1月8日の礼拝説教

使徒言行禄16:6~10

「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテア地方を通って行った。」(16:6)

バルナバと決別し、シラスと一緒に二度目の福音宣教の旅に出発したパウロは、途中でテモテという青年を宣教の仲間に加えました。今日私たちが読んだのは、その後の宣教の旅の様子です。

今日の場面を読んで驚くのは、パウロたちが、聖霊によって何度も伝道を禁止された、ということです。自分たちが「ここに行ってイエス・キリストを宣教しよう」と進もうとするたびに、聖霊から、また主イエスの霊から止められてしまったのです。

パウロたちは、アンティオキアの教会の人たちによって送り出されました。15:40を見ると、アィオキア教会の人たちはパウロとシラスを「主の恵みに委ねて」送り出した、ということが書かれています。教会の人たちは、二人を「主の恵みにゆだねて」見送ったのです。それは、聖霊に委ねて、送り出した、ということでしょう。

アンティオキア教会の人たちは、「福音宣教に必要なものを十分持たせてパウロたちを送り出した」というのではありません。「主の恵みに委ねて」、聖霊に委ねて送り出したのです。

教会の人たちは知っていました。これからパウロたちが行く道は、自分たちの援助があってどうこうなるものではないということ、行く先々で「主の恵み」である聖霊の助けがなければ進まないものである、ということを。

だから彼らはただ「主の恵みに委ねて」祈り、パウロたちを福音宣教の旅へと送り出したのです。パウロたちにとって、最終的に頼ることが出来るのは、主の恵み、聖霊による導きでした。

それなのに、パウロたちが宣教のために行こうとする道が、聖霊によってことごとく閉ざされていったというのです。これはどういうことなのでしょうか。

私達は、今日の場面を通して、パウロたちが考えていた福音宣教の計画を超えた、神のご計画を見せられることになる。

パウロの当初の計画は、自分とバルナバが一緒に宣教した町々にもう一度戻って、どうなっているか様子を見よう、というものでした。シラスと一緒にそれらの町々に行って、エルサレム教会が決めた、「異邦人に割礼は強要されない」「偶像に捧げられた肉と血を避ける」「性的にみだらな行いを避ける」という決定を伝えるつもりでした。

パウロとシラスは、最初の旅で回ったデルベとリストラの町に行きました。しかし次にイコニオンの町に向かおうとすると、不思議なことが起こります。

6節にはこう書かれている。「彼らはアジア州でみ言葉を語ることを聖霊から禁じられた」

パウロたちは、純粋に、イエス・キリストの福音を伝えようと次の町に向かおうとしたのに、聖霊がそれを止めた、というのです。

南に向かう予定だったが、聖霊から止められたので、仕方なくパウロたちは西に向かいました。しばらく西に進んで、「南がダメなら、北に行こう」とビティニア州に入ろうとしました。すると今度は「イエスの霊がそれを許さなかった」のです。

パウロたちは戸惑ったと思います。私たちも、ここを読んで、戸惑うのではないでしょうか。「神のための福音宣教」なのに、なぜ聖霊は、イエス・キリストの霊は、それを止めるのでしょうか。

北にも南にも行くことを禁じられたパウロたちは、仕方なく西に向かって行きました。そして最後に、トロアスという港町へと導き入れられたのです。トロアスは、もちろん、パウロたちの計画には無かった町でした。

パウロたちの足取りを地図で確認すると、真っすぐ西へと導かれていることがわかります。なぜ神は、パウロたちをトロアスへと導かれたのでしょうか。

トロアスは、アジア大陸からヨーロッパ大陸へと渡るための船が出ている港町です。神は、パウロが行こうとした道とは別の道をご準備されていました。それは、ヨーロッパ大陸へと続く道だったのです。

パウロ達は、自分たちが行こうとした道が神によって何度も閉ざされたので、「自分たちが立てた計画は失敗に終わるのだろうか」と不安になったかもしれません。しかし、神は、パウロたちをまっすぐ、御自分の計画に従って導いて来られたのです。

パウロたちは、自分たちが行こうとした道を行くことはできませんでした。しかし、自分たちの思いを超えた道が示されました。海を越えて、アジア大陸からヨーロッパ大陸へと向かう道が神から示されたのです。

旧約聖書のイザヤ書55章にこういう言葉がある。

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」

パウロは、結局、一回目の宣教旅行で巡った町々には行くことはできませんでした。自分たちの計画は実現しなかったのです。しかし、パウロたちの計画を超えた神のご計画が、今、パウロたちを通して実現しようとしています。

この後、パウロたちはヨーロッパ大陸へと向かうことになります。そしてヨーロッパの各地で福音宣教をした後、またアンティオキア教会に戻り、また宣教の旅に出ることになります。その三度目の宣教旅行の際に、パウロは、初めに回ろうとした町々に行くことになるのです。

このように、使徒言行禄を読んでいくと、全て神のご計画のうちに、パウロの計画も実現していった、ということがわかります。このことは、私たちにとって大きな信仰の学びとして示されています。全て人が考える道筋で実現していくのではないのです。神が備えられた道の上で、神が備えられた時に、信仰の実りが生まれていくのです。

神は、まずパウロたちにご自分の道を行かせました。そしてその先で、パウロたちの計画も実現しました。パウロ自身が考えていた計画よりも広く深い計画の中で、福音は広がっていったのです。

聖霊は、パウロたちに何度も伝道禁止命令を出しました。「その道に行くな」という聖霊の声に、パウロたちは従いました。パウロたちは、自分たちの宣教旅行の意味を何度も問い直したのではないでしょうか。「自分たちがしていることは無駄ではないか」、と不安にもなったでしょう。しかし、神は全てにおいて、時と場所を備えていらっしゃいました。

パウロ自身、後に手紙の中でこう書いています。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」

イエス・キリストも、山上の説教の中でおっしゃっています。

「あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ」

聖霊は、時に、私たちを遠回りとも思えるような道へと導きます。しかし、神は、御自分の畑の収穫のための最短距離を私達に行かせてくださるのです。

教会にも、礼拝の中で、祈りの中で、道が示されます。神は、私たちのために、私たちが考えるよりも大きなご計画をお持ちです。

パウロは、後にコリント教会の人たちに、手紙でこう書きました。

「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

「教会は神の畑、神の建物なのです」

教会は神の畑であり、そこに作物を実らせるお方は神ご自身だ、と言っています。実現するのは、私たち人間を超えた、神の御心なのです。

イエス・キリストは、こんなたとえ話をなさった。

「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る」

この言葉こそ、この時のパウロたちを通して私たちに示されることではないでしょうか。確かに、人は種を蒔きます。しかし、種を蒔いたら、あとは種の成長を待つしかないのです。神の国はそのようなものだ、と使徒パウロは言います。

ある人がこういうことを言いました。

「聞かれない祈りこそ、本当は大事なのではないか」

私たちは信仰者として、祈ります。しかし神に祈り願ったことが全て自分に都合良く聞かれるか、というとそんなことはありません。むしろ、実現しない祈り・願いの方が多いのではないでしょうか。しかし、自分の祈り・望みが実現しない、ということの中に、私たちは謙虚に神の深い御心があることを知らなければならないのではないでしょうか。

さて、パウロたちは、トロアスに到着した夜、幻を見ました。夢を見せられたのでしょう。一人のマケドニア人が夢の中で立って、「ここまで渡って来て私たちを助けてください」と言いました。つまり、「あなたたちがいるアジア大陸から、私達がいるここヨーロッパ大陸へと渡って来て、私たちに福音を知らせてください」と言った、ということです。

私たちには、この幻の中に出てきた人が一体誰なのか、わかりません。聖書には、この人について何も書かれていません。ただ間違いなく言えるのは、これは神がお見せになった幻である、ということです。そしてこの幻の中で「ここまで来てキリストのことを教えてください」と願ったこの人、この声こそ、魂に飢え渇きを覚え、真の神を求める人たちの声ではないでしょうか。

パウロに見せられたこの幻は、今教会に見せられている幻ではないでしょうか。「私のところにまでキリストの福音を知らせてください」という、教会に向けられた声です。

今日私たちがここで見た、ひとりのマケドニア人の幻、その願いは、今も教会に向けられた声であり、キリスト者に向けられている声であり、これこそ、私たちが信じている福音を待っている人たちの声です。

今、私たちがこうして礼拝している間も、「自分も神の言葉を聞いてみたい。私もキリストという方のことを聞いてみたい」と思いながら過ごしている人は、どれだけいるでしょうか。「いつか自分のところまで神という存在について、イエス・キリストという方のことを教えてくれる誰かが来るかもしれない」という期待を持っている人が、どれだけいるだろうか。

実際にそうは思っていなくても、魂の渇きと空しさの中で、漠然と「救い」というものを求めている人がどれだけいるでしょうか。

パウロたちは、自分たちがアンティオキアを出発する際に、トロアスまで導かれ、ヨーロッパ大陸に渡ることになるとは考えてもいませんでした。神はパウロたちをまっすぐトロアスへと導き、福音を求める人の声をお聞かせになって、行くべき道を示されました。

私たちも同じように導かれています。「あなたが行く道はそっちではない」という、聖霊の声によって、何度も道を断たれるかもしれません。そうやって私達はある時は、喜びへ、ある時は試練へと導かれていきます。

聖霊は私達の思いを超えて神の尊い救いのご計画の中で用いてくださっています。