1月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」(2:11)

ヨハネ福音書は、カナという小さな村で行われた婚礼の宴の舞台裏で行われた奇跡を、キリストが最初に行われた「しるし」として描いています。ヨハネ福音書で、弟子達を召し出されたキリストの公の活動として最初の事件となります。そしてこの出来事は、この後のキリストの公の活動を暗示するものでもあり、旧約の預言の実現でもあります。

キリストが六つの水がめに水をいっぱいにし、それを葡萄酒へと変えられたということの意味は何なのでしょうか。「この方にはこんなにも人間離れした力があった」ということを伝えるだけのものではないはずです。

カナの婚礼で行われた「しるし」を通して、私達は、このイエスという方が世に来られた意味を、そしてこの方がやがて十字架で流す血の意味を見せられることになるのです。先週に引き続いて、カナの婚礼の場面を見ていきたいと思います。

キリストが最初にお見せになった「しるし」は、婚礼の宴の席で、人々が飲み切ることが出来ないほど豊かな葡萄酒をおつくりになるということでした。「婚礼の席」で、「豊かな葡萄酒」が出される、というところに、この「しるし」の意味があります。「婚礼」は契約の象徴だし、「葡萄酒」は血の象徴です。私たちは、この場面に、「契約の血」がやがて与えられることを見るのです。

旧約時代の預言者たちの言葉と、カナの婚礼のしるしを照らし合わせて見ると、私たちは、メシア到来の祝福の実現を見ることが出来ます。

BC8世紀、預言者アモスは当時偶像礼拝に腐敗していた北イスラエル王国で、神の律法の言葉が守られていないことを糾弾ました。当時の北イスラエル王国では、「弱者を守れ」という神の愛の教えが守られず、貧しい人がわずかな値段で売りとばされたりしていたのです。

アモスはそのような腐敗した北イスラエル王国の滅びを預言して人々に告げました。そして滅びを預言すると同時に、その滅びの先にある神の救いの幻も伝えました。

アモスの預言書の最後の言葉はこういうものです。

「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ブドウを踏む者は、種まく者に続く。山々はブドウの汁を滴らせ、全ての丘は溶けて流れる。私は我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から再び彼らが引き抜かれることは決してないと、あなたの神なる主は言われる。」

北イスラエル王国は弱く貧しい者たちを顧みないその罪ゆえに滅びることになる、しかしその先で、神は許しの時・再建の時を既に備えていらっしゃる、とアモスは預言したのです。

アモスは、罪の許しの時に何が起こるかを預言しました。

「丘が溶けて流れるほど豊かな葡萄酒」をもって神は祝福をくださる、というのです。。

預言者イザヤも、終わりの日に与えられる神の救いの様子を伝えています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民に良い肉と古い酒を供される。・・・主はこの山で・・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私達の神。私達は待ち望んでいた。この方が私達を救ってくださる。この方こそ私達が待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(25:6以下)

「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:6)

イザヤは、神と人が宴の中で一緒に座ることを預言しました。花婿と花嫁のように神と人が宴の中で一緒に座ることになる、そして神が人の顔から涙をぬぐってくださる時が来る、と言っています。

私達が今日読んだ、カナの婚礼のイエス・キリストこそ、アモスやイザヤの預言の実現なのです。

神の子が、婚礼の席に共に座って下さり、祝福の葡萄酒を豊かに与え、涙をぬぐってくださる時が来たのです。

アモスが預言した許しの時、イザヤが預言した神との契約の回復の時が来た、ということです。預言者たちが伝えて来た「神との新しい契約の時・祝福の時」が、このカナの婚礼で示された「しるし」の意味なのです。

婚礼の世話役は、花婿を呼んで「あなたは良い葡萄酒を今まで取っておかれました」と言いました。キリスト以前にはなかった、良いことが始まっていくことが示されています。イエス・キリストから祝福が新しく始まるのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが私たちの間に来ました。私たちはそのことを喜ぶべきなのです。

そうして見ると、カナの婚礼のしるしは、私たちにとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。私たち一人一人にとって、イエス・キリストに出会う前と後では、生きる意味が大きく変わったはずです。自分の中から何かが無くなってしまいそうになった時、自分の知らないところで、自分の人生の舞台裏で、キリストが祝福を用意して満たしてくださったのではないでしょうか。

教会は、主日ごとに礼拝します。私達の礼拝の中心には聖餐卓があります。私たちは神と共に、キリストと共に席に着き、礼拝の中で自分と神との出会いを喜び、神との契約を喜ぶのです。

さて、私たちは今日、一つの言葉に注目したいと思います。「しるし」という言葉です。他の福音書では、「奇跡」とか「偉大な業」とかいう言葉がつかわれていますが、ヨハネ福音書はイエス・キリストが水を葡萄酒に変えられたことを「しるし」と呼んでいます。主イエスが行われたことを「しるし」と呼んでいることには、何か特別な意図があるようです。

2:11「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」

実は、このカナの婚礼と呼ばれている出来事で本当に変えられたのは弟子達でした。花婿と花嫁でもなく、婚礼の世話人たちでもなく、参列者たちでもありません。厳密に言えば、これはその婚礼の場にいた人たちが主イエスの行われた奇跡を見て驚いた、という出来事ではないのです。むしろ婚礼の表舞台では誰もキリストがなさったしるしを見ていません。これは婚礼の舞台袖で小さな奇跡を行われた主イエスに神の栄光を見て、弟子達が「信じる者」となったという出来事なのです。

弟子達は確かに、主イエスを求め、ここまで付いてくるようになりました。しかし改めて、弟子達はこの婚礼で主イエスが行われた「しるし」を見て、「信じた」と書かれています。

この「しるし」を見て、弟子達の中で何かが大きく変わったのでしょう。この「しるし」を通して、本当の意味で、「この方が神のメシアであり、この方を通して神の栄光を現われる」ということを「信じた」のです。弟子達は、「しるし」を通して「主イエスについていく者」から、「主イエスを信じる者」になった。

このことを見ると、「しるし」というのは、私たちをただ驚かせるものではなく、キリストと私たちを結び付けるものであることがわかります。聖書が私たちに示す「しるし」は、「何か信じがたい現象」「何か魔術的なもの」ではありません。神の栄光が表され、私たちをキリストへと結びつけるものということです。

主イエスはガリラヤでこのあといくつもの「しるし」を行われます。それは、人々を驚かせるものではなく、むしろ「私を本当に神の子・キリストと信じるか」と問いかけるものでもありました。

このような「しるし」は、今も私たちにも与えられています。まず、今私たちが教会でキリストを礼拝している、ということが、すでに「しるし」が与えられたということの証拠でしょう。

誰もが、教会へと足を向けるようきっかけとなった「あのこと」があり、「あの人」がいたのです。それこそ、それぞれに与えられた神からの「しるし」、と言っていいのではないでしょうか。他の人たちからすれば、奇跡には見えないかもしれません。「そんなのはあなたの思い込みだ、偶然だ」と言われるかもしれません。しかし、自分にとって必然としか思えない時に、自分とキリストにしかわからない「しるし」が見せられたから、今私たちはこの礼拝にいるのではないでしょうか。

私たちは、何となく興味を持って教会に来て、一度礼拝に加わった、というのではないのです。何よりの奇跡は、自分が礼拝の中に身を置くようになり、そして今も礼拝者として、信仰者としてあり続けている、ということではないでしょうか。楽しいことがあっても、辛いことがあっても、毎週礼拝に来て、神の言葉を聞き、祈りを捧げ、礼拝ごとに新たにされていく自分を感じるということです。

この福音書の最後の方、20:30でこう書かれています。

「このほかにも、イエスは弟子達の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである」

キリストの弟子達は福音書に書ききれないほどのしるしを見たのです。しかしこのヨハネ福音書の中に書かれているのは、書ききれるだけのしるしです。書ききれないほどのしるしが、これまで与えられてきました。何も誇るものをもたないこの私にも、こんなにも小さな者にも、神は福音の種を大切に蒔いてくださってきたのです。

なぜイエス・キリストが十字架で殺された後も、キリストを信じる人たちが起こされたのでしょうか。なぜ直接キリストを見知っている世代の人たちがいなくなっても、キリストを信じる信仰者が次の世代にも起こされてきたのでしょうか。そしてなぜ今も、この聖書という不思議な、信じがたいことばかりが書かれている書物が求められ、読まれているのでしょうか。

ここに真理があるからでしょう。「しるし」があるからでしょう。キリストと私たちを結び付ける何かがあるからでしょう。

私たち自身、肉の目を通して、キリストのしるしを直接見たわけではないのに、なぜ教会に足を運ぶのでしょうか。今私たちがキリスト者として今ここに生きているということこそが、何よりキリストが生きて私たちを導いておられる「しるし」ではないでしょうか。

この島の中で私たちはキリスト者として生かされていることこそ、神がこの島の人たちにお与えになった招きの「しるし」なのです。

私たちにはキリストのように人の目を引き付ける奇跡を行うことは出来ません。しかし、私たちが今ここで礼拝し、祈り、讃美をささげるこの小さな信仰の業は、キリストが起こされた大きな奇跡であり、この島の中で「しるし」として確かに用いられていくのです。