マタイ福音書1:18~24
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」
およそ2000年前に、ベツレヘムでイエスという名前の男の子が生まれました。このことが、世界を一変させました。紀元前・紀元後、という風に歴史が二つに分けられる程、イエス・キリスの誕生は世界にとって特別な意味を持つものでした。
この方がお生まれになったことの意味、そしてこの方が十字架で死なれたことの意味を、1世紀のキリスト者たちは信仰の証言集として福音書にまとめあげ、後世に伝えました。
このイエスという方は、「永遠なる神の子」であり、「初めから神と共にいらっしゃった方」であり、「この方を通して万物が造られた方」だったと、ヨハネ福音書は冒頭で証言しています。
マタイ福音書とルカ福音書では、この方のことを神でありながら聖霊を通してマリアという女性の胎に宿り、ヨセフの家の下にお生まれになったということを証言しています。
天使はヨセフとマリアそれぞれにキリスト誕生の告知をしました。マタイ福音書には、ヨセフへの告知が、ルカ福音書にはマリアへの告知が書かれています。クリスマスにお話しされるヨセフやマリアの物語は、神秘的であり、胸が温かくなるような出来事として語られることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書に証言されている天使のお告げは、ヨセフとマリアにとって非常に厳しい信仰の試練でした。
ヨセフにキリストの誕生が告げられたのは、自分のいいなずけのマリアが身ごもっていることを知った後でした。ヨセフはマリアが自分に対して不誠実なことをした、と結論付けました。当然でしょう。ヨセフに身に覚えがないとすれば、マリアがヨセフ以外の誰かと関係したとして考えられません。ヨセフはどれほど傷つき失望したでしょうか。ユダヤの慣習では、婚約は法的に結婚と同等にみなされていました。二人はもう既に周りの人たちから夫婦として見られていたのです。
ヨセフはマリアも同じように痛い目に合うべきだ、とか仕返しをしてやろうという気にはなりませんでした。早く離縁すれば、マリアは独身に戻った後に、誰かの子を身ごもったように見えます。少なくとも、「婚約者を裏切った」汚名を着ることはありません。ヨセフはマリアと縁を切る決心をしました。少しでもマリアの汚名を少なくするよう、守ろうとしたのです。
天使がヨセフにマリアの子は聖霊によって宿ったことを告げたのは、まさにその決心の後でした。天使がはじめから「これからマリアは聖霊によって男の子を身ごもることになるから、心配しないように」と告げたのであれば、ヨセフがこれほど苦しむことはなかったでしょう。
しかしこれが神がヨセフのためにお選びになった時だった。まるでマリアが身ごもっていることを知ったヨセフがどのような決断を下すのかを神はご覧になっていたようです。天使は、マリアに対するヨセフの思いを見定めた上で、改めてこのことが神の御業によるものであることを告げました。
神がお選びになる「時」は、いつでも人間にとっては唐突です。「神の声が聴きたい、御心が今知りたい」、と願う時にすぐに答えが与えられるわけではありません。じっと耐えるしかない時を過ごさなければならないこともあります。そのような中で私達がどんな姿勢でいるのか、神から見られている時があります。
神は我々人間が自分で予期していない時に思いもよらない道を不思議な仕方で示されます。神の御業が現れる時、いつでも人は戸惑います。「なぜ今なのか、なぜそのような仕方なのか。私はそんなことを予想もしていなかった」・・・そのように、神の御心を求めていながらも、人は神から道を示された時、戸惑うのです。
神はいつも私たちをご覧になっている、ということでしょう。その上で、私たちに本当に良いものと良い時を選ぼうとなさっているのです。神がどのような道を示してくださるのか、それをいつ示してくださるのか・・・その神の決断をどう受け入れるか、というところに私たちの信仰が現れます。
ヨセフとマリアの夫婦は、それぞれが天使の言葉を聞きました。一緒に聞いたのではありません。別の場所で、全く別の時にそれぞれ聞きました。
ルカ福音書ではマリアは、天使のお告げを聞いた時、「御心がこの身に成りますように」と言ったと書かれています。マタイ福音書では、マリアのことで苦しんだヨセフでしたが、天使の言葉を夢で聞き、眠りから覚めると「妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。
ヨセフもマリアも、お互いへの信頼を損ねることなく、神への信頼をもって自分たちの結婚に進んだのです。キリストの受胎告知は、この夫婦二人にとって試練でした。これから、世間からどのような目で見られることになるのかを知った上で、二人は神に託された幼子を守り育てる道を選び取りました。
キリストの誕生は、その歴史の中で大きな喜びの出来事として私たちは祝っています。その喜びの出来事の元には、ヨセフとマリアという年若い夫婦の大きな信仰の決断があったことを覚えたいと思います。
2人は結婚する前に身ごもっていることが分かり、それでも結婚しました。その後、家畜小屋の中で出産し、ユダヤの王ヘロデに命を狙われることになります。幼子を守るために過酷な旅を続け、エジプトまで逃げることになりました。危険が迫り、不安の中歩き続けなくてはならなかった、それでもこの夫婦は幼子を守るために神の言葉に従い続けることになります。
天使はヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」は、ユダヤ人の間ではごく普通の名前です。「主は救い」、という意味の名前です。
「主は救い」、という意味のイエスという名前が、この方が誰であるか、何をするためにお生まれになったのかが示しています。
ユダヤ人は当時多くの人が、救い主を求めていました。彼らはローマの支配から解放してくれる救い主を待っていました。ダビデやソロモンが打ち立てた強い時代のイスラエル王国を復興してくれる強いリーダーを求めていました。自分たちが生きている間安全と豊かさをもたらしてくれる救い主を求めていたのです。
ヨハネ6章にこういう出来事が記録されています。
キリストが5つのパンと二匹の魚を5000人の人たちに分け与えていき、人々は満腹しました。すると人々は「まさにこの人こそ、世に来られる預言者だ」と言って、主イエスを王にするために連れて行こうとします。主イエスは人々が自分を担ぎ上げようとしていることを知って、一人で山に退かれました。
それでも人々が主イエスを探しにやってきた時、主はこうおっしゃいました。「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」
人々がメシアに求めていた救いと、実際にメシアがお与えになろうとしていた救いは、違っていのです。天使がヨセフに告げたのは、「その子は自分の民を罪からの救い出す」メシアでした。
ダビデやソロモンのように、剣をもって軍隊を率いてイスラエルに昔の栄光をもたらす救い主ではありませんでした。自分のおなかをいっぱいにしてくれて、自分たちに豊かさと、ローマ帝国の支配からの解放をもたらしてくれる救い主ではなかったのです。イエス・キリストは罪からの解放をもたらす救い主、つまり神を見失った民を神の元へと連れ戻してくれる羊飼いとしての救い主でした。
「インマヌエル」という言葉を天使は告げています。これは、紀元前8世紀、預言者イザヤが告げた言葉です。。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」イザ7:14
BC8世紀、イザヤはユダ王国の王アハズにこの言葉を告げました。その時、アハズ王は恐れおののいていました。北イスラエルと、シリアが同盟を組んで自分の国に攻めて来ることを知って、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と書かれています。
そこで、イザヤは神からアハズの下に遣わされ、伝えました。
「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない」
預言者は王に向かって、「静かに神に頼りなさい」、と、神が敵から守ってくださることを告げたのです。しかし、王は聞きませんでした。アハズは信じなかったのです。「神に頼るだけで国を守れるのか」と考えたのです。
神を頼ろうとしない王に向かって、イザヤは告げました。
「見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」
インマヌエル、「神我らと共にあり」という名で呼ばれる方の誕生をイザヤは預言しました。
「神が共に居てくださる」ということを信じられないことほど、辛いことはありません。一国の王となって民の頂点に立ったとしてもインマヌエルを信じられなければ不幸なのです。
「神が我々と共にいてくださる」ということを教えてくれる救い主の誕生が預言されました。人にとって、「神が共にいてくださる」ということが救いなのです。強い人や強い国に頼ることではありません。
天使の言葉を聞いたヨセフがどんな思いであったのか、聖書には何も書かれていません。ただ、ヨセフは「主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」とだけ書かれています。
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マリアは自分を裏切ったのではなかった、という安心、主の救いの御業に今自分が巻き込まれているという畏れ、これからの夫婦の歩みはどうなるのか、という不安・・・いろんな思いが混ざっていたでしょう。
ヘロデから逃げる間も、ヨセフは夢で告げられる天使の言葉に従い続けました。マタイ福音書のクリスマス物語は、ヨセフの信仰物語と言っていいものです。
もしヨセフがアハズ王のように、神の言葉を信じず、自分の思いだけでマリアとの離縁を決断していたとしたらどうだったでしょうか。1人の信仰者の信仰の決断が、その後の歴史に大きな意味をもたらしました。ヨセフは信仰の試練の先で、祝福を見せられたのです。
イエス・キリストは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃいました。神の支配、神との正しい関係を追い求めていくその先で必要なものが与えられていくのです。
「あなた方の天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とキリストがおっしゃった通り、神はヨセフに良い物をくださいました。それはヨセフがもともと望んだものではなく、神が良いと思われたものでした。ヨセフにとって「必要なもの」が、与えられたのです。
神が望まれたことを受け入れ、祈りつつ神の国と神の義を求める中でヨセフは自分に与えられた道の意味を知って行ったのです。
神は何度もヨセフに言葉を与え、キリストが行くべき道を整えていかれた。そのたびにヨセフは神の言葉に従いました。神の言葉を第一として生きたヨセフの信仰の決断、信仰の歩みが、今の私たちへの信仰の道を残すことになりました。私たちの信仰の道は、もとをたどって行くとこのような小さな信仰者の従いにたどり着くのです。
同じように、私たちが今歩んでいる信仰の道は、今は分からなくても、これからの信仰者たちに何かを残していくことになります。クリスマスの時、我々に与えられた救いと、我々に与えられた今がこれから多いに用いられる恵みをかみしめたいと思います。