5月8日の説教要旨

使徒言行禄1:1~5

「『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる』」(1:5)

イエス・キリストが復活なさった後の弟子達の姿を見ています。これからしばらく、使徒言行禄を読みながら、キリストの復活によって宣教へと押し出された使徒たち、そして教会の成長を見ていきたいと思います。

使徒言行禄は、ルカ福音書と同じ著者によって記されました。ルカ福音書は前編としてイエス・キリストを、使徒言行禄は後編として使徒たち・教会の働きを描いています。

今日私たちは、使徒言行禄の一番初めのところを読みました。十字架に上げられ、無残に殺されたイエス・キリストは、弟子達に復活されたお姿を見せ、40日間、彼らと共に過ごされました。

復活なさった主イエスと共に食事をしたりして過ごした人たちは、主イエスが天に昇って行かれた後、エルサレムの家の一室で祈り続けることになります。そしてその祈りの上に聖霊が注がれ、「キリストが復活された」、という喜ばしい知らせ・福音がエルサレムに、アンティオキアに、アジアに、ヨーロッパに広がっていくのです。

使徒言行禄は「旅の記録」と言っていいものです。教会がどのように誕生したのか、そして、聖霊に満たされた信仰者の群がどのようにイエス・キリストの復活を伝えるためにエルサレムから世界中へと旅へと出て行ったのかが描かれています。

そして使徒言行禄を読む際に大切なことは、その旅は今の私たちにまで続いている、ということです。キリストが復活なさったという福音は、私たちキリスト教会を通して今でも世界中をかけめぐっているのです。

福音を知らされた人たちは、次の人にキリストの復活を伝えるために、今いる場所から次の場所へと旅立って行きました。

ペトロやパウロ、そしてキリストの使徒たちが迫害されながら、場所を変えてキリストを伝えるために旅を続ける姿を見ます。

使徒言行禄は、キリストによって押し出される信仰者たちの旅を描きながら、私たちにはいつも信仰によって新しい道が与えられる、ということを伝えているのです。

ルカ福音書と使徒言行禄と記したルカは、キリストの福音を知った信仰者たちの旅を描く中で「道」という言葉をよく使っています。聖書の中で「道」という言葉がつかわれる時、それは、単なる道路のことではありません。一人の人間がキリストを知ってから歩み始める信仰の道・信仰の生き方そのものを意味しています。

キリストを知る、ということでどれだけ自分の生きる道を変わったか、それを思い返すと、誰もが気づくでしょう。自分の小さなキリストへの信仰が自分の人生をどれだけ変えたのか、振り返ると驚くのではないでしょうか。

キリストを知って生きるのと、知らずに生きるのでは、歩む道が、生き方が全く違ってきます。私たちは信仰を通して何を恐れ、何を一番大事にするべきかを知ります。信仰を通して積み重ねていく選択・決断によって、信仰者の人生は自分では考えもしなかった方へと導かれていくのです。

使徒言行禄で描かれているキリストの使徒たちを見ていくと、わかるでしょう。彼らは、誰もが普通の人でした。ペトロやヨハネは、使徒言行禄の中では「無学な普通の人」と書かれています。

キリストの使徒とされた人たちにはどんな特徴・共通点があったのでしょうか。

それは、「もう自分にはキリストの許しにすがるしかない」というところまで自分の罪に打ちひしがれた人たちだった、ということです。

復活のキリストに許され再び招かれた彼らは「自分を喜ばせる生き方」をやめました。そして「神が喜んでくださる生き方」を歩むようになりました。彼らは復活のキリストに招かれ、新しい道を与えられた人たちだったのです。

信仰の道はいつでも、神から何かを見せられる、というところから始まります。自分の力で何かを手にする、というところから始まるのではありません。「もう祈るしかない、もうキリストに許していただくしかない」、というところから祈りを通して何かが示されるのです。

復活されたキリストが天に昇って行かれるのを見送った弟子達は、ずっと天を見上げていました。キリストが復活して目の前に現れてくださったのに、またいなくなってしまわれた・・・どうしていいかわからなかったのです。その彼らに新しい道を示したのは、白い服を来た二人の人でした。この二人は、キリストの墓にいた天使でした。

天使は弟子達に告げます。

「イエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

普通だったら信じないでしょう。しかし、彼らは、キリストの復活を自分の目で見ました。キリストの昇天を自分の目で見ました。

弟子達はなすべきことが天から示されたのです。キリストは天に昇って行かれ、その姿を見ることがなくなっても、彼らは孤独ではありませんでした。祈り、神が備えてくだる時を祈って待ったのです。やがて、エルサレムの町の中にあった家の一室で祈り続ける彼らの上に天から聖霊が注がれることになります。

改めて、確認しておきたいと思います。キリスト教会は、信仰深い人たちが集まって、「教会を作ろう」と言って作ったものではありません。祈りの群れに天から聖霊が注がれ、教会はできました。

福音書を振り返ると、神のご計画が実現する時には、いつも聖霊の導きが与えられています。

キリストがお生まれになるときは、天使がマリアにそのことを告げました。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む」。聖霊が降ってマリアは主を身ごもりました。

主イエスが洗礼をお受けになった時、「天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に」降ったとあります。主イエスに聖霊が降り、メシアによるガリラヤ宣教が始まりました。

いつでも、聖霊を通して神の救いの御業は進んできたのです。そして今、復活なさったイエス・キリストは弟子達におっしゃいます。「私は、父が約束されたものをあなた方に送る」。それこそ聖霊だった。

人は自分の力で自分を信仰者とすることはできません。むしろ、自分の力を捨てて、聖霊に身をゆだねた時に、自分が変えられていくのです。

教会を迫害していたサウロは復活なさったイエス・キリストの声を聞きました。「なぜ私を迫害するのか」。そこから彼はパウロという名前でキリスト者としての道を歩み始めました。パウロは、まさか自分が教会のために働くようになるなどとは思ってもみなかったでしょう。

ペトロは屋上で昼寝をしていた時、神から様々な動物の幻を見せられ、そこから異邦人へとキリストの復活を伝えに行く道が示されました。ペトロも、まさか自分が異邦人にまでキリストの復活を伝えることになるなどとは思ってもいなかったでしょう。

聖霊は、人間の思いを超えて働くのです。

主イエスの一番弟子のペトロは最高法院の人たちに捕まり「イエスのことを人々に話すな」と言われた際、堂々と弁明しました。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。我々は見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」

聖霊は人を変えます。全く新しく造り変えます。新しい存在として、新しい道を歩ませます。私たちは、これから使徒言行禄を通して、そのことを学んでいきたいと思います。

最後に、詩編126編の言葉を見ます。

BC6世紀に、バビロンに囚われていたイスラエルの人たちが詠んだ歌です。

4~6節「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」

イスラエルの人たちがバビロンで捕囚とされていた時に、神の言葉が与えられました。捕らわれの身から解放される、と告げられたのです。エルサレムを破壊されバビロンへと連れ去られた人たちは、それでも神への信仰を捨てませんでした。それどころか、自分たちの神への不信仰の反省を踏まえて、旧約聖書の言葉を書き残しました。

神を信じて、苦しくても福音の種を蒔く人たちは、必ず喜びの歌を歌うことが出来るのです。信仰者が、信仰の道を歩んだ先で見せられる祝福の喜びが歌われています。

当時のイスラエルの人たちにとって、エルサレムに帰る、ということは、神の元に立ち返る・神に許される、という救いの喜びでした。神は、御自分を信じ、求める人をお見捨てになることはなかったのです。

神は、インマヌエルと呼ばれるメシアを世にお送りになり、そのメシアに罪びとの罪を十字架の上で負わせられました。そして天から聖霊を送り、今も教会を通して、まだ神から離れている人たちをご自分のもとへと取り戻そうと働いていらっしゃいます。

今日、私たちは、復活のイエス・キリストから与えられる聖霊が、今も教会に働いていることを強く覚えたいと思います。私たちは、今でも、キリストにつながっている限り、新しい道が天から与えられ、日々新しく創造されていくのです。