4月3日の説教要旨

創世記15:1~11

「アブラムは主を信じた。主イエスはそれを彼の義と認められた」(15:6)

このアブラムという人は、後にアブラハムという名前になり、イスラエルの「信仰の父」と呼ばれるようになった人です。後のイスラエルの人たちは、自分たちのことを「アブラハムの子」と呼ぶようになります。

「アブラハムの子」・イスラエルの一員である、ということは、神とアブラハムの間に交わされたこの契約に加えられている一人・神と共に生きる信仰の民の一員である、ということです。

今日読んだところは、新しいイスラエルである私たちキリスト教会にとって、自分たちの根っこがどこにあるのかが見える大切な場面です。

神はどのような時にアブラムに語り掛け、祝福の契約を結ばれたのか、見ていきましょう。

15:1「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」

「これらのこと」というのは、14章に記されている、アブラムが住んでいた地方の王たちの戦いのことです。何人もの王たちが争いに巻き込まれてアブラムの甥のロトが連れ去られてしまいました。アブラムは僕たちを率いて戦い、ロトを、そして財産や女性たちなど、連れ去られた人たち・ものを取り戻しました。

神がアブラムに声をかけられたのは、アブラムが人間たちの争いに巻き込まれて疲れ切っていた時でした。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」

「あなたには私の守りがある。この世の愚かな人間同士の争い、戦い・混乱の中にあっても、私はあなたを守る」と神はアブラムに約束してくださったのです。

戦い巻き込まれて疲れていたアブラムが一番聞きたいと思っていた言葉だったのではないか、と誰もが思うのではないでしょうか。

しかし、アブラムは神による守りの約束を聞いても、喜ぶどころか、不満を口にします。

「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧の通り、あなたは私に子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が後を継ぐことになっています」

戦争に巻き込まれること以上に、アブラムの心を占めていたのは、自分に後継ぎとなる子供がいない、ということでした。

神に召されてからここまで、アブラムは神からたくさんの祝福を受けてきました。自分の財産が増え、僕たちを率いて戦えるほどの力をもつことが出来ました。しかし、アブラムには、空しさもあったのです。自分が死んだあと、それを受け継ぐ自分の子がいない、ということでした。

たとえ甥のロトを救い出したとしても、ロトが自分の家を継ぐわけではないのです。アブラムは、神に愚痴をこぼしました。

アブラムの嘆きを聞かれた神はさらに、言葉をお与えになります。

4節 「見よ、主の言葉があった」とあります。聖書は、私達読者に向かって「見よ」と言います。神がこの次におっしゃった言葉には決定的な意味があるのです。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」

アブラムの僕の一人、エリエゼルではなく、これからアブラムに生まれる子供が跡を継ぐ、と神はおっしゃいました。つまりそれは、これからアブラムに子供が与えられる、ということです。

そして神はアブラムにその証拠として、アブラムを外に連れ出して、天の星をお見せになりました。

「あなたから生まれる子孫はこのようになる」

神の招きにこたえて自分の故郷を捨て、ここまで旅をしてきたアブラムは、神の言葉は必ず実現する、ということを知っていました。自分が死んだあとのことを考えて空しさを覚えていたアブラムは、満天の星を見て圧倒されたのではないでしょうか。

それは、アブラムという一人の信仰者から、天を覆うほどの信仰の民・契約の民が生まれるだろうという予告でした。

アブラムにとっては、思いもかけなかった祝福でした。昨日まで、こんな祝福が自分に突然与えられるなどということは予想もしていませんでした。満天の星を通して神の恵みを見せられたアブラムは「主を信じた」とあります。既にアブラムは75歳を超えていました。しかし、「あなたから生まれる者が後を継ぐ」という神の言葉を疑いませんでした。

なぜアブラムはそんな、信じがたい言葉・約束を受け入れることができたのでしょうか。

神が、そうおっしゃったからです。それをおっしゃったのが、神だったからです。それが神の言葉だったからです。だから彼は受け入れたのです。これまでの神の言葉は全て実現したからです。

旧約聖書の元のヘブライ語では、「言葉」という単語には「言葉」という意味ともう一つ、「出来事」という意味もある。神がそうおっしゃったのなら、もうすでにそれは間違いなく実現する出来事なのです。

旧約聖書では預言者たちの言葉が記録されています。預言者たちが伝えた神の言葉は、歴史の中で必ず実現していきました。言いっぱなしではなく、神の言葉・神が預言者を通しておっしゃったことは全て出来事となっていきました。

神はご自分の言葉を受け入れたアブラムを「義と認められた」とあります。「義」というのは、正しい関係性のことを言う言葉です。神は、アブラムを、御自分が契約を結ぶのにふさわしい、誠実な人としてご覧になった、ということです。私たちはこの神とアブラムとの短いやりとりの中に、神と信仰者の間に結ばれた深い信頼を見るのです。

さて、私たちはこのアブラムという人を見てどう思うでしょうか。信じられないようなことを神から告げられ、アブラムは黙って信じました。

私たちは、ここでのアブラムの姿を見て、「自分には真似できない。『信仰の父』と呼ばれるようなアブラムの真似はできない。自分は疑い深い人間だからアブラムのような上等な信仰を持つことはなかなかできない」、などと思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、アブラムも、私たちと同じ、一人の信仰者に過ぎませんでした。私たちと同じなのです。神から祝福をいただきながらも、失望したり、愚痴ったりする私たちと同じなのです。

本当に誠実さを示されたのは神でした。神は、愚痴をこぼすアブラムに忍耐強く寄り添われたように、私たちのような足元の定まらない信仰者を祝福をもって追いかけてくださるのです。

神とアブラムのように、私たちは神と一緒に時間を重ねて、少しずつ信頼を積み重ねていく、その信頼関係が私たちの信仰生活ではないでしょうか。

私たちはすぐに、試験の点数をつけるような仕方で自分の信仰生活を顧みてしまいます。しかし、信仰というのは、誰かと比較して点数をつけるようなものではないでしょう。

キリストと弟子達との関係を見ればわかります。疑うことを知らず、失望することも知らないような信仰の塊のような人たちが弟子として召されたのではありません。弟子達は何度も躓き、何度も許されながら、不完全な信仰の歩みの中でただキリストに憐れまれて弟子とされていったのです。「まだ信じないのか。信仰の薄い者よ」と何度も叱られながら、弟子達はキリストとの時間を積み重ねていきました。

信仰生活とは、そのようなものではないでしょうか。

さて、神の祝福の言葉を信じたアブラムに更なる祝福が告げられます。

7節「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」

アブラムはそれを聞いて驚きます。子孫が与えられる、というだけでなく、土地も与えられる、というのです。

アブラムは神に召されてからここまでずっと旅を続けてきました。「一つの場所に根を下ろして、落ち着いて生活したい」という思いも当然あったでしょう。

8節「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることが出来ましょうか」

突然示された、あまりに大きな恵みにアブラムは思わずそう聞いきました。それに対して神は、「契約を結ぶための動物を用意しなさい」とおっしゃいました。口約束で終わらせることなく、祝福の契約を結ぼう、ということです。

契約とは動物を真っ二つに裂いて、約束を守らなければこうなるということを双方が確認する儀式です。契約というのは、命を懸けたものでした。神はご自分の命をかけて、アブラムに子供と土地をお与えになることを約束されたのです。

神のイスラエルへの愛は、単なる感情ではありませんでした。命をかけた契約によって、神はイスラエルを愛されたのです。

後に契約の民イスラエルは神に背を向け、偶像礼拝に走り、やがてアッシリアやバビロニアという帝国に滅ぼされることになります。神とイスラエルの愛の契約はイスラエルの側から壊されていきました。しかし神は、それでも、イスラエルをお見捨てになりませんでした。御自分は、イスラエルを愛する、という契約を守り抜かれました。

偶像礼拝によって滅びに向かっていくイスラエルに、神は預言者エレミヤを通して、もう一度新しく契約を結びなおすことをおっしゃいます。もう一度、ご自分の民イスラエルを取り戻すことを約束されました。

神を捨て、神から離れた、契約違反を犯した人間は全て、本当は二つに裂かれた動物のように死ななければなりませんでした。しかし、神はご自分の独り子を世に送り、人間の罪をその愛する独り子に全て背負わせられたのです。

神は、独り子をいけにえとして十字架に上げ、その血を流して契約を結ばれました。イエス・キリストの十字架です。あの方が十字架で流された血は、神と人間の間に結ばれた新しい愛の契約の血でした。神を見捨てた人間を、神はお見捨てになりませんでした。

「これは多くの罪びとのために流す私の血、契約の血である」とキリストはおっしゃいました。

私が上げられるはずの十字架の上に、神の子が上げられている・・・驚くべき恵みはそこにある。

アブラムと契約を結ばれたその時から、神の命がけの愛はずっと続いてきたのです。

ヘブ10:26「もし私たちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のための生贄は、もはや残っていません」

新約聖書では、イエス・キリストのことを「アブラハムの子」と呼んでいます。そしてキリストへの信仰によって神の子・信仰の民とされたキリスト教会が、新しいイスラエルとして世界中に神の招きの祝福を伝える使命へと召されました。

神があの時アブラムにお見せになった夜空にあった満天の星は、私たちでした。アブラムは太古の昔、夜空に、世界中に広がる教会の信仰者たちの姿を見たのです。キリスト教会という信仰の群れは、星が夜の世界を照らすように、この世にキリストの光を照らしています。

キリストは弟子達に「あなたがたは世の光である」とおっしゃいました。ささやかな光でいいです。私たちが放つ小さな光が、イエス・キリストの元へと通じる道を照らす光として用いられます。