8月28日の説教要旨

使徒言行禄10:21~33

「今私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(10:33)

使徒言行禄を読んでいると、教会は聖霊によって創造され、作られていった、ということがわかります。キリストの使徒たち、キリスト者たちが計画を立てて、「教会」と呼ばれるものを作っていったのではなく、聖霊がキリスト者たちに出会いを与え、人間には思いもよらない仕方で福音の広がりを創造していったのです。

預言書イザヤは、幻を見せられ、預言書の中でこう言っています。

「終わりの日に、主の神殿の山は、山々のかしらとして堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と」

イザヤは、平和が完成する「終わりの日」には、国々は「もはや戦うことを学ばない」と言います。

全ての民が、真の神に向かって一つになっていき、平和が完成に向かっていくこの歴史の中で、ペトロとコルネリウスの二人が出会わされました。それは終わりの日の平和の完成のための大切な一歩でした。

今日はキリストの使徒ペトロとローマの百人隊長コルネリウスが、聖霊の導きによって出会った、という場面を読みました。

コルネリウスはカイサリアの町で、ペトロはヤッファの町で、それぞれ神から幻を見せられます。コルネリウスは、「ヤッファに人を遣わしてペトロを招きなさい」と天使から告げられ、ペトロは「迎えに来た人たちと一緒に旅立ちなさい」と霊から告げられました。

先週も話しましたが、ペトロとコルネリウスの出会いは、当時の常識を踏まえると考えられないものでした。ユダヤ人と異邦人の出会いであり、ガリラヤの漁師とローマの百人隊長の出会いです。どう考えても、接点がないのです。

しかし、神は、この二人が出会い、イエス・キリストの下に信仰の友となることをお望みになりました。そしてこの出会いが、キリストの福音が異邦人へと広まっていくために、とても重要な意味を持つことになったのです。

今日私達が読んだ10章には、とても細かく、二人の出会いの様子が描かれています。

ヤッファにいたペトロにまず目を向けます。

コルネリウスが遣わした人が、ヤッファに着き、海岸にある革なめし職人シモンの家に来て、「ここにペトロという人が泊まっていますか」と尋ねました。

ペトロはたった今見せられたばかりの幻について考えていました。幻の中で、天から食べてはならない生き物が見せられ「こんなものは食べられない」と言うと、「神が清めた物を、あなたは清くないと言ってはならない」と言われたのです。

自分が考えてきた基準とは異なる、神の基準が示されたようでした。しかし、それが一体今の自分にとってどういう意味があるのか、と思案に暮れていたのです。

そこに、新たに霊の言葉が与えられました。

「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」

これまでのペトロだったら、行かなかったのではないでしょうか。「外国人と交際したり、訪問したりすることは律法で禁じられている」、と信じていたのです。しかし、たった今、神から「神が清めたものを汚れていると、あなたは言ってはならない」と幻で言われたばかりでした。そして神ご自身が霊を通して「コルネリウスに会いに行きなさい」とおっしゃったのです。

ペトロは下に行って、コルネリウスの使者に会いました。そして、ローマの百人隊長コルネリウスがペトロを招くに至った次第を聞き、カイサリアに行ってコルネリウスに会うことを決断しました。

この使徒言行禄10章を読んで不思議なのは、この時、自分たちに今何が起こっているのか誰もわかっていない、ということです。コルネリウスは神が自分におっしゃったことに従い、ペトロを招いきました。ペトロは神がおっしゃったため、コルネリウスの使者と共にカイサリアへと旅立ちました。

しかし、コルネリウスも、ペトロも、なぜ自分が相手に会わなければならないか、告げられていなません。ただ、天使から、霊から「相手を招きなさい」「相手に会いに行きなさい」と言われただけです。何のために、相手に会うのか、会ったらどうなるのか、知らされないまま、二人はお互いに会おうとしています。

コルネリウスも、コルネリウスの使者も、ペトロも、ペトロと一緒に旅立ったヤッファのキリスト者たちも、誰も、次に何が起こるのかわかっていません。それでもただ、神がそうおっしゃったので、その言葉にそれぞれが従っていったのです。

ルカ福音書の5章に、こういう場面があります。

主イエスが、漁師であったペトロに、「沖に漕ぎだして網を下ろし、漁をしなさい」とおっしゃいました。ペトロは、「先生、私達は夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えました。経験を積んだ漁師ペトロが一晩中漁をしたのに、魚はかからなかったのです。体だけでなく、心も疲れていたでしょう。

しかし、ペトロは続けてこう言います。

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

すると、網が破れそうになるほどの魚がかかりました。そこでペトロは、このイエスという方に、自分の経験や知識に勝るものを見出しました。自分の考え方、基準に勝るものを見たのです。

ペトロは舟が沈みそうになるほどの魚を見て、主イエスの前にひれ伏した。

「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」

私たちは信仰の不思議を見ます。信仰というのは、不思議なものなのです。自分の期待通りになるとか、自分の将来が全部見えるようになるとか、そんなことではありません。祈りの中で、神の不思議が見せられる、ということです。神を信じたら必ずこうなる、などと言えることは一つもありません。

ペトロにしても、コルネリウスにしても、神の言葉は自分にそう告げている・・・「お言葉ですから」・・・彼らの信仰はそれでした。私たちの信仰も、このような従いではないか。

神がこうお求めになっているから・聖書は神の御心をこのように伝えているから、私たちはその言葉に信頼して自分をゆだねるのです。先に何があるか分からない、しかし、聖霊の導きに信頼して、自分の計画ではなく神のご計画を、その先で見せられるのです。

旧約聖書の士師記にマノアという人が出てきます。サムソンの父親です。子供が生まれなかったマノアの妻に、神は「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられました。

マノアは、主のみ使いに尋ねました。「お名前はなんとおっしゃいますか」主のみ使いは、「なぜ私の名を訪ねるのか。それは不思議と言う」と答えました。

マノアは、「主、不思議なことをなさる方」に捧げものをした、と記されています。私たちにとって神は、「不思議なことをなさる方」なのです。

ペトロとコルネリウスの出会いも不思議だ。

コルネリウスも、ペトロも、昨日まで全く知らなかった者同士でした。

ここにいる私たちも、そうでしょう。同じ教会で礼拝を守り、同じみ言葉を聞いているのは、私たちが「こうしよう」と相談したからではありません。神が、この礼拝をおつくりになり、この礼拝の中に私たちを招き入れ、今この出会いが与えられているのです。

これからも神がお望みになるのであれば、この礼拝は続いていくでしょう。来週も、再来週も、ここに礼拝が創造されるでしょう。私たちは信仰を通して、神がなさる「不思議」を見せられているのです。

神の不思議に自分をゆだねる、ということには、勇気が要ります。ペトロだけでなく、コルネリウスにとってもペトロを招くことは勇気が要ったでしょう。ヤッファという町に本当にペトロという人がいるかどうかわからないのです。ただ、幻でそう言われたから、人を遣わしました。

コルネリウスは友人と親戚と一緒にペトロを待っていました。神が自分に見せようとなさっていることの目撃者・証言者として、人々を集めています。もしこれでペトロという人がカイサリアに現れなかったら、コルネリウスは皆の笑いものになるのです。

ペトロはやって来ました。神の言葉が本当であったことが示された。コルネリウスはペトロを迎えに出て、足元にひれ伏して拝みました。

ローマの百人隊長が、ガリラヤの漁師にひざまずいたのです。ひざまずいただけではなく、「拝んだ」とあります。これは「礼拝した」と訳してもいい言葉です。コルネリウスは、ペトロを、神の使者として、神の権威をもつ者として迎えました。

ペトロは驚いて、コルネリウスを起こして「私もただの人間です」と言いました。そして、二人で、自分たちに今何が起こっているのかを確認しあいました。

神がコルネリウスに示されたのは、ペトロを迎えなさい、ということでした。神がペトロに示されたのは、コルネリウスの招きに応えなさい、ということでした。

これから何が起こるのか、二人はまだわかりません。ただ、ここまで神に示されたことに従って来ただけです。神の言葉に従った、この二人の信仰、この二人の祈りに対して、神が何をお見せになるのか、これから示されることになります。

この後、コルネリウスをはじめとする、そこにいた異邦人の信仰者たちに聖霊が降ることになります。全てはそのためだったのです。

異邦人にも神の聖霊が与えられ、神はユダヤ人でない人たちもイエス・キリストの元へと招いていらっしゃる、ということが示されました。これを知ったキリスト教会は本格的にユダヤ人でない人たちに向かってキリストを証しすることを始めていくことになります。

その福音の広まりのきっかけとなった重要な出来事が、このペトロとコルネリウスの出会いなのです。

コルネリウスとペトロがもし、幻の中で聴いた神の声を本気にしなかったとしたらどうだったでしょうか。「これは単なる夢だ。神の声を聞いた気になっただけだ」とコルネリウスが自分で勝手に思い込んで、与えられた言葉に従わなかったとしたらどうだったでしょうか。

もしペトロが、コルネリウスが遣わした使者を「自分を迫害し来たのではないか」と恐れて逃げていたら、どうだったでしょうか。そうやって、ペトロが現れなかったら、コルネリウスは、自分が招いていた友人や親せきたちから馬鹿にされて終わったでしょう。後のキリスト教会の姿は随分変わっていたのではないでしょうか。

しかし、二人は、神の言葉を信じました。二人の信仰が、異邦人とユダヤ人という出会い、ローマの百人隊長とガリラヤの漁師という出会いを生みだしたのです。二人の信仰が、神の言葉を引き寄せたのです。

神は初めにコルネリウスにこうおっしゃいました。

「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」

何よりもまず、コルネリウスの信仰の祈りがあったのです。神を求め、真理を求める心、祈りがあったのです。

ペトロとコルネリウスの出会いは、人間によっては実現できるものではありませんでした。神が引き合わせてくださったものです。

神の働き・聖霊の働きは人の祈りに向かっていきます。祈りの群れに聖霊が降ったように、私たちの小さな祈りが、全ての奇跡につながっていきます。私たちの思いを超えた神の働きは、私たちの祈りに応えてくださる神の御心なのです。

今、ペトロはコルネリウスは、ユダヤ人、異邦人という壁を越えて、一緒に神を見ています。人はお互いを見ていては違いしか見えてきません。しかし、共に神を、共にキリストを見ることによって、同じところに立てるようになるのです。

キリストは「神を愛し、隣人を愛しなさい」とおっしゃいました。「隣人を愛しなさい」だけではありませんでした。隣人を自分のように愛する、ということの前に、心を尽くして神を愛しなさい、とおっしゃったのです。この二つの掟は切り離せないのです。

なぜでしょうか。共に神の元に、キリストの元に立たなければ、本当の意味で隣人を愛することが出来ないからでしょう。私たちは隣人と一緒に神を一緒に愛することで、初めて、本当の意味で愛し合うことが出来るようになるのです。

ペトロが、コルネリウスが、同じ神を愛しているからこそ、互いに信仰の隣人となることが出来たのです。

共に神を見る、ということがなければ、自分の隣人への愛など限界があります。共に祈り、共に神の民の一員となることで、私たちは初めて神の民としての隣人となることが出来るのです。

このペトロとコルネリウスの出会いを通して、学びたいと思います。