1月30日の説教要旨

マルコ福音書14:53~65

「イエスは言われた『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に、囲まれて来るのを見る』」(14:62)

主イエスはこれまで、神を「父」と呼んで来られました。それはつまり、ご自分が神の子である、ということです。

一週間前にエルサレムに入られた主イエスは神殿の境内から商人を追い出し、そこで神の国の教えを群衆に語って来られました。エルサレム神殿の中でわがもの顔に振る舞うナザレのイエスに、祭司長、律法学者、長老は「何の権威でこんなことをしているのか」と問い詰めます。

その際、主イエスは彼らにぶどう畑のたとえをお話しなさいました。ブドウ園の主人の息子が、ブドウ園の農夫たちに殺されてしまう、というたとえ話です。それは祭司長たちが主イエスを殺す、ということを暗示したたとえ話でした。ブドウ園の主人というのは、神であり、殺される主人の息子は神の子である・・・つまり、主イエスご自身は「神の子・メシアである」ということを暗示した話でした。

また、神殿の崩壊の預言を聞いた弟子達に主イエスは「世の終わりがいつ来るかわからないのだから、備えて、目を覚ましていなさい」「その日、その時は、父だけがご存じである」とおっしゃいました。この世の終わりがいつなのか、自分の父である神のみがご存じである、という言い方です。

神を自分の父と呼び、自分が神の子であるかのように振る舞ってきた。ナザレのイエスに、ついに大祭司は裁判の中で、核心をついた質問をします。

「お前はほむべき方の子、メシアなのか」

神を直接言い表すことを裂けて、「ほむべき方」と言っています。つまりこれは「お前は、結局何者なのだ。神なのか」という質問です。

ここで主イエスははっきりと「そうです」とお答えになりました。

これまで主イエスは民衆に対して、御自分からメシアであることを秘密にしてこられました。ペトロが主イエスに「あなたはメシアです」と信仰を告白した時にも、「それを誰にも言ってはいけない」とお命じになりました。人々がそれぞれ好き勝手なメシア像を持っていたからです。

しかし、ついにここで隠してこられたご自分の本当の権威、神の子メシアであることをユダヤの指導者たちに明らかにされました。ご自分の口ではっきりと、ご自分が天から来た神であり、やがて栄光に包まれて世の終わりに再びやってくるだろう、とおっしゃったのです。

「人の子が全能の神の右の座に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

旧約聖書の預言書、ダニエル書7章で預言されている、栄光の雲に囲まれてやってくる「人の子」と呼ばれている神の姿こそ、「私だ」とおっしゃったのです。

これを聞いて大祭司は衣を引き裂きながら、「この者は神を冒涜した」と言いました。そして最高法院の人たちは、主イエスを死刑にすることを決議しました。

メシアである主イエスがご自分をメシアとおっしゃった、ということで、なぜ死刑の判決になるのでしょうか。主イエスは、本当のことをおっしゃっただけなのです。主イエスがおっしゃったことが本当であるなら、何の問題もないはずです。これは真実を明らかにする「裁判」なのですから。

しかし、最高法院の人たちは、この主イエスの言葉を受け入れませんでした。それを信じることができなかったからです。

私たちは、考えたいと思います。人間の裁きとは何なのでしょうか。本当に人間は、正しく人間を裁くことができるのでしょうか。

聖書の中には、神の裁きを待ち望む弱い人たちの叫びがたくさん残されています。「主よ、私はあなたの裁きを待ち望みます」といろんな時代の信仰者が祈りが記録されています。

なぜでしょうか。人間の裁きが不完全だからです。罪の力に支配されている人間は、自分に引き寄せた裁きをしてしまうのです。良いものをよい、悪いものを悪いとする、ということは、人間には難しいのです。自分の都合の良いように裁きを行ってしまいます。人の裁きを左右する、他の力が働いてしまいます。

この夜の最高法院の人たちを見ればわかります。これはもともと主イエスを死刑へと陥れるための裁判でした。「ナザレのイエスは死刑だ」、ということがもともと決まっていたのです。主イエスは正しい裁きの中で有罪とされたのではありません。愚かな罪びとの裁きの中で、甘んじて有罪判決をお受けになったのです。

私たちは、この裁判を通して考えたいと思います。人は神を裁くことができるのでしょうか。神を裁く人間とは一体何なのでしょうか。

私たちは今、十字架へと追いやられるイエス・キリストのお姿を見ています。それは、罪の力がキリストを十字架へと運ぶ姿であり、キリストが罪を全て背負っていかれるお姿です。

主イエスはご自分に死刑の宣告をした、この最高法院の人たちの罪を今、背負われました。神に仕えるはずの祭司や律法学者たちが神に死刑判決を下した瞬間です。その罪を、神ご自身が背負われるのです。

私たちは、受難の道を行かれるイエス・キリストの周辺に自分の姿を見出します。私達はあの時キリストを十字架へと追いやる大勢の人たちの中にいたのです。キリストを引き渡すユダ、キリストを見捨てる弟子達、キリストを裁き有罪とした最高法院の人たち、そしてこの後、十字架刑を宣告するローマ総督ポンテオ・ピラト・・・。私たち一人一人が、キリストを見捨てた弟子達の中に、キリストを陥れる偽の証言をした人の中に、死刑を決議した人の中に、唾を吐き、殴った人の中に確かにいたのです。

最後の晩餐からイエス・キリストの十字架の死にいたるまで、私たちは、自分の姿をここで見せつけられることになります。自分の罪を見つめなければならないのです。そして、その罪をご自分の身に引き受けていかれるイエス・キリストの愛を見せつけられることになります。

主イエスは世の終わりにご自分が栄光に包まれて再び来る、とおっしゃいました。エルサレムへの旅の初めに、主イエスは3人の弟子達を山の上へといざなわれた。3人はそこで栄光の光に輝き、天の雲に包まれるイエス・キリストのお姿を見ました。最高法院の人たちに主イエスがおっしゃった栄光の天の雲を、弟子達は、既に見たのです。

キリストの復活を見た弟子達は、その栄光を伝えるようになりました。弟子達は十字架の死から復活なさったイエス・キリストを一生涯伝え続けたのです。

ペトロは後に、自分の手紙の中でこう書いている。

「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた栄光を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聴いたのです」

一度は見捨てて逃げ去った主イエスを、なぜ弟子達は一転して、命をかけて伝え続けたのでしょうか。最後の晩餐から十字架に打ち付けられるまでの、あのキリストの最後の夜を一生涯忘れることが出来なかったからでしょう。あの夜の自分の罪を忘れることが出来なかったからです。

弟子達は主イエスを見捨てて逃げました。しかし、あの方は自分たちを許し、ガリラヤでの再会を約束してくださいました。あの夜、キリストはイザヤが預言した苦難の僕として甘んじて罪びとからの痛みをお受けになりました。そしてその先にある、ダニエルが預言した人の子・栄光の雲につつまれる神の再臨をお示しになりました。

使徒言行録を見ると、ペトロは多くの人たちに証言したことが記されている。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

ゴルゴタの丘で主イエスを十字架へと追いやった人たちは、ペトロの言葉を聞いて恐れました。そして恐れを抱いた人たちは皆、悔い改めの洗礼を受け、キリストの許しへと立ち返った。

一度は逃げたペトロでした。しかし、キリストが復活なさったのち、自分の命をかけて、キリストの復活を証言し続けました。自分の罪を知った者、そしてその罪が許されたことを知った者は、その罪を担ってくださった方のことを証言する者へと変えられるのです。そしてその証言が、また新たな証言者を生みだしていきます。

結び

人となられた神が自分たちの目の前にいらっしゃり、「私はやがて神の座に着き、天の雲に囲まれて来るだろう」とおっしゃったのを聞いても、祭司長や律法学者たちは、信じなかった。罪によって信仰の目が曇っていたからだ。

キリストの十字架は、復活へとつながっていきます。私たちには、罪びとでありながら、神の元へと立ち返る道が拓かれた。主の復活で、雲が払われたのです。

私たちの一生は、イエス・キリストの後を追い、離れていた神の元へ立ち返る旅です。

主イエスは弟子達に言い残された。

「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る時に、その者を恥じる」

ヘブライ人の手紙にもこう記されている。

「もし、私たちが真理の知識を受けた後のも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」

キリストを恥としていた罪から離れ、キリストを誇りとして生きていきましょう。