創世記9章1節から19節
「箱舟から出たノアの息子はセム、ハム、ヤフェトであった」
私たちは6章から続く、ノアの洪水の物語を見て来ました。聖書の中では際立って分量のある、洪水から礼拝へ、礼拝から祝福へ、祝福から神との契約への導きを描いた、裁きから救いへと至る物語です。
このような神話のような物語が、なぜ聖書の中に描かれ、大切に読み継がれてきたのでしょうか。神が天地を創造なさって、そこに人間の悪がはびこるようになってしまいました。神はご自身の創造の御業を後悔され、悩みながらノアというその時代の中で正しかった人とその家族を選び、世界を洪水で押し流された、という話です。
神が御心に留められたノアの正しさとは、「神と共に生きていた」、ということでした。この世界の中でノアだけが選ばれた、ということで、私たちはノアという人を特別な人としてとらえて、「自分のような普通の人間とはよほど違った人なのだろう」「ノアは私たちの想像をはるかに超えた、次元が違うような立派な信仰を持っていたから、彼だけ特別に救いの箱舟へと選び出されたのだ」、と考えしまわないでしょうか。そうやって、自分の日常とはかけ離れた物語として読んでしまってはいないでしょうか。
これは契約の民がどのようにこの礼拝の生活へと導き入れられたのか、その恵みの根源、信仰のルーツを教えてくれる物語です。その意味で、この洪水物語は私の物語として読んでいいものなのです。
ノアは特別な人ではありません。普通の人よりも神に近いような存在として書かれているのではありません。ノアは天に上げられて神となった、という話ではないのです。
神は、洪水を生き延びたノアと、ノアの家族に、これから地上の生活における使命をお与えになりました。その使命とはノアと家族が祝福のうちにこの地上に満ちていくことです。そしてその使命とは、神が今私たちにお与えになっているものです。ノアと家族、そして被造物が洪水の後に与えられた神からの祝福、そしてこの地上に生きる使命は、今私たちの目の前にある限りない現実そのものなのです。
聖書は、ノアの姿を通して、「ノアのような信仰の高みを目指しなさい」と言っているのではありません。洪水の後、神に祭壇を築き、礼拝を捧げたノアと神を描き出し、「これが、あなたが生きている礼拝、契約、祝福の現実そのものなのだ」ということを伝えているのです。
私たちはどれだけ、この物語の中に自分の信仰の姿を見出しているでしょうか。
さて、今日読んだ9:18がノアの洪水物語の締めくくりとなります。
「箱舟から出たノアの息子はセム、ハム、ヤフェトであった」
ノアと息子たちの名前が記されています。この洪水物語の初め、6:9も同じノアの系図で始まっています。
「ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた」
この洪水物語は、なぜ洪水が起こされたのか、ということ一緒に、この洪水から救い出されたのは、この人たちだった、ということを強調しているのです。そして洪水が終わった後、聖書はこう記しています。
「この3人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである」
ここから、地上の新しい世代が始まっていった、ということを私たちに伝えているのです。神の和解の契約とともに新しい世代が始まっていくことになります。洪水の後、地上の全ての人間がここから始まった、ということは、私たちの信仰のルーツはここまでさかのぼる、ということでしょう。
洪水によって、人間の心が清くなるのではいか、という期待は幻想に終わりました。「人間の心は生まれた時から悪いのだ」と神はおっしゃいます。洪水の後もそれは変わりませんでした。
聖書が伝えている希望は、「それでも人間は終わりではない」ということです。地上に人の悪が満ちた混沌の世界から、神の救いによって新しい信仰の一歩が与えられた、その恵みの現実を聖書は私たちに教えてくれているのです。
私たちはこの物語を通して自分の信仰の根本を見ると共に、自分たち自身の信仰の歩み出しを思い返すことが出来るのではないでしょうか。
何の理由もなく信仰を求める人はいないでしょう。道が見えなくて、どこかに平安を見出したくて、どんな時でも心のよりどころになるものが欲しくて、神を求め始めるのです。
信仰とは何でしょうか。それは、生きる道そのものです。生きる方向そのものです。自分がただ生きているのではなく、どこを向いて生きているのか、今この瞬間何のために生きているのかを知っていたいのです。それを教えてくださる存在を、そのような生き方へと導いてくださる存在を求めているのです。
この物語は、神との契約と共に歩みだす信仰の民の始まりを描いています。だから、私たちはこの中に信仰者としての自分の姿を見出すことが出来るのです。そして、今自分が導かれた信仰のあり方を吟味させられるのです。
ノアの礼拝と神からの祝福、これが神との契約に生きる私たちの今の信仰を描き出したものなのです。
箱舟を下りて礼拝を捧げたノアに、またその家族に、神は祝福の言葉をお与えになりました。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
9:1と9:7にこの神の祝福の言葉が繰り返されています。これは、初めの天地創造の際に神が男と女に対しておっしゃった祝福と同じ言葉です。
続けて神はこうおっしゃいます。
9:2~4「地の全ての獣と、空の全ての鳥は、地を這うすべてのものと、海の全ての魚とともにあなた達の前に恐れおののき、あなた達の手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。私はこれらすべてのものを青草と同じようにあなたたちに与える」
読み方によっては、人間は世界の全ての生き物に対して好き勝手して許されているようにもとれます。被造物が人間に対して恐れおののく、そして人間は何を食べてもいい、と言われているのです。新しくされた世界において人間は我が物顔に世界を支配していいということなのでしょうか。
最初の人アダムも「地を従わせよ」と言われました。しかしそれは、「大地に仕えなさい」という意味の言葉でした。
確かに人間にはこの地上で自由に生きることが許されています。それが神の祝福です。その自由というのは、神が示された平和の中における自由なのです。好き放題やっていい、ということではありませんでした。
この言葉の後、神は人間に制約をお与えになっています。
「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」
「人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する」
血は、命の象徴です。人は、自分が食べるものに対して、自然に対して、共に生きる隣人に対して畏敬の念をもつことが求められています。神が下さる祝福は、人間の神への従順、被造物への敬意のもとにある自由でした。ただ人間が自然の中に神として君臨するような自由ではありません。隣人との平和、世界との調和の中にある自由です。
祝福の後、神は契約の言葉をお聞かせになりました。ノアだけでなく、ノアの家族だけでもなく、全ての生き物に向かって、神は契約の言葉をお聞かせになりました。それは一言でいうと、「ことごとく生き物を滅ぼすということはしない」という約束でした。
特定の個人に対してではなく、特定の民族や共同体ではなく、全ての被造物に対して神は契約なさったのです。しかも、それは被造物が何かしてそのご褒美として、ということではなく、神がご自分で決断されたことを、一方的な恵みとして被造物に約束されたものでした。
8節から17節の間に7回契約という言葉が使われています。これは人間だけでなく全ての生きている被造物にまでお示しになった神の恵みの約束です。私たちはこの世界で自由に生きる恵みが与えられました。その恵みは、この神の決断・契約に基づいていることを忘れてはならないのです。
契約の言葉によって私たちは、生きる道が示されています。逆に言えば、神の言葉がなければ、人は簡単に道を見失う、ということでしょう。その意味で、このノアの物語は、私たちが命と死に至る道の岐路に生きているということをはっきりと教えてくれているのではないでしょうか。
神は契約の印として虹をお見せになりました。この「虹を置いた」というのは、直訳したら「空に弓を置いた」という言葉になります。神の祝福に背を向けるような生き方をすれば、神はその弓をもって裁かれる、という警告のしるしとしてとらえることもできるでしょう。
私たちは虹を見るたびに、また雨が与えられるたびに、自分たちが神の憐れみによって生かされていることと、この地上での自分のあり方が問われていることを思い起こすのです。そして神がこの世界をご自身が弓を持って見張っていらっしゃることを。神が人の悪を見張る番人となってくださっています。神はそのようにこの世界を人の悪から守ってくださいます。それは、もし自分が悪の方に走れば、神の弓によって裁かれる、ということでもあります。
このことを心に置いていれば、神が二度と洪水を起こさないと決意されたとしても、自分たちは裁きとは無縁ではないということを忘れずに済むのではないでしょうか。
イエス・キリストは、「天の父は善人にも悪人にも雨を降らせてくださる」とおっしゃいました。被造物が全て生きられるために、神は雨をくださいます。その雨の後ろには虹があり、そこには神の決断が、契約があります。日が照り、雨が降る私たちの生活の中に、どれだけ神の恵みがあふれているでしょうか。当たり前のように日の光と恵みの雨が与えられている私たちには、神と共に生きる道と神へと立ち返る道が平等に与えられているのです。
今を生きる私たちはどこに神のしるしを見出しているでしょうか。イエス・キリストはおっしゃいました。
「今の時代にはヨナのしるししか与えられない」
旧約聖書のヨナ書を見ると、神の元から逃げ出したヨナは魚に飲まれ、三日後に吐き出されました。キリストは、十字架で殺された後墓に入れられ、三日後に墓の中から復活されました。
私たちに与えられているヨナのしるしとは、イエス・キリストの復活です。あの空になったキリストの墓こそが、私たちに与えられた祝福のしるしであり、十字架でキリストが流された血こそが、神との和解の契約のしるしだったのです。
私たちはノアの洪水をはじめ、聖書に描かれている神話のような物語を読んで、自分の実生活とは別の次元の物語のように解釈して終わらせていないでしょうか。「自分の周りには、こんな不思議な出来事は起こっていない」と言って読み進めていないでしょうか。
これは私たちの現実を描き出した物語であり、今の私たちの日常がどんなに大きな神の祝福と契約の内に置かれたものであるか、ということを伝えているのです。この一年、感謝をもって歩み出していきたいと思います。