マルコ福音書14:22~26
「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14:25)
「最後の晩餐」とか、「主の食卓」と呼ばれている、キリストが弟子達にご自分の肉と血を象徴するパンと葡萄酒をお与えになった食卓です。私たちが礼拝の中で行う聖餐式の原型となる過越の食卓です。
「過越の食卓」は、定められた手順を踏んでもたれます。その家族の長が取り仕切り、長い時間をかけて、食事や盃が出されるごとに祝福の言葉とその意味が語られます。そうやって、イスラエルの先祖の出エジプトの恵みを追体験するのです。
主イエスと弟子達がもったこの食卓は、普通の過ぎ越しの食卓とは少し違っていました。
過去に与えられた救いについてだけではなく、これから与えられることになる新しい救いについて語られているのです。
「主イエスは、私の体と血をあなたたちに与えよう、取りなさい」とおっしゃっています。主イエスは、ご自分の死を弟子達にお与えになりました。
この晩、主イエスが弟子達と囲まれた過ぎ越しの食卓は、「新しい過ぎ越し・救い」の始まりだったのです。
我々は、まず、この食卓の根っこにあるものをしっかりとらえていきたいと思います。過ぎ越しの食卓は、イスラエルはエジプトでの奴隷生活からの解放を思い起こし、自分たちの今が神の救いの恵みによるものであることを記念する食卓です。
聖書に記されている出エジプトの出来事を読むと、神の救いの不思議を思わされるのではないでしょうか。神によってエジプトの奴隷生活から救われた、と聞くと、「イスラエルは神によってすぐに豊かで幸せな生活を始めた」と思うのではないでしょうか。「神の救い」と聞くと、誰だって「楽に楽しく生きられるようになることだ」と考えます。
しかし神がイスラエルをエジプトから解放し、導き入れられたのは荒れ野でした。そこから40年間、イスラエルは荒れ野の旅を続けなければならなくなります。実際にエジプトから脱出した人たちは皆荒れ野で死に、約束の地にたどり着いたのは荒れ野で生まれた世代の人たちでした。それほどに苦しい旅でした。イスラエルの人たちは荒れ野で何度も、自分たちを導くモーセやアロンに向かって「こんなにしんどいのならエジプトに帰りたい」と泣き言を言いました。
なぜ、イスラエルは40年も荒れ野を旅しなければならなかったのでしょうか。神は、旅の最後で、モーセを通して全イスラエルに向けてその理由をお教えになりました。
申命記に記されている言葉を引用します。
「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことの無いマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足が腫れることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」
荒れ野の40年の意味、それは、「イスラエルを生かしているのは神である」、ということを学ぶことにありました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」、ということを学ぶために、イスラエルは荒れ野を40年も歩かされたのだ。
私たちは、イスラエルの荒れ野の40年を通して、自分たちが生きる中での苦しみや信仰の試練が持っている意味を見出すことができる。
イスラエルは神の民として選ばれました。それは、神に優遇されて、他の人たちよりも楽な道を行かせてもらえる、などということではありませんでした。イスラエルの歴史を見ると、イスラエルが神の民だからと言って、特別に楽な道が与えられたわけではなかったことがわかります。むしろ逆でした。
イスラエルは「世のすべての人を神のもとへと導く」という重い使命を託されたのです。そして神との契約の民であるがゆえに、偶像礼拝の快楽の誘惑とも戦い続けなければならなくなりました。イスラエルは神に選ばれた故の苦しみ、信仰ゆえの苦しみを課せられたのです。
しかし、それこそが本当は神からいただく恵みでもありました。イスラエルはその信仰の苦しみの中で神が共にいてくださる、ということを何度も見せられるのです。
神はイスラエルに「私はどこへ行こうともあなたがたと共にいる」と約束してくださり、「自分たちはパンだけではなく、神の言葉によって生かされるのだ」ということを学ばされました。
神の救いの御業は、出エジプトが起こった過ぎ越しの夜だけのことではありませんでした。荒れ野の40年も、その後のイスラエルの歩みにも神はいつも共にいて、喜びと苦しみを共にしてくださっていたのです。
イスラエルが苦しむ時、神が共にその重荷を背負い、共に歩んでくださいました。そして、長いイスラエルの歴史の中で、神は預言者を通してイスラエルにとって必要な道を示してこられました。イスラエルにはいつも、神の導きの言葉が与えられてきたのです。
神が共にいてくださる、それこそ、人間を生かしている大きな力です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きる」とはそういうことです。
神が共にいてくださらなければ、イスラエルは荒れ野ですぐに死に絶えていたでしょう。しかし、40年間、水も食べ物もない荒れ野でマナが与えられ岩から水が与えられ、イスラエルは神によって生かされました。
イエス・キリストは、荒野で40日間断食され、悪魔に誘惑された時に「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」とおっしゃいました。
これは、信仰者が聖書を通して示される大きな真理です。私達が信仰者として生きる人生を、イスラエルが体験した荒野と重ね合わせると、わかると思います。
私達は生まれてから死ぬまで、食べて、飲んで、生きます。私達が口にする食べ物も飲み物も、その源は、創造主である神が備えてくださったものです。
神を信じて生きる、ということは、私達の命の源を知って生きる、ということです。それを知るために、私達は生きる中で試練が与えられ、神と共に生きる道へと導き入れられるのです。
そうして見ると、私たちが感じている苦しみや試練にも、神は大きな意味を持たせてくださり、何かをお見せになろうとしてくださっている、ということがわかるのではないでしょうか。
神は、約束の地に入ろうとするイスラエルにこうおっしゃいました。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」
私たちは、神が共にいてくださるという恵みを簡単に忘れてしいます。この神の言葉は、我々がいつでも聞き続けなければならないものではないでしょうか。
私達は、簡単に創造主を忘れ、自分を本当に生かしているもの、自分たちの命の源を忘れてしまいます。だから、私たちには私たちを生かす、神の口から出る言葉、聖書が残されているのです。
主イエスはこの食卓で、我々の肉体の死の向こう側に用意されている神の国、永遠の命を示されました。もしも、イエス・キリストの体と血が我々に与えられていなかったらどうなっていたでしょうか。もしイエス・キリストの十字架と復活がなく、我々に永遠の命が示されなかったとしたら、我々の生き方はどうなってしまうのでしょうか。
パウロは、コリントの教会にこう書き送っている。
「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」
食べて飲む、そして死を待つ・・・それだけのものになってしまうではないか、とパウロは言います。
だからこそ、イエス・キリストは、地上での最後の夜、弟子達と食卓を囲み、「あなたたちを生かすのは、引き裂かれる私の体、流される私の血だ」、とパンと葡萄酒をお渡しになり、「このことを覚えていなさい」、とおっしゃったのです。
主イエスは、ご自分の血のことを「多くの人のために流される私の血」である、とおっしゃいました。「多くの人のために」血を流す苦難の僕と呼ばれる存在について、イザヤ書53章に預言されています。その苦難の僕は、神の民を救い出すために苦しみ、死ぬという使命をもって世に遣わされる、と言われています。このイエスという方こそ、苦難の僕でした。この方こそ、多くの人のために肉を裂かれ、血を流すために、世に来てくださった救い主でした。
主イエスが今まさに進み出ようとするご自分の死は、歴史の中で起こった偶然の悲劇ではありません。それは神がご自分の民を救い出し、人々を新しく神との契約へと招き入れるための救いの業のための、尊い犠牲だったのです。
主イエスはご自分の死について語られましたが、それで終わり・行き止まりではありません。主イエスはすでに「神の国で新たに飲むその日」をご自分の十字架の死の向こう側をご覧になっています。
この食卓こそ、私たちクリスチャンの信仰の核となるものです。我々の信仰の喜びは、イエス・キリストと共に囲むこの聖なる食卓に招かれている、ということに集約されます。
キリストはこの聖なる食卓に、罪びとである我々が一人ひとり名を呼ばれ、招いてくださいます。そしてこの食卓で、私たちはキリストの体と血をいただき、私たちの命の源がイエス・キリストにある、ということを確認するのです。
この食卓は、過去の出来事として完結するものではありません。この世の終わりに、眠りについた私たちはキリストから名前を呼ばれ、死から起こされて、再びキリストを中心とした恵みの食卓に着くことになります。我々は、その神の国の完成に向かっていることを聖餐式ごとに思い起こすのです。
私たちを生かしているのは、イエス・キリストなのです。