4月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:16~26

「それはあなたと話をしているこの私である」

サマリアのシカルという町の井戸で、あるサマリア人女性とユダヤ人男性の旅人が出会った、という出来事を読んでいます。「私に水を飲ませてください」と言う旅人の一言から会話が始まって行きます。

人目を避けて、一日の一番暑い時間帯に井戸の水を汲みに来た女性にとって、見ず知らずのユダヤ人男性から話しかけられたことは迷惑だったでしょう。しかし、この旅人との会話が 進むに従って彼女は「この人には何かある」と思うようになっていきました。

「私にはこの井戸に勝る水がある。あなたが私が誰かを知ったら、あなたの方から私に水をくださいと言ったでしょう」と旅人は言いました。「私にはこの井戸に勝る水がある」という言葉に、サマリア人女性は食い下がります。このユダヤ人の旅人は、サマリア人の祖であるヤコブよりも、まるで自分の方が偉いかのような言い方をしているのです。

「この井戸は私たちサマリア人の先祖であるヤコブが掘ったのです。あなたはヤコブよりも偉大だと言うのですか」

旅人は、静かに答えました。

「この井戸の水は飲んでも渇くが、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

女性は「水が湧き出る」、と聞いて、「もう水くみに来なくてもいいのでは」、という期待を抱きました。しかしそこまで会話が進むとなぜか旅人は女性に「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言います。

「私に夫はいません」と答える女性に、「あなたはこれまで5人と結婚して、今は夫ではない男性と暮らしている」と答えました。女性は初めて会うこのユダヤ人の旅人が、自分のことを全て知っていることに驚きました。彼女の誰にも知られたくない生活のすべてを見通しているこの方のことを、女性は本当にサマリア人の先祖であるヤコブよりも偉大な方ではないかと思い始めるのです。

「あなた」という呼び方から「主よ」という呼び方になり、「あなたは預言者だとお見受けいたします」と言うようになりました。不審に思いながらも、女性は少しずつこの旅人の言葉に恐れを抱くようになっていき、この方の言葉を神の言葉として聞くようになっていったのです。

使徒パウロはコリント教会にこういう言葉を書いています。

「神は・・・私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」Ⅱコリ2:14

「キリストを知るという知識の香り」とは何でしょうか。

「キリストを知る」とは、どういうことなのでしょうか。

この女性はキリストと会話を続ける中で、少しずつ、「この方は預言者ではないか」、「この方は本当にキリストではないか」と心の目が開かれていきました。本を読んで、聖書学者が書いていることを理解して「キリストを知る」ということももちろん大事なことでしょう。しかし、このサマリア人女性は、難しい内容の宗教の本を読んだり、キリスト教の講演を聞いたのではないのです。

この女性は、自分に声をかけて来られたキリストに対して、「この方は誰なんだろう」と思いながらも、キリストの言葉を聞き続けた、求め続けた、ただそれだけで「この方は本当にメシアかもしれません」と人々に告げるようになります。彼女は諦めなかったのです。救いを、キリストをも求めることを諦めなかったのです。

当時はユダヤ人男性がサマリア人女性に声をかけることなど非常識なことだった。

それでも、彼女はこの方に出会い、言葉を交わしながら「あなたはヤコブに勝る方なのですか、あなたがおっしゃる水とはなんですか。なぜ私のことを全てご存じなのですか」と言って、その場を立ち去ることをしなかったのだ。

これが、「キリストを知ろうとする」ということではないでしょうか。この方に出会い、この方に全てを知られていることを知り、自分の内にあるあらゆる醜さをご存じの上で招いてくださる懐の深さを知って、どんどん求めていくことです。

このサマリア人女性は、目の前に座って自分に話しかけているユダヤ人の旅人の名前すら知ります。恐らく、主イエスとこの女性との会話は数分のやりとりだったでしょう。キリストを求め、真の礼拝を求め、罪の許しを求める女性は、目の前に現れ、全てを知ってくださっている方に、命の水を求め続けました。そのことによって、キリストを知っていったのです。

私達はキリストを知って、求め始めるのではないのでしょう。逆ではないでしょうか。キリストに知られ、キリストを求めるからこそ、キリストのことが少しずつ分かって来るのではないでしょうか。パウロが「キリストを知る」、と表現しているのは、そういうことではないでしょうか。

1世紀のキリスト者たちは、キリスト教の勉強をしてキリストを知ったのではないのです。聖霊の導きとしか言いようのない、「キリストとの出会いだった」としか言いようのないことを経験して、「キリストを知る知識の香り」を身にまとったのです。キリスト者たちは、その「キリストを知る知識の香り」をまとって生きることで、隣人をキリストの元へと導いて行ったのです。

招いてくださるイエス・キリストに向かって、直接「あなたは一体誰なのですか」と問いかける、そこにこそ、「キリストに出会う」、ということの本質があるのでしょう。それは、私たちのキリスト教についての知識量というようなものとは関係なく、もっと、単純なことではないでしょうか。

「このような私まで、神は探し求め、招いて下った」、という事実に打たれ、ひれ伏すことです。それが、本当の意味で「キリストを知る」ということでしょう。

さて、サマリア人女性は旅人に向かって、「あなたを預言者とお見受けします」と告白した。そして一つのことを尋ねた。

「サマリア人はサマリアの山で礼拝しましたが、ユダヤ人はエルサレムに礼拝の場所があると言っています」

女性は何を知りたがっているのでしょうか。彼女の言葉は、「預言者であるあなたに、サマリア人の私が一体どこで礼拝すればいいかを教えてほしい」、という訴えだった。彼女は、礼拝の場所を探し求めていたのです。

自分の私生活を全て知っているということは、この方は預言者なのだろう、そして預言者は神の言葉を託されているのだから、私が神を礼拝するためには、どこに行けばいいのか教えてほしい、と思ったのだ。

それにしてもなぜ突然、女性は正しい礼拝の場所がどこなのかを尋ねたのでしょうか。礼拝の場所を知りたいと願うことは、どこで罪の許しを得られるのか知ろうとした、ということです。

女性の訴えは、「私の罪は一体どこに持っていけば許されるのですか」ということでした。

申命記18章15節に「モーセのような預言者が来る」と言われています。それは、神から離れた人を神の元へと招く言葉を伝えてくれる人、正しい神との関係へと導いてくれる人が来る、ということです。このサマリア人女性は、今自分の目の前にいるユダヤ人男性が、その預言者ではないかと希望を持ちました。それは、罪の許しの希望だったのです。

女性は、「私どもの先祖はこの山で礼拝しました」と言っています。サマリアは、信仰の父と呼ばれるアブラハムやイスラエルという名前を神から与えられたヤコブが礼拝を捧げた場所でした。

アブラハムが神に召され、故郷ウルを離れ、旅をしてたどり着いた場所は、サマリアでした。アブラハムはそこで礼拝を捧げています。創12:6

また、一度は逃げ出したヤコブが家族と兄エサウの下に戻った時にも、そこで礼拝を捧げました。創 33:20

しかし、主イエスの時代には、サマリアから礼拝の場所が無くなってしまっていました。イスラエルは歴史の中で、南北に分裂してしまいます。南のユダヤ人と北のサマリア人に別れ、ユダヤ人たちはエルサレムで、サマリア人たちはサマリアでそれぞれ礼拝をささげるようになりました。

サマリアの人たちは サマリアのゲリジム山の上に自分たちの神殿を築きました。紀元前400年頃のことです。しかし、紀元前2世紀終わりごろ、ヨハネ・ヒルカノスという人によって率いられたユダヤ人たちによってサマリアの神殿が破壊されました。

つまり主イエスの時代、サマリア人たちは自分たちの礼拝のための神殿を失っていたのです。このサマリア人女性は、礼拝の場所がなかった、自分の罪をどこにもっていけば許されるのか、探し求めていたのです。サマリア人である自分の罪をどこと持っていけばいいのか、それが彼女の人生の中で一番深刻な問題だったのだ。

この日は、この女性にとって、自分の人生の中でも特別な意味をもった一日になった。

罪の許しについて尋ねることができる相手が見つかったのだ。しかもその人は、自分の心の奥底まで知り尽くした上で、「私の内に生きた水・命の源泉を見つけなさい」と招いてくださっているのだ。

「エルサレムこそが、真の神殿・礼拝の場所である」とユダヤ人たちは言っています。女性は、「本当の礼拝の場所はエルサレムなのか、サマリアなのか。ユダヤ人はサマリア人のことを嫌っているが、サマリア人である自分はやはりエルサレムに行かなければ神からの罪の許しを得ることはできないのか」ということをはっきりさせたかったのです。

主イエスの答えはこうでした。

「この山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。今がその時である」

エルサレムの神殿とサマリアの神殿、どちらが本当の礼拝の場所なのかということを考えていた女性は思ってもない答えに驚いたと思います。主イエスがおっしゃったのは真の礼拝の「場所がどこか」ではなく、真の礼拝の「時が来た」ということでした。

2章でイエス・キリストはエルサレム神殿に入り、そこから商売をしていた人たちを追い出して、「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる」とおっしゃいました。後に復活なさるイエス・キリストご自身が神殿となられる、という証しがそこに記されています。

私たちは礼拝の場所を、心のどこかで地理的な場所に限定して考えてしまっているのではないでしょうか。しかし主イエスははっきりと、礼拝の場所はエルサレムかサマリアかというものではない、とおっしゃいました。「どこで礼拝するか」ではなく、「誰の下で」「誰を」「どのように」礼拝するかということが問われる時代が来たことを示されたのです。

礼拝の場所ではなく、キリストの下で、霊と真理をもって礼拝しているかどうか、ということが、信仰者が考えなければならない本質なのです。

主イエスは以前ニコデモにおっしゃいました。 

「神の霊によってのみ、人は神の国に入ることができる」

人は霊と真実とによって礼拝を捧げなければならない・・・それは言葉を変えると、どれだけ真心を込めて神に祈りを捧げているかということでしょう。神がご覧になっているのはそれだけです。私たちの礼拝にどれだけ人数が集まっているか、どれだけ礼拝堂が大きいか、というということではないのです。

女性は自分が今聞かされたことがあまりに大きなことだったのですぐに理解できなかったようです。そして 改めて自分が今聞いたことが言い伝えられたメシアによる救いの時代の到来 なのかどうかを確かめようとして尋ねました。

「私はキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られる時、私たちに一切のことを知らせてくださいます」

この言葉を受けて、主イエスはついにご自分がメシアであるということを明かされた。

「それはあなたと話をしているこの私である」

私達はここまで、サマリアでの主イエスとある女性の出会いと会話を見て来ました。イエス・キリストは初めからサマリア人女性に「私がメシアだから私を求めなさい。あなたの礼拝の場所は私の元にある」、とはおっしゃったのではありませんでした。少しずつ少しずつ女性の心を解きほぐし、ご自分こそ女性が求めている「生きた水」「命の源泉」であり、礼拝の神殿であり、一切のことを知らせるメシアであると、彼女自身が悟って行くようにお話しなさいました。

イエスキリストが私たちにくださる霊的な招きの言葉は一瞬で理解できるようなものではないでしょう。しかし、このサマリア人女性の生活の中に気づかぬうちに、思ってもみないような仕方で自然に自分の心に入り込んでくることがあります。

主イエスと女性との会話は、短いものでした。何時間も聖書の講義を聞いたわけではありません。しかし、その中で、罪からの救いを求める女性の心は、確かにキリストに触れました。そして懐深く入って行ったのです。

それと同じ霊的な招きの言葉は、私たちの生活の中にも確かに与えられています。サマリア人女性の水汲みという日常の中でキリストがそこに座っていらしたように、私達の日常の一歩一歩に、キリストは必要な気づきを与えてくださるのです。