ローマの千人隊長、クラウディウス・リシアは、エルサレムで騒ぎの原因になったパウロを捕えました。一体なぜエルサレム神殿で騒ぎが起こったのか、その原因を探ろうとしました、最高法院のユダヤ人指導者たちを通してパウロに尋問させても分かりませんでした。
そうこうしているうちに、パウロを殺そうと企むユダヤ人たちが、実際に暗殺を行動に移そうとしていることが明らかになったので、千人隊長はパウロをエルサレムからカイサリアへと送ることにしました。
カイサリアは当時のギリシャ都市であり、国際都市でした。そこにローマの地方行政の本部があり、総督が駐在していたのです。エルサレムではユダヤ人たちが興奮していて、まともに裁判を行えないし、パウロを殺そうとする人たちもいるので大きな暴動に発展する危険性もあります。千人隊長はユダヤ人たちのいないカイサリアにパウロを送り、ローマの総督に裁いてもらおうとしたのです。
パウロは既に神から告げられていました。
「エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」
その神のご計画の通り、パウロはこれからエルサレムを離れ、たくさんの人にキリストを証ししながらローマへと運ばれていくことになります。
カイサリアにはローマの総督フェリクスがいました。千人隊長は、総督への手紙をしたため、パウロを引き渡しました。
パウロがユダヤ人に殺されようとしていること、パウロがローマ帝国の市民権をもつ者であること、パウロはユダヤ人の掟に関することで殺されそうになっているのであってローマの法においては無実であることを手紙の中に書きました。そして総督フェリクスが、ローマの法の下に正しくパウロの裁判を行うことを願いました。
さて、パウロは、公平な裁判を受けることができたのでしょうか。
総督フェリクスは、千人隊長からの手紙を読んでからパウロに一つ質問しました。
「お前はどの州の出身か」
なぜ総督はパウロにこんなことを尋ねたのでしょうか。
恐らくフェリクスは、パウロが自分の管轄でない場所の出身であれば、そっちに回してしまおうと思っていたのでしょう。しかしパウロはキリキア州の出身で、そこはフェリクスの管轄でした。仕方なくフェリクスは自分でパウロの裁判を行うことにします。
千人隊長の手紙を読んだにもかかわらずこのような質問をしたことを見ると、フェリクスはパウロを真剣かつ公正に裁いてくれるような人物ではなかった、ということがわかります。
少し、このフェリクスについて触れておきます。
フェリクスは、もともとは奴隷だった人です。自分の兄弟と共にローマ皇帝クラウディウスに気に入られて、ユダヤを監視する総督にされました。ローマの歴史家タキトゥスは、フェリクスについて、奴隷根性と残酷さと強欲さがむき出しになった人物だったと記録しています。
フェリクスは52~60年まで総督としてカイサリアにいました。その後、紀元66年にユダヤ人がローマに対して反乱を起こすことになりますが、その反乱がおこった時のユダヤの行政官がこのフェリクスでした。
このように歴史の記録や、実際に起こった出来事を見ると、フェリクスという人はユダヤの人たちから反発を買いユダヤ人が反乱を起こすきっかけとなるような悪政を行っていた人だったと考えることが出来ます。
残念ながらカイサリアでパウロの裁判を行ったのは、こういう人だったのです。
ついに、総督の前でパウロの裁判が開かれました。告発者は直接被告の前で罪を言い表して訴え出なければなりません。パウロを訴えていたユダヤの最高法院の代表団が、「弁護人」を連れてやってきました。この「弁護人」というのは雄弁家のことです。
最高法院のユダヤ人たちが自分たちで直接語るのではなく、わざわざ弁の立つ雄弁家テルティロを連れて来て訴えました。テルティロの言葉を見ると、半分はフェリクスに対するへつらい・お世辞の言葉です。
それが終わるとパウロの罪を数え始めました。
世界中のユダヤ人の間で騒動を起こしている、ということ。
ナザレ派の中心的な存在である、ということ。
神殿の立ち入り禁止区域に異邦人を引き入れた、ということをあげつらっています。
この裁判は、おかしなものでした。パウロが逮捕されたのは、神殿で誤解されたからでした。その誤解を利用して、最高法院の人たちは、パウロを有罪にしようとしたのです。総督フェリクスは、真剣に真実を明らかにしようとはしていません。この後を読めばわかりますが、彼はただ裁判を長引かせて、わいろを求めていただけなのです。
今、ここで行われているのは、正しい裁きではありません。ユダヤの最高法院の人たちは、ただパウロを排除しようとしています。ローマの総督フェリクスは、なんとか賄賂を得るためにこの裁判を行っています。それぞれが自分の思いだけを実現しようとして、この裁判が進められているのです。
私達は、この裁判の先で何が起こったか、ということを歴史から学びたいと思います。この裁きの先にあったもの、それは、破滅でした。
「正しい者が正しく裁かれない」・・・その先にあったのは、ユダヤ戦争だったのです。ユダヤ人たちの不満が爆発し、ローマに反乱を起こし、戦争になり、エルサレムは滅びることになります。このパウロの裁判からわずか十数年後のことです。
私達が今日読んだこのパウロの裁判を通して、人間がどのように破滅への道を歩んでしまうのか、ということが示されています。ここに出てくる人たちは、皆、自分が基準なのです。自分が中心であり、全ての物事を、自分の中心に据えようとしているのです。
このような自分中心の思い・罪に支配された人間の思いが、自らを破滅へと向かわせていく・・・このことを我々は歴史を通して聖書を通して学ぶことが出来るでしょう。
善いものを善い、とし、悪いものを悪い、とする・・・「裁き」とは、それだけのことです。しかし、それをせずに、それぞれが自分に有利になることだけを考えて、善・悪を裁くことしなかった結果どうなるでしょうか。このようなことの積み重ねが、双方に不満を高めていき、結局紀元70年のユダヤ戦争、エルサレム陥落へと発展するのです。大きな滅びを招くのは、結局、自分のことしか考えない人間自身なのです。
エルサレムが滅ぼされたのは初めてではありません。紀元前587年に、バビロンによって破壊され、滅ぼされました。その時はどうだったのでしょうか。その時も同じでした。神の前に善悪をただすことなく人間の思いが交錯して、自ら滅びを招いたのです。
エレミヤ書を見れば、その時の様子がよくわかります。イスラエル南王国は、王宮の中でバビロン派とエジプト派に分かれていました。バビロン帝国がどんどん強く大きくなっている中、自分たちはどう生き残ればいいのか、皆考えていました。
バビロン派の人たちは、バビロンと関係を結んで生き残ろうと主張しました。エジプト派の人たちは、エジプトの軍事力に頼り、バビロンに対抗しようと主張しました。イスラエルの王は、その間で揺れていました。
しかし預言者エレミヤだけは、バビロン派でもエジプト派でもありませんでした。預言者はただ神への信頼、神に救いを求めることだけを説いたのです。バビロンにつくか、エジプトにつくか、という議論は、結局人間に救いを求めているに過ぎません。そして神が示された救いは、バビロンに膝をかがめて降伏する、ということでした。
預言者エレミヤは、バビロンは偶像礼拝を続けて来たイスラエルに対する神の裁きの道具であることを説きました。バビロンに降伏することが、神に立ち返る、ということだと言ったのです。
イスラエルの前には命に至る道と死に至る道が置かれました。バビロンに降伏し、全てを明け渡すことが命の道でした。バビロンに抵抗し、剣をもつことが死に至る道でした。
皆が、「誰に頼ろうか」「どの国に頼ろうか」「どうしたら生き残ることができるだろうか」、うろうろする中で、エレミヤだけはその場を動かず、「神の裁きを受けるためにバビロンに降伏しなさい」と言い続けたのです。
結局エレミヤは売国奴とののしられ、牢に入れられてしまいます。預言者の言葉は聞かれず、自分のことだけを考える人たちの主張がぶつかり続け、その結果、エルサレムはバビロンによって徹底的に破壊されることになったのです。
改めて考えたいと思います。「裁き」とはなんなのでしょうか。パウロをめぐる裁判、また旧約時代に預言者が伝えた「裁き」ということから我々は考えたいと思います。
「裁き」という言葉はあまりいい響きには思えないでしょう。しかし、聖書を読むと、信仰者たちは、「神の裁き」を心から祈り求めていたことがわかります。
「裁き」とは、善いものを善いとし、悪いものを悪いとすることです。簡単なことです。しかし、人が人を裁く時には、簡単なことではなくなってしまうのです。自分の都合の良い方に引き寄せたくなる誘惑が、人間の裁きには入り込んできます。善いものが悪いものとされたり、悪いものが善いものとされたりするのです。その、人間に働く誘惑の力こそ、聖書が暴き出す罪の力です。
預言者イザヤは、こういう神の言葉を伝えています。
「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけのものに。どこに彼の値打ちがあるのか」
なぜ神はイザヤを通してイスラエルにこんなことをおっしゃったのでしょうか。真の神ではなく人間に頼って生き延びようとしていたからです。偶像礼拝をする国々に頼って生き延びようとしていたからです。
創世記にもあるように、神が人間の鼻に息を吹き込まれました。人間はそうやって、神に息を吹き込まれて生きるものとされたのです。
イザヤは皮肉を込めて言いいます。
「鼻で息をしているだけのものに頼るな。人間を生かしておられる神にこそ信頼せよ。」
イザヤは、言い続けました。
「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神はこう言われた。『お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』」
神に立ち返って静かに神に信頼し、神の裁きの御手を待つ、ということの先に、人間による裁きを超えた救いがあるのです。
この裁判でのパウロの姿を見たいと思います。今日読んだところにはパウロの言葉は一言もありません。パウロは静かにしているのです。神に立ち返り、静かに、安らかに信頼している、そのパウロの姿を私たちは見ることが出来るのではないでしょうか。
パウロは手紙の中でこう書いています。
「キリストが私を遣わされたのは・・・福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるため」
「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。・・・そこで、神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」
パウロをはじめ、キリストの使徒たちは、自分のことではなくキリストの十字架と復活を語りました。自分の立場を有利にしようとか、不利にならないように語ろう、ということ以上に、彼らは十字架の言葉を語りました。それが、キリスト者たちの弁明でしあt。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われるものには神の力です」とパウロは手紙に書いています。
私たちは忘れてはならないと思います。私たちは神から息を吹き込んでいただいた土の器に過ぎません。土に過ぎない我々人間を愛し、命を吹き込み、独り子を十字架に上げてくださるほどに愛し、許しの恵みをもって生かしてくださる神のために、私たちは言葉を語るのです。
私たちは頼るべきお方を知っています。偶像の神を作って安心することしかできない人間ではなく、私たち人間と、人間が生きるための世界を創造してくださった方に頼るのです。
静かに神を頼りましょう。何かを問われれば、神に造られ、生かされ、許されているということを十字架で死なれたキリストのお姿を通して語るのです。パウロはその言葉を「十字架の言葉」と呼びました。
私たちには十字架の言葉があります。キリストに生かされている、ということを知っていれば、自ずと語るべきこと、伝えるべきことは上から与えられるのです。