MIYAKEJIMA CHURCH

1月18日の礼拝案内

次週 礼拝(1月18日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:1~8

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、366番、392番、頌栄542

【牧師予定】

◇1月14日(水)教団事務所を訪問。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月11日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:28~40②

明け方、ユダヤに滞在していたローマ総督ポンテオ・ピラトのところにユダヤ人たちがナザレのイエスを連れてやって来て「この者を死刑にしろ」と要求してきました。時間的なこと、裁判の手続きの正当性から考えて非常識なことでしたが、ピラトは彼らが連行してきたナザレのイエスを官邸の中に入れ、中に入ろうとしないユダヤ人たちとイエスの間を行き来してそれぞれの話を聞き、状況を把握しようとします。

この朝のピラトの姿を通して、私たちは聖書から問われることになります。

「あなたはこの世で、このイエスという方にどう向き合っているか」

聖書からの問いかけに、真摯に向き合いたいと思います。

ピラトは、まず外にいたユダヤ人たちにイエスが何の罪を犯したのかを尋ねました。

「どういう罪でこの男を訴えるのか」

これに対するユダヤ人たちの答えは曖昧なものでした。

「もしイエスが何も悪いことしていないのなら、ここにイエスを連れては来ませんでした」

ユダヤ人たちは、具体的な罪名を上げることができませんでした。「ここに連れて来たということは、この男が悪いことをしたに決まっているではありませんか」という言い方です。言葉を変えると、「ここは私たちを信用して私たちが望む通りにしてください」ということです。

彼らはピラトの問いに直接答えていません。答えることができなかったのです。イエスにはこういう罪がある、と言えなかったから「ここは私たちの言う通りにしてほしい」と言って押し通そうとしたのです。

ピラトにとっては迷惑でしかありません。ユダヤの記録では冷血漢のように書かれているような人でしたが、何の罪状もない者を根拠なく有罪にすることはいい気持ちではなかったでしょう。

ピラトは、ナザレのイエスとユダヤ人たちの間にある問題がユダヤの律法に関することだろうと検討をつけました。そこで「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言いましたが、ユダヤ人たちは「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と答えました。

このやりとりを見ると、ユダヤ人たちがピラトのもとに主イエスを連れて来たのは、ただ「ナザレのイエスを殺すため」だったということがわかります。イエスを牢屋にいれるとか、罰金を科すとかいうことではなく、殺したかったのです。

紀元30年頃、ローマ帝国内でユダヤ人たちには死刑を行う権限がありませんでした。だから、ローマの権限でナザレのイエスを殺してほしい、と願ったのです。それも、ローマによる処刑法・十字架刑を求めました。ユダヤ人にとっては、呪われた者に対する処刑の仕方でした。彼らはイエスに「呪われた死」を与えたかったのです。ユダヤ人たちは、イエスを十字架にかけることにこだわりました。ユダヤの民衆を惑わし自分を神の子と自称した律法の冒涜者、そして民衆を扇動した政治犯として、呪われた死を与えたかったのです。

そのためには正当な裁判の手続きなどどうでもよかったのです。過越祭を平穏無事に終わらせることができ、イエスに呪われた死を与える、それがユダヤ人たちの思いでした。

改めて考えさせられます。なぜ、何も罪も犯していないこの方が十字架の上で死ななければならなかったのか。十字架刑は、ユダヤにとっては呪われた死であり、ローマにとっては重大な政治的犯罪者に対する処刑であり、見せしめでした。最も苦痛を伴う、もっとも不名誉で、この上ない辱めに満ちた死でした。

18章32節にはこうあります。「それは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」

「イエスの言われた言葉」とは何でしょうか。イエス・キリストはこれまでもご自分の十字架の死について語ってこられました。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」

「あなたたちは、人の子を上げた時に初めて、『わたしはある』ということ、また、私が自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を一人にしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心にかなうことを行うからである」

キリストが上げられることになる十字架は、ユダヤ人による呪いの死でもなく、ローマによる見せしめの死もありませんでした。十字架の上で、「わたしはある」という神のお名前を世に示す栄光の御業だったのです。明け方にローマ総督官邸に押しかけ、「この男を死刑にしろ」と言う「この世の人間の混乱」の底流で、確かに神の救いの御計画が進められていました。

さて、「死刑」という言葉を聞いてピラトは官邸の中に入って来ました。ユダヤ人たちが「イエスの死刑」を求めるということは、「イエスがユダヤ人の指導者として民衆を扇動し、ローマへの反乱を計画している」ということを意味しています。

ピラトは官邸の中に戻り、主イエスに尋ねました。

「お前はユダヤ人の王なのか」

元のギリシャ語を見るとピラトがこの時驚いていることがわかります。「お前は・・・ お前はユダヤ人の王」なのかという言い方です。そんな大それたことを企んでいたのか、ピラトの驚きがにじみ出ています。

質問された主イエスはピラトの問いかけに肯定も否定もされていません。

「それはあなた自身から言っているのですか。それとも他の人たちが私についてあなたに言ったのですか。」

主イエスは、ほかの人たちの意見ではなく、ご自分に向き合うピラト自身の思いを知ろうとなさいました。「あなた自身は、私をどう見ているのか」。これは、聖書を通して問われる私たちへの信仰の問いかけです。私たちは今この瞬間も、キリストから聖書を通して問われています。「ほかの人たちがどう言っているか、ではなく、あなたは今、私を目の前にして私のことをどう見ているのか」というキリストの問いです。

しかし、ピラトはそのことには正面から答えていません。

「私はユダヤ人だと思っているわけではないだろう。お前の同胞と祭司長達がお前をこの私に引き渡したのだ。一体何をしたのだ」

ピラトは裁きを委ねられた者として、「自分が主イエスをどう見ているか」、ではなく、客観的に、「お前の罪は何か」と、ただ一人の容疑者として見ています。

最終的に主イエスはお答えになりました。

「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」

ある人は、ここでの「私の王国」という言葉は、「私の王権・権威」と訳した方がいいだろう、と言っています。主イエスの権威は、この地上に根差すものではないのです。ユダヤ人やピラトが想像していたものではありませんでした。

結局ピラトには主イエスがおっしゃることの真意は分かりませんでした。「私の王国」という言葉を聞いたので、「それではやはりお前は王なのだな」と念を押します。やはり、主イエスは「それはあなたが考えていることだ」と答えました。ピラトの考えと、イエス・キリストの実像は違っていたのです。ピラトと主イエスの会話は、かみ合わずに終わりました。

人はイエス・キリストのことを好き勝手に解釈します。なんとか自分の知識や経験の中に収めようとします。そうでないと困るのです。自分の知恵に収まりきらないと困ってしまうのです。 Continue reading