使われています。27:43「百人隊長はパウロを助けたいと思った」とありますが、元の言葉を直訳すると「パウロを救おうと思った」となります。
44節には「このようにして、全員が無地に上陸した」とありますが、「全員が陸へと救われた」という表現です。
28:1では「私たちが助かった時」とあるが、これは「私たちが救われた時」ですし、4節で「海では助かったが」というのも、「海では救われたが」という言葉です。
私たちはここをきちんと押さえておきたいと思います。パウロたちが逆風にあい、暴風雨にさらされ、漂流し、マルタ島にたどり着いたのは、偶然ではありませんでした。そこには確かに神の救いの御手があったのです。そのことを聖書は「救い」という言葉を何度もつかうことで、私たちに示しています。
パウロの周りの人たちは、パウロのことを裁判の被告人・囚人として見ていました。しかし、パウロは今、キリストの福音を運ぶ使徒であり預言者としてローマへと神によって運ばれています。
使徒・預言者であると言っても、パウロも一人の弱い人間です。私たちと何ら変わるところはありません。預言者だから、キリストの使徒だから、神の僕だから、逆風や荒波とは無縁の人生を生きることが出来るようになるということではないのです。どんなにキリストを深く信じ、愛し、従っている信仰者であっても、他の人たちと同じ逆風と荒波にさらされます。逆風や荒波の中でも福音を証しすることを求められ、そのための道へと導かれていくのが信仰者なのです。
船が暴風に襲われ沈む中にあっても、不思議と一人パウロの周りだけは静かに見えます。牢の中でも、総督や王の前で弁明する時でも、パウロは冷静で、神への信頼が揺らぐことはありませんでした。彼は静かでした。パウロが自分を神の御手に信頼して委ねていたからです。
旧約聖書の中で、実はその静けさが信仰の強さである、ということが書かれているところがあります。
旧約聖書の出エジプト記には、奴隷とされていたエジプトから脱出したイスラエルの歩みが書かれています。イスラエルは、後ろからエジプト軍に追われました。
人々はモーセを責めました。
「我々をエジプトから連れ出したのは何のためですか。荒れ野で死なせるためですか」
自分を責めるイスラエルの民に対して、モーセは答えます。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」
モーセは、取り乱す民に向かって「静かにしていなさい」と言いました。その後、エジプト軍は、海に飲み込まれてしまいます。かき乱されたエジプト軍は、「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプト軍と戦っておられる」と言って引き返して行きました。
信仰者は、神を信頼した信仰の静けさのその先で、神が自分たちのために戦ってくださる姿を見るのです。
同じ言葉を、預言者イザヤも残しています。
巨大な帝国アッシリアの圧力に膝をかがめようとするユダ王国の王様に向かって、イザヤは神の言葉を告げました。
「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」
キリストに従う信仰者には、信仰の戦いがあります。パウロをはじめ、キリストの使徒たちを見ればわかります。それは、世の雑音の中にあっても神を信頼し静かに神を待つ、という戦いです。
私たちは、自分の信仰のことで何かがあると、すぐに自分でどうにかしようとしてしまうのではないでしょうか。しかし、モーセやイザヤが言うように、まず、神に立ち返り、静かに安らかに信頼する、ということが私たちに課された一番の戦いなのです。静かな祈りの先で、私たちは、神が私たちのために戦ってくださるのを見るのです。
私たちには、教会での礼拝に向かうだけでも様々な戦いがあるでしょう。一人の人がキリストを求め教会に行き、そして毎週礼拝に向かう、ということは決してちっぽけな戦いではない。一週、一週礼拝に身を置く、ということは、決して祈りの戦い無しにできることではないのです。
それぞれの家からこの礼拝の場までの道の途中でさえもキリストは共に寄り添ってくださり、そして私たちを今この礼拝の中へと導き入れてくださっているのです。ここに神が備えてくださった静けさがあり、その静けさの中で私たちは改めて、神への信頼を確信していくのです。
パウロが牢獄の中から教会に書いた手紙が新約聖書の中に残されています。
「フィリピの信徒への手紙」がそうだ。
なぜ神のために働く者が、捕らえられたり牢に入れられたりするのか、と誰だって疑問に思うでしょう。
しかし、パウロは牢の中にあっても喜んでいます。
「私が監禁されているのはキリストのためであることを知って、キリスト者たちが恐れることなく勇敢にみ言葉を語るようになったのです。」
パウロが捕らえられたのはキリストのためである・・・そのようにして神が牢の中にまで福音運ばれた、と知って、教会はますます勇気づけられた、そのことをパウロは喜んでいるのです。
信仰の苦難の中に置かれたとしても、それがキリストの御手の内にあり、キリストによって用いられているということを知った時、私たちは苦難の中で強くなります。
私たちにも、しんどい時はあります。キリストに従う、ということは、キリストの苦難に従う、ということでもあるのです。しかし、私たちの信仰ゆえの痛みは、無駄になることはありません。キリストが私たちを罪から救い出してくださったように、私たちが感じる痛みは、次の信仰者に道を示すことになるのです。
さて、船に乗っていた人たちはマルタ島に上陸しました。既に季節は秋で、上陸した人たちは夜明け前の雨に濡れていました。皆、寒さに凍えていたでしょう。
火を起こして暖を取っていると、マムシが出てきてパウロに噛みつきました。ここでは「絡みついた」と訳されていますが、実際には「かまれた」、という言葉です。
マルタ島の住民は、パウロが死ぬだろうと思いました。人々は、パウロが人殺しのような悪いことをしたので、「正義の女神」による裁きが下った、と思いました。多くの人は、何か悪いことがあれば、その背景に何かの悪事を行ったことの報いではないか、という解釈に飛びつきますが、ここでも同じでした。
しかしパウロはマムシを火の中に振り落とし、何の害も受けませんでした。人々は驚き、「この人は神だ」と言いました。人々が言っている「神」というのは、イスラエルの神ではなく、彼らが信じていた神のことです。とにかく、島の人たちは人間の力を超えた何かをパウロの内に見出したのです。
イエス・キリストは福音宣教に派遣した弟子達が返って来た時にこうおっしゃっています。
「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなた方に授けた。だから、あなた方に害を加えるものは何一つない」ルカ10:19
パウロがマムシにかまれても死ななかった、ということは不思議なことですが、私たちにははかりえない神の守りがあった、ということでしょう。
キリストは弟子達をガリラヤに派遣なさる際に、「杖も、袋も、パンも、金も持って行ってはならない」とおっしゃいました。身一つで行け、とおっしゃったのです。しかし、無責任に放り出されたわけではありませんでした。「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった」と聖書には書かれています。
キリストが私たちを選び、「行け」とおっしゃる時、それは既にキリストが全てを備えてくださっている、ということなのです。キリストが下さる力、キリストが備えてくださる守り、それがあれば、私たち信仰者にとって十分です。
「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」
紀元前7世紀に、エレミヤという人が神によって預言者に召されました。エレミヤが二十歳になるかならないかぐらいの時です。エレミヤは、「自分は無理です」若者に過ぎません」と言いました。しかし、神は、「大丈夫だ、私が共にいる」とおっしゃいます。
それからのエレミヤの預言者としての40年は苦しみの連続でした。イスラエルの人たちに神の言葉を伝えても、聞いてもらえない。馬鹿にされたり、迫害されたりしました。エレミヤは何度も神に怒りを訴えました。「あなたのために働いているのに、なぜこんなに苦しいことばかりなのか」
イスラエルがバビロンに滅ぼされることを預言し、バビロンに降伏するよう皆に伝えました。当然、嫌われます。それでもエレミヤは預言者・信仰者として苦しみながら最期まで語り続けました。
エレミヤの預言者としての信仰生活は、苦しいだけのものだったのでしょうか。
エレミヤはこうも言っています。「もう語るまい、と思っても、自分の中から神の言葉が沸き上がって、語らざるを得ません。私の負けです」
辛さの中にあっても、エレミヤの中から神の言葉が沸き上がって来た、というのです。それは、押さえることのできない信仰の喜びだったのではないでしょうか。神が自分を選び、神のために用いてくださっている、という喜びです。
パウロは、フィリピ教会の人たちに、「それにしても、あなたがたはよく私と苦しみを共にしてくれました」と書いています。これがパウロの喜びでした。「キリストのための苦しみを共に担う信仰の友がいた」ということです。
キリストの使徒たちは、イエスはメシアであると伝えたことで、捕らえられ、鞭で打たれました。その際、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。
「キリストのために迫害されるほどのものになれた」、という喜びは自分の罪を知った人にしかわからない喜びではないでしょうか。自分の罪を知った時、人は生きる道を失います。次の一歩が見えなくなります。
しかし、キリストが私のために死んでくださり、この罪びとは許され、生きていてもいい、という恵みを知った時、私たちは生きる意味を再発見します。新しい自分になるのです。
「今度はキリストのために私が何かを担う番だ」、と思う人にとって、キリストのために何かを担うことができることは喜びとなります。たとえそれが苦難であっても。私たちが担うはずだった罪の苦しみを、あの方は担ってくださいました。次は、私たちの番です。
キリストのために何かを担っていきたいと思います。歴史に名を残すようなことをしなくてもいいのです。ただ、日々の生活の中で、小さな信仰の業が、キリストに喜んでいただけるのです。パウロに与えられたように、私たちには「救い」が、小さなところでたくさん与えられています。そうやって、一週、また一週、礼拝へと導き入れられているのです。
キリストは弟子達におっしゃいました。
「悪霊があなた方に服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」
キリストは、私たちをお忘れになることはありません。安心して、静かにキリストを求めよう。私たちの名前は天に書き記されているのですから。