10月9日の説教要旨

使徒言行禄13:13~25

「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた」(13:14)

教会を迫害したサウロは、キリストによって召され、使徒パウロとしてキリストの福音を伝える使命を担うようになりました。彼は死ぬまで、福音宣教の旅を続けた人です。

パウロは異邦人伝道の拠点となったアンティオキアの町から、ある時は船に乗り、ある時は歩いて、エルサレムの教会と連携をとりながら、地中海沿岸の町々に福音を伝えていきました。キリストの使徒パウロを「旅の人」と呼んでいいのではないでしょうか。

神は、パウロをお選びになる際、パウロのことを「異邦人に私の名を伝えるために選んだ器」と呼ばれました。そして「私の名のためにどれだけ苦しまなければならないかを彼に示す」とおっしゃいました。

使徒言行禄を読んでいくと、パウロの福音宣教の旅は、神の言葉通り、「異邦人にイエス・キリストを伝える」という苦しみの旅であったことがわかります。

パウロは使徒として召されるまで、「自分は異邦人とは違う、正統なユダヤ人であり、正統なユダヤの信仰をもっている」と自負していました。そして教会の「イエスをキリストだ」という信仰は正しくないと考え、迫害していました。

そのパウロが、異邦人に対して、「イエスこそキリストである」と伝える旅を続けるようになった、というのです。教会の迫害者としての消えない過去の痛みを引きずりつつ、同時に、許された恵みを覚えつつ旅を続けたのではないでしょうか。

今日私たちが読んだのは、そのパウロの福音宣教の初めのところです。パウロは大きな福音宣教の旅を三度しますが、これは第一次宣教旅行の初めの場面になります。

パウロ、バルナバ、ヨハネの三人はまずキプロス島に行き、偽預言者と対決し、その島にいたローマの総督セルギウス・パウルスをキリストへの信仰へと導きました。三人は、この総督に送り出されて、パンフィリア州のペルゲという港町に行き、そこからピシディア州のアンティオキアに行きます。

しかし、ペルゲという港町に着いたところで、ヨハネだけがパウロとバルナバから離れてエルサレムへと帰ってしまいました。なぜヨハネが宣教の旅を途中でやめてしまったのか、その理由は何も書かれていません。宣教者は三人から二人になってしまいました。

二人が到着したこの「アンティオキア」は、パウロとバルナバが出発したアンティオキアとは、同じ名前ですが、別の町です。今、パウロは今まででエルサレムから一番遠いところにやって来たことになります。

初めて足を踏み入れるアンティオキアという町でキリストの使徒パウロとバルナバは何をしたのでしょうか。彼らの姿を通して、私たちキリスト教会にとって宣教とは何か、伝道とは何か、ということを考えることができると思います。

ヨハネと別れたパウロとバルナバが初めて訪れた町・アンティオキアで宣教のためにしたことは、町の中にあったユダヤ人の会堂で行われていた礼拝に加わる、ということでした。

地中海全域にユダヤ人は離散して住んでいましたので、エルサレムから離れても、ローマ帝国の中にはたくさんのユダヤ人の礼拝堂がありました会堂では、安息日ごとに律法と預言者の書が読まれ、イスラエルの神を信じる人たちが礼拝していました。その日は安息日だったので、二人がユダヤ人の礼拝堂に行くことは自然なことでした。

パウロとバルナバがアンティオキアにあったユダヤ人の会堂で礼拝をしていると、会堂長が二人のところに、「言葉をください」と伝えてきました。当時は、「エルサレムから来た人たちは尊敬をもって迎えられた」、と言われています。

エルサレムは、言うなれば、イスラエルの信仰の本場です。パウロとバルナバの格好を見て、「この人たちはエルサレムから来た人たちだ」と思ったのでしょう。「お二人に教えを乞いたい」とそこにいた礼拝者たちは求めました。

パウロはその会堂の中にいた礼拝者たちに向かって、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」と呼びかけています。「イスラエルの人たち」、というのはユダヤ人のことです。「神を畏れる人たち」は、異邦人でありながらイスラエルの神を求める人たちのことです。つまり、このアンティオキアという町ではもうすでに、ユダヤ人と異邦人が一緒にイスラエルの神を礼拝していたのです。

パウロとバルナバは、会堂で、律法と預言の解き明かしをしました。「解き明かし」と言っても、律法と預言書の解説・講義をしたわけではありません。

二人は宣言したのです。「あなたがたが安息日ごとに読んでいる律法と預言書に記録されている神の救いの約束は、イエスという方を通して、もう実現したのだ」と。

パウロは言葉を求める人たちに出エジプトの出来事を語りました。

「どんな風に神がイスラエルを導いてこられたか」

「イスラエルは、その神にどれだけ背を向けてきたか」

「神はもう一度ご自分から離れたイスラエルを身元に連れ戻す約束をされた」

パウロはイスラエルの太古の歴史の言い伝えを語ります。

奴隷とされていたイスラエルを神が解放してくださったこと。

荒野を40年間、導いてくださったこと。

約束の地に導き入れ、その土地を相続させられたこと。

そして、サムエル、サウル、ダビデと指導者をお与えになり、神は「ダビデの子孫からイスラエルに救い主を送る」と約束されたこと。

神は歴史の中で「ダビデの末からメシアが来る」ということを預言者を通して約束されました。

BC8C、アッシリア帝国に滅ぼされそうになっていたエルサレムで、預言者イザヤはメシアの到来をこう預言しています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる」「その日が来れば、エッサイの根は、全ての民の旗印として建てられ、国々はそれを求めて集う。」

BC6C、バビロンに捕囚とされていたユダの人たちに、預言者エゼキエルはイスラエルの牧者・メシアの到来を預言している。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群を探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群を探すように、私は自分の羊を探す」「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させるわが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」

パウロは礼拝の中でイスラエルの歴史の授業をしたのではないのです。聖書の中に記録されてきた預言者たちが伝えた神の約束の言葉、メシアの到来は現実のものとなったことを宣言したのです。「それはナザレのイエスだ」、と伝えました。

実は、パウロとバルナバが宣教の初めにしたことは、イエス・キリストが宣教の初めになさったことと同じでした。

ルカ福音書の4章に、主イエスの宣教の初めの様子が記されています。

「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とあります。主イエスは、故郷のナザレの会堂で、安息日にイザヤ書の巻物を読まれました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が油を注がれたからである」。そのイザヤ預言をお読みになると、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した」とおっしゃいました。

主イエスは、礼拝の中で聖書の言葉を聞く人たちに、「この言葉は私のことを言っている。聖書の言葉は、私において実現した」とお告げになったのです。

パウロとバルナバも、ここで同じことをしました。ここにに、私たちが倣うべき宣教の姿があるのではないでしょうか。私たちは「宣教」「伝道」とかいう言葉を聞くと、何かをゼロから始めなければならない、人を集めるところから始めなければならないと考えがちです。

しかし本当は、教会の福音宣教は、私たちがゼロから始めなければならないものではないのです。律法と預言の言葉、聖書の言葉がすでに与えられているのです。そしてその聖書の真理を求める群れを、すでに神は前もって備えてくださっているのです。

その真理を求める人たちに向かって、「今あなたが読んでいる聖書の言葉、神の救いの約束は、本当にあなたに起こっている現実なのです」と伝えること、そう宣言することこそが福音宣教なのです。

イエス・キリストは、生前、ガリラヤで弟子達を宣教に派遣なさったことがあります。その際、弟子達を見知らぬ土地に派遣されたのではありませんでした。一度は御自分が行って神の国の福音を語り、しるしを行われた場所へと弟子達を遣わされたのです。もうすでにキリストを求める人たちがいるところへと遣わされたのです。

キリストの弟子達、使徒たち、そして私たちキリスト者は、イエス・キリストがすでに福音の種を蒔いてくださったところに行き、そして礼拝の中で聖書の言葉が真理であることを宣言するのです。それが教会に託された宣教の使命です。

パウロたちはキリストと同じことをしました。パウロは既にあった礼拝堂に入り、キリストの福音を宣言しました。私たちも同じです。

私たちの宣教は、礼拝堂で聖書の言葉を共に聞く、というところから始まります。もっと言えば、礼拝が宣教そのものなのです。私たちも礼拝を通してキリストの足跡をたどるだけです。

そのことがどれだけ大きな意味を持っていることでしょうか。私たちが毎週行っているこの礼拝がどんなに大きな意味を持っているか、忘れてはならないのです。

パウロの宣教はゼロからではありませんでした。そこにキリストの足跡がありました。そこにキリストの招きの御業が先行していました。聖霊は既に、聖書の言葉を求めるユダヤ人と異邦人の礼拝の群を備えていたのです。

私たちも、行く先々に教会が備えられています。どこに行っても、まるで自分を待ってくれているかのように、そこに教会があります。それは、キリストがそこで自分を待っていてくださった、ということです。キリストは既に、この自分のために福音の種をまき、礼拝の群を備えて私たち一人一人を待っていてくださっています。

そう考えると、私たちの宣教というのは、実は、私たち自身がキリストの働きを見せられることだ、と言っていいのではないでしょうか。礼拝ごとに、我々は「ここにも神の恵みがある、ここでキリストは私を待ってくださっていた」と確認するのです。

私たちは何のために毎週礼拝しているのでしょうか。そのことをこのことを忘れないためです。そのことを心に刻むためです。「聖書に書かれている言葉は私たちに起こったことだ」と。神がご自分の命を懸けて私たちを招くために、この地上にまで迎えに来てくださったということを、私たちは礼拝の中で何度も心に刻みます。

「これは私に起こったことだ」、という確信から、私たちの宣教は始まります。そのことがあって初めて、「これはあなたのために起こったことです」と人に言えるようになるのです。神の約束は今私たちに確かに及んでいます。