6月11日の礼拝説教

使徒言行禄21:17~26

「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったいどうしたよいでしょうか」

三度目の福音宣教の旅から戻って来たパウロはエルサレム教会に行き、そこで自分がこれまで行ってきた宣教の様子を報告しました。パウロには、その必要があったのです。「自分の宣教が、自分の思いでしたことではなく、聖霊に導かれた神の御業であった」、ということをきちんと伝えなければなりませんでした。

パウロは、どこかの教会から正式に派遣された使徒ではありませんでした。はじめはアンティオキア教会から派遣されましたが、二度目の宣教旅行に向かう際、一緒に宣教の旅に出ようとしたバルナバと決別することになり、それ以来、自分一人の裁量で宣教に従事することになりました。いわば、パウロは「フリーランスの使徒」でした。

そのため、パウロはエルサレム教会の人たちに、好き勝手に活動したのではないことに加えて、自分を通して聖霊が働き、神の御業が行われていったということを報告する必要があったのです。

パウロの三度目の宣教旅行の様子を聞いたエルサレム教会の指導者ヤコブ、長老たちは皆神を讃美しました。あらためて、パウロが神に召され神の御業のために働いた人である、ということを確信しました。

しかし、エルサレム教会の人たちには、パウロに関して一つ大きな心配事がありました。それは、この時パウロが多くのユダヤ人キリスト者たちから誤解されていた、ということです。それは、「パウロが異邦人の間に住んでいるユダヤ人たちに、神の教え・律法から離れるように教えている」、とう誤解でした。

パウロが使徒として召されてからもう20年以上がたち、その間パウロは異邦人への福音宣教の旅を続けていたので、エルサレムで実際にパウロを知っている人は少なくなっていたようです。

パウロが一回目の福音宣教の旅から、異邦人伝道の拠点であったアンティオキア教会に戻った時、ユダヤからあるキリスト者たちがやって来て、「あなたがた異邦人もユダヤ人と同じように割礼を受けなければ救われない」、と言って来ました。ユダヤ人にとって、割礼こそ神の民の一員とされたことの徴であり、異邦人・異教徒と区別される徴だったのです。それなのに異邦人キリスト者たちは、神への信仰をもったにもかかわらず割礼を受けないでいる、ということを懸念したのです。

パウロ自身もユダヤ人で割礼を受け、モーセの律法に従う者の一人でしたがそれに反対しました。キリストを信じ洗礼を受けた異邦人たちの上に、割礼を受けていないにも関わらず聖霊が降るのを見たからです。異邦人キリスト者たちは、割礼を受けないまま聖霊を受け、神の救いに入れられていました。

パウロはバルナバと一緒にエルサレムに行き、「キリストの信仰があれば神はその人を受け入れられる。異邦人に割礼は強要しなくてもいいのです」と主張しました。反対する人たちもいましたが、ペトロもその場でパウロと同じことを言ったので、皆が納得して、異邦人キリスト者たちを悩ませないように、異邦人キリスト者には割礼は強要されないという原則を手紙に書いて、諸教会に送りました。

パウロは「割礼ではなく、キリストへの信仰によって神に受け入れられるのだ」と言い続けてきた人でした。時間が経ってエルサレム教会の中にもいろいろと変化があったようです。まず、今日読んだところを見ると、エルサレム教会にペトロがいません。恐らく、どこかに宣教の旅に出かけていたのでしょう。そしてヤコブがエルサレム教会の指導者となり、長老たちと一緒に教会の秩序を守るようになっていました。

時間が経つにつれてエルサレムのユダヤ人たちから、「昔教会を迫害していたパウロは、ユダヤ人律法から引き離そうとしている」という誤解ができてしまったのです。

一世紀当時のユダヤ人の間には、律法に対する民族的な熱心さがありました。その熱心さには、ローマに対する政治的・宗教的な反発も含まれていました。神からユダヤ人に与えられた律法の言葉こそ、彼らのアイデンティティでした。

そのような中で、パウロは誤解されてしまうようになったのです。実際は、パウロは律法を捨てなさいなんてことは言っていません。「神に救われるために必要なのは、キリストへの信仰である」「割礼以上に信仰が大事なのだ」、という単純な真理を伝えてきただけでした。神の教えを捨てるようなことを勧めたことなどありません。

エルサレム教会の指導者であったヤコブ、そして長老たちは、パウロに対する誤解を解かなければならない、と考えました。彼らはパウロに一つの提案をしました。教会の中に、誓願を立てた人たちがいるので、その人たちと一緒に神殿に行き、彼らの誓願のために費用を出してほしい、というものです。

そうやって、「パウロは律法を守って正しく生活をしている者である」「パウロは神の教えを大切にしている」、ということを皆に見てもらおうとしたのです。これは一種のパフォーマンスです。姑息なやり方にも思えますが、そんなつまらないことをしなければならないほど、パウロに対する誤解は大きかった、ということでしょう。

私たちはここを読みながら、どうして当時のユダヤ人はそんなに割礼にこだわったのか、また、そのことが教会にとってもどうしてそれほど大きな問題となったのか、ということに戸惑うのではないでしょうか。

一世紀のユダヤ人にとって、割礼は神の民イスラエルの一員であるしるしでした。それはアブラハム以来続いてきた、信仰のしるしでした。しかし、神は、ユダヤ人でなくても、割礼を受けていなくても、キリストを求める人に聖霊を注がれ、御自分の息を吹きかけ、身元へと召されました。割礼無しで誰かが神に受け入れられるということは、最初はキリスト教会にとっても大きな驚きでした。それほど、イスラエルの民は割礼に重きを置いて、神の民として生きて来たのです。

私たちは聖書を読む際に、ユダヤ人と非ユダヤ人・異邦人の間にあった壁はそれほど大きなものであった、ということを踏まえなければならないのです。そして、私達は何より、その「隔ての壁」を取り除いてくれるのが、イエス・キリストへの信仰である、ということを教えられているのです。

パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、異邦人キリスト者に向けてこう書いています。

「あなたがたは以前は肉によれば異邦人であり、・・・割礼のない者と呼ばれていました。・・・しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

イエス・キリストが世に来られ、十字架で全ての壁・敵意を取り壊してくださった今、もう「ユダヤ人かどうか」「何人なのか」「割礼は必要かどうか」ということは問題にはなりません。

イエス・キリストへの信仰は「何人か」「割礼を受けているかどうか」という自分一人の問題ではなく、自分と誰かの間にある壁を壊す大きな平和の力であるということを覚えたいと思います。

パウロは、人と人の間にある壁と戦った人だったと言っていいでしょう。そしてその壁を壊すのはイエス・キリストのお名前だけなのです。イエス・キリストという一つのお名前の下に皆が集った時、人は一つになれるのです。

パウロはユダヤ人でありながら、ユダヤ人が持つ偏見と闘いました。新しい信仰集団を作ろうとしたわけではありません。

パウロ自身は、ローマの信徒への手紙の中でこう書いている。

「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のないものをも信仰によって義としてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」

割礼の有無ではなく、信仰の有無にこそ、私たちの信仰生活の本質なのだ、と言っています。今の私達からすれば、「当たり前ではないか」と思えるようなことかもしれません。

しかし、この時パウロに対して持たれていた誤解を通して、私達は今の自分自身のことを省みることが出来ると思います。キリストへの信仰以上に、何かの見た目であるとか、形であるとか、人からの評価とか・・・そんなものに心を向けていないでしょうか。

旧約時代、イスラエルが堕落した時に、神は預言者イザヤを通してイスラエルにおっしゃった。

「見よ、断食の日にお前たちはしたいことをし、お前たちのために労する人々を追い使う・・・そのようなものが私の選ぶ断食・苦行の日であろうか。・・・私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」

割礼にしても、断食にしても、ただそれをすればいい、というものではありません。神が、割礼を通して断食を通してイスラエルに何をお求めになったのか、ということが重要なのです。

詩編の詩人はこう歌っている。

「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす捧げものが御旨にかなうのなら、私はそれを捧げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません」 51篇

信仰者の業は、割礼であれ断食であれ、神の前に悔い改め、神に立ち返り、神がお求めになる平和を打ち立てるためのものなのです。

今、イエス・キリストが来て、それを伝えてくださいました。キリストはただ、御自分に従って生きることをお求めになりました。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の下に行くことができない」

キリストに従うことが私たちにとっての割礼であり、断食なのです。

パウロはローマの信徒への手紙の中で、断言しています。

「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」

旧約時代の預言者たちは、メシアが来て、世界中の人たちが一緒に神の国を目指す時の到来を預言してきました。

紀元前8世紀の預言者、イザヤ、ミカはこう言っています。

「終わりの日に・・・国々は大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。・・・彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して釜とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」イザ2章 ミカ4章

私たちは今、旧約の預言者たちがその到来を告げた時代を生きています。世の中にいろんな声があるだろうが、私たちは惑わされる必要はありません。キリストに従うことで、この世界に平和が打ち立てられていくのです。その単純な真理に則して生きる中で、私たちは次の信仰者を神の元へと導くことが出来るのです。