MIYAKEJIMA CHURCH

2月1日の礼拝案内

 次週 礼拝(2月1日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:9~15

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番番、187番、272番、頌栄542

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2月22日(日) 三軒茶屋教会の皆さんが三宅島伝道所をお訪ねくださいます。説教は伊藤英志牧師です。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

1月25日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:1~8

イエス・キリストを逮捕したユダヤ人たちは、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに連行しました。目的は一つでした。ナザレのイエスをローマの処刑法・十字架刑に処してもらうためです。民衆を扇動してローマに反乱を企てた者として葬りたいと考えたのです。

ピラトは明け方に起こされました。

ユダヤ人たちは、異邦人との接触をけがれとして考えていたので、自分たちはローマ人であるピラトの官邸の中には入らず、外で待ち、ナザレのイエスだけを官邸の中に入らせました。

ユダヤ人たちは、「この男が悪いことをしなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言います。そんなあいまいなことで、誰かを死刑にすることはできません。ピラトは外にいるユダヤ人たちと、中にいるナザレのイエスの間を行き来して、話を聞き、対応しなければならなくなりました。

はじめに総督官邸の外でユダヤ人たちがイエスに死刑を求めていることに対応し、次に官邸の中でナザレのイエスが持っているという権威・王権について話を聞きます。しかし、イエスに何の罪も見いだせなかったピラトはまた外に出て、ユダヤ人たちにイエスが無実だから釈放するように促しました。

ピラトはユダヤ人たちに言いました。

「過越祭にはだれか一人を釈放するようになっているが、あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」

過越祭には恩赦が与えられる制度があったようです。このように言えば、ナザレのイエスを手放すきっかけになるとピラトは踏んだのです。しかし、ユダヤ人たちは「バラバを釈放してほしい」を答えました。

過越祭での恩赦にイエスを選ぶよう促しましたが、ユダヤ人たちは、強盗であったバラバの釈放を求めました。皮肉にも、ユダヤ人たちは、「ユダヤ人の王」ではなく「強盗」を求めたのです。

ピラトは、次の手段に移りました。ナザレのイエスを鞭打たせ、痛めつけて弱々しい姿にしてやれば、ユダヤ人たちはイエスのことを手放すだろう、と考えました。

ローマには肉体的な処罰にいくつかの段階がありました。何か、教訓を教えるために軽く痛めつける程度のものから、鞭の先に金属片をつけて肉をえぐり出すような鞭打ちまでありました。ここでのイエスに対する鞭打ちは、立ち上がれなくなるほどのひどいむち打ちではなかったでしょう。 朝早くから総督に手間をかけさせたことへの処罰といった程度のものだったのではないでしょうか。半死半生にする、というよりは、外にいるユダヤ人たちに「イエスはローマにとって何の脅威でもない、こんなにも弱く、何の力もない者である」とわからせる程度の鞭打ちでした。

兵士たちは主イエスを鞭打ち、茨の冠をかぶせました。哀れで無力なナザレのイエスに、紫の服をまとわせて王様のように装わせます。そして「ユダヤ人の王万歳」と嘲り、敬礼の代わりに平手で打った、とあります。

傍目に弱々しく見えるぐらいに痛めつけろ、という命令だったのでしょう。主イエスに、はっきりとわかる傷と侮辱が与えられました。

ピラトは外に出て言いました。

「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせないわけがわかるだろう」

そしてピラトは、鞭打たれいばらの冠を頭に載せられ紫の衣をまとった、弱々しく哀れな姿となったナザレのイエスをユダヤ人たちに見せたのです。

ピラトは大声で言いました。「見よ、この男だ」。これは、元の言葉では「何という男だ」という意味の言葉です。「お前たちが大げさに訴えているのは、実はこんなに無様で弱々しい、全く恐れるに足らない男なのだ」と伝えようとしたのです。ローマにとって何の脅威でもない、釈放してもユダヤにとって何の害もない、ということを見せようとしました。

ピラトがナザレのイエスを鞭打たせ、侮辱させたのは、無実のイエスを救うためでした。しかしその姿を見ても、ユダヤ人たちは収まりません。「イエスを十字架につけろ」と叫び出しました。

外にいたユダヤ人たちは、「この男がどんな罪を犯したのか」というピラトの最初の質問にまだ答えていません。ピラトが直接イエスを調べても、死罪に当たるような何かは見出せませんでした。改めてナザレのイエスの無実を主張しました。「あなたたちが引き取って 十字架につけるが良い 私はこの男に罪を見いだせない」

ここで初めて、ユダヤ人たちは、なぜナザレのイエスを死刑にしたいのかを告げました。「この男は神の子と自称しました。私たちの律法によればそれは死罪に当たります」

ナザレのイエスは、彼らの目には、「神の子」に見えなかったのです。聖書を読み、神の子・メシアの到来を待ち望んでいた彼らの目に、鞭うたれ、いばらの冠と紫の服を着けられて侮辱されているこの方のお姿は、「神の子と自称した罪びと」として映っていたのです。

主イエスは以前おっしゃったことがあります。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

まさに、その通りです。今、誰も主イエスのことを神の子として見ている人はその場にいません。これは預言者イザヤの預言の実現でもあります。

イザヤ書53章に、苦難の僕の詩があります。

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。恐るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた」

イザヤは人々のために罪を担い、救い出す神の僕の姿に誰も気づかなかったという悲劇を歌っています。

ピラトは、鞭打たれ嘲られたイエス・キリストをユダヤ人たちに見せて、「見るがいい、なんと憐れな男だ」と示しました。確かに、その姿は憐れで、ユダヤ人たちが言っている「ユダヤ人の王」には見えませんでした。しかし、人の目にはそう見えても、霊的な視点で主イエスのお姿を見るとイザヤ書に預言されたあの「苦難の僕」の姿が重なるでしょう。

「誰が信じ得ようか」・・・確かにイザヤが預言した通りです。

イザヤは言います。

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだと」

まさに、ユダヤ人たちはそう考えていました。「ナザレのイエスは神の子を自称した」とピラトに伝えています。だからこんな風に打たれるのは当然で、それは神からの罰だ、と信じていました。

しかし、イザヤの預言を知る人ならば、この痛めつけられたイエス・キリストのお姿は、「苦難の僕」と呼ばれた救い主であり、真の王がご自分の栄光へと進まれる姿であることがわかるでしょう。

憐れなイエスの姿を見せ、ユダヤ人たちを満足させて終わりにしよういうピラトの思惑は失敗に終わりました。ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫び始めたのです。そこには、イザヤの預言の実現があったのです。 Continue reading