2月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~8

「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

先週、私たちは、イエス・キリストが、御自分を信じる人たちのことを、信用なさらなかった、ということが書かれているのを読みました。「なにが人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」と書かれています。

福音書に記録されているこのような主イエスの人間に対する見方、また厳しい言葉を通して、私たちは自分たちの信仰の姿勢を改めて見つめなおすことになると思います。

この後も福音書を読んでいくと、主イエスが示されるしるしを通して主イエスに出会う人たちが次々に登場します。その一人一人が、主イエスのことを信じているかどうかということに加え、「どう信じているか」ということまで問われていくことになるのです。

その初めが、ニコデモという人でした。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた」とありますが、少し細かく訳すと、「ニコデモという『人間』がいた」となります。「なにが人間の心の中にあるのかよく知っておられた」主イエスのもとに、ニコデモという「人間」が来た、という文脈です。

ニコデモは確かに主イエスのことを求めて来ました。しかし、ここに記録されている主イエスとニコデモの会話を読むと、ニコデモはまだ「闇の中にいる人」であることがわかります。

「ラビ、私どもは、あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」

ニコデモはそう言って、主イエスへの尊敬を伝えますが、主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。つまり、ニコデモは主イエスのことを尊敬もし、信頼もしているが、本当の意味で主イエスのことを理解しておらず「今のあなたは私に従うことはできない」ということを示されたのです。

ニコデモは主イエスのことをどう見ていたのでしょうか。彼は主イエスに「ラビ、先生」と呼びかけています。ニコデモは、主イエスのことを「偉い先生」と見ていたようです。「人としてお生まれになった神ご本人」としては見ていません。「世の全ての人の罪を背負うために十字架にかかり、三日目に復活するメシア」として信じていないのです。

この時点でのニコデモは、当然そんなことは知りませんでした。ただ、人間離れしたしるしを行われるのを見て、この方には何かある、という期待だけもってやって来たのです。

その夜、主イエスはニコデモがそのような「人間」であることを見抜かれていました。だから主イエスはニコデモをまだ信頼していらっしゃらないのです。

ヨハネ福音書は、「キリストのしるしを見てみんなが信じるようになった」という喜びを描いているのではありません。福音書が焦点を当てているのは、「人々がキリストのしるしを見て信じるようになったが、本当の意味で正しく信じることができていなかった」、ということなのです。キリストに対する人間の無理解、また誤った期待が描かれています。

このニコデモという人を通して、私たちの信仰を新たに吟味したいと思う。

ニコデモは夜に主イエスの下にやって来ました。なぜ夜にやって来たのか、その理由は書かれていません。主イエスに教えを乞うことを他の人たちに見られたくなかったのかもしれません。律法学者として、夜、誰にも邪魔されず静かに神の言葉について語り合いたかったのかもしれません。

ニコデモ本人の実際の事情は分かりませんが、福音書はニコデモのことを、「夜の人」として描いています。つまり、まだ無理解の闇の中にいる人、そして闇の中で光を求める人として描いているのです。

ニコデモは、ファリサイ派の議員であり、最高法院の中の議員の1人であり、ユダヤの指導者でした。主イエスはニコデモのことを「イスラエルの教師」と呼ばれているので、律法学者・神学者でもあったのでしょう。聖書の言葉の専門家であり、神の御心をよく知っているはずの人でした。

しかしこの夜、ニコデモは「夜の人・闇の人」人でした。この夜の闇は、神の御心に対する闇を象徴しています。

ニコデモは確かに主イエスのことを「神のもとから来られた教師だ」と信じていました。しかし、主イエスがおっしゃることを聞いても、全く理解できませんでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われても、ニコデモは理解できなかったのです。

ユダヤ人たちが、主イエスが神殿を三日で建て直して見せる、とおっしゃったのを字義通りに解釈したように、ニコデモもここで同じように表面的に解釈している。

「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」

キリストがおっしゃる「新たに生まれる」とはどういうことなのでしょうか。これは、「もう一度生まれる」という意味と、「上から生まれる」という二つの意味があります。福音書は両方の意味を込めているのでしょう。「上から新しく生まれる」、そのことがあって、初めてイエス・キリストが導き入れて下さる神の国へと入ることが出来る、ということです。

聖書の専門家でありユダヤの指導者であり、イスラエルの教師であったにも関わらず、ニコデモは主イエスがおっしゃる言葉の意味が分かりませんでした。

キリストの使徒パウロが書いた手紙や使徒言行禄を読むと、キリスト者たちがどれだけキリストを証ししても、なかなか信じてもらえなかったということがわかる。パウロ自身、ある時は同胞のユダヤ人たちから、ある時は異邦人から迫害を受けました。

そもそもパウロ自身、キリスト者たちを迫害する側の人でした。キリスト者たちが信じていることを理解できなかったです。しかし、復活のキリストに召され、神のために教会を迫害する者から、神のために教会のために働く者とされました。そして自分がキリスト者になったとき、イエス・キリストを証しするということがどれだけ伝わらないことであるか、ということを知ったのです。

パウロはイエス・キリストを証しする言葉を、「十字架の言葉」と表現している。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です・・・世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」1コリ1:18以下

神の救いの御業は、躓きに満ちています。簡単に信じられるようなものではありません。神が御自分の愛する独り子を、世の罪びとのためにいけにえとして十字架に上げられた、そして三日目に死人の内から復活させられた、というのです。

「それを信じてください」と言っても、誰も簡単に信じることはできませんでした。神の子が人間に殺される、というのです。死人がよみがえった、というのです。

パウロは「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」と書いています。確かにそうでしょう。世の知恵、自分の知恵で神の御心をはかり知ることはできません。

だからパウロは言っています。

「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう」1コリ2:7 

ではどうすれば、我々人間はその闇の中から抜け出すことが出来るのでしょうか。まずは、自分の人間的な常識や、地上の知識を脇に置いて、差し出されたキリストの御手をとることです。そこから始まるのです。

主イエスはニコデモの無理解に対して「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。ここを読んで、私たちはすぐに洗礼を思い浮かべると思います。

しかし、ニコデモは分かりませんでした。霊的に新しく生まれ変わる、ということではなく、文字通りもう一度生まれなおさなければならないと理解しました。「もう一度母の胎内に戻らなければならないのですか」とニコデモは混乱します。

そのニコデモに主イエスは続けておっしゃいます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

「風」は「霊」と同じ言葉です。神の息・聖霊は神の御心に従って吹いています。我々人間の目に見えるものでもないし、我々人間にとって都合よく吹くものでもありません。

ニコデモは、神の霊・神の息が見えなかった、だから、キリストの言葉の意味がわからなかったのです。ニコデモは、まだ気づいていませんでした。ニコデモ自身、この夜、イエス・キリストから目に見えない招きをいただき、ニコデモの知恵や知識を超えた聖霊の導きが与えられた、ということを。彼も今、既に聖霊に吹かれていることを。

ニコデモはこの夜の闇の中でキリストに出会ってから、神に対する無理解の闇の中から少しずつ出て行くことになります。キリストに出会って、新しく生まれ変わっていくことになるのです。

この夜、まだ無理解の闇の中にいたニコデモは後に主イエスのことを弁護し、十字架で殺された主イエスのご遺体を引き取り、埋葬することになります。(7:50、19:39)

主イエスのことを「偉大な教師」として見ていたニコデモは、少しずつ主イエスを「キリスト」として信じる者へと新しくされていくのです。神の息を大きく吸い、神の風に運ばれる者とされていくことになったのです。

ヨハネ福音書は実は、このニコデモという教師を、単なる無理解な闇を生きる人として、ではなく、キリストによって不思議な救われ方をしたイスラエルの教師として描いているのです。

ニコデモは一日で、一瞬で変えられたのではありません。キリストに出会い、自分の目には見えないもの、自分の知識に収まりきらないものがあることを知りました。そして時間をかけて、イエス・キリストという存在を通して生まれ変わって行ったのです。

聖書は、このニコデモという人を通して私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。ニコデモを変えた神の息吹・神の元から吹く風が私たちにも吹いている、ということです。肉の目に見える物が全てだという生き方から、自分の目には見えない神の息吹によって導かれ、今もキリストが共に生きてくださっていることを信じる生き方へと変えられました。

ニコデモは肉の生き方から、霊の生き方へ変えられていった。私たちも、同じ導きが与えられています。だから今、こうして今日も礼拝へと導き入れられて、神の御心のままに吹く風によって、また新しい一週を生きる後押しをいただいているのです。

使徒パウロは、ローマの信徒たちにこう書いている。

「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。・・・私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」

キリストは、「神の国に入るためには、新しく生まれなければならない」とおっしゃいました。それは、私たちが受けた洗礼によって現実のものとなります。洗礼を受けて完結・完成するのではありません。そこから一生かけて私たちは、日々新しくされる歩みが始まるのです。

洗礼を通して、私たちは罪びととしての自分に別れを告げました。神から離れた闇に生きる自分とは決別して、キリストの光の中を歩む新しい命を得ました。

パウロはキリストのことを手紙の中でこう書いている。

「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」2コリ5:15

新しい命を生きる我々は、どこに向かうのでしょうか。キリストに向かうのです。自分のためではなく、キリストのために生きる命となります。そしてキリストのために生きる命こそが、実は一番自分らしい生き方であることを知っていくのです。

初めは無理解であったニコデモが、キリストに向かって生きるように変えられたように、今も私たちは聖霊の風によってキリストのために、自分らしく生きる道へと導かれています。