4月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:7~19

「あなたの夫を連れてきなさい」

イエス・キリストと、サマリア人女性の出会いの場面を読んでいます。女性は井戸のそばに座って来た旅人が、自分に話しかけてきたことに驚きました。当時、「ユダヤ人とサマリア人は交際しなかった」、と書かれています。男性が女性に話しかけることも、はばかられていた時代でした。

それでも主イエスはかまわず女性に話つづけていらっしゃいます。しかし、この場面を読むと、主イエスと女性の会話はなかなかかみ合っていません。

「水を飲ませてください」と女性に頼まれた主イエスでした。しかし本当に問題にされたのは、女性がご自分に水を飲ませてくれるかどうか、ということではありませんでした。「水を飲ませてください」と言った御自分が一体何者であるか、そして主イエスが女性にお与えになろうとしている「水」とは何なのか、をお伝えになろうとしたのです。

3章で主イエスとニコデモの会話が記録されていますが、それとよく似ています。ニコデモは主イエスの言葉の表面的に理解しようとしました。このサマリア人女性も同じです。

ニコデモとの違いは、このサマリア人女性は、自分に話しかけてきたユダヤ人の旅人が言葉で言い表すことのできない何かを伝えようとしているのではないかと感じて、なんとか理解しようと聞き続けたことです。

ニコデモは、イスラエルの教師として「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と、主イエスに食い下がりました。

「もしあなたが神の賜物を知っており、『また水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」

この言葉を聞いて、女性は「この人はユダヤではとても偉い人なのだろう」と思ったようです。「あなた」と呼んでいたのが、「主よ」と呼ぶようになり、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言うようになっていきます。そして最後には女性は人々のところへ行き、「あの方はメシアかもしれません」と告げて回ることになるのです。

イエス・キリストとの出会いによって、人は自分がまとっている仮面や鎧を脱いでいくことになります。そうやって身軽になっていくにつれて、キリストの存在を間近に感じるようになっていくのです。

サマリア人女性は、主イエスの言葉を不思議に思いました。自分はからかわれているのだろうか、と思ったかもしれません。「水を飲ませてください」と言ったかと思うと、「私に頼んだら生きた水を与えたことでしょう」などと言うのです。水を入れる入れ物を持ってもいないのにそんなことを言ってくるのです。

そしてまるで自分が、旧約聖書の創世記に出てくるヤコブよりも偉いかのような言い方をすることが気になりました。女性は主イエスに質問します。

「あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え彼自身もその子供や家畜もこの井戸から水を飲んだのです」

ヤコブはイスラエルとも呼ばれ、イスラエル12部族の元になった人です。特にサマリア人の祖先とされていました。このユダヤの旅人はヤコブが掘ったこの井戸の水に勝る「生きた水」を与える、などと言っているのです。

サマリア人女性にとって、ヤコブ以上に偉い、という人物は考えられなかったでしょう。女性は、主イエスをヤコブと比較しています。だから主イエスがおっしゃることの意味がなかなか分かりませんでした。

キリストに対する無理解というのは、人が誰しももっている、このような比較に根差していることが多いのです。「イエス・キリストと誰それは、どちらが偉大だろうか」、などと考えるのです。

キリストを世界の偉人の一人に数える人は多いのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストのことを、単に「社会にいい影響を及ぼした偉い人の一人」として見るのであれば、このサマリア人の女性やイスラエルの教師ニコデモのように、主イエスがおっしゃる言葉が理解できなくなってしまいます。キリストをキリストとして見る信仰の目を持たなければ、聖書を読んでも本当のところはよくわからない、ということになってしまうのです。

ニコデモは、「人は上から新たに生まれなければならない」と言われて、「どうして母の胎に戻ってもう一度生まれることができるでしょうか」と言いました。この女性も、「私はあなたに生きた水を与えよう」と言われても「あなたはヤコブよりも偉いのですか」と言いました。ちぐはぐなやりとりです。

ニコデモも、サマリア人女性も、主イエスのことをはじめはキリストではなく「ユダヤ人の律法の偉い教師」として見ました。だから人の知識で、人の地平でしかこの方を見ることができなかったのです。

主イエスがおっしゃる「生きた水」とは何なのでしょうか。ヤコブが掘った井戸の水とはどう違うのでしょうか。女性は主イエスがおっしゃった「生きた水」のことを文字通り、わき出す水のことだと理解しています。

ヤコブが掘ろうが、誰が掘ろうが、井戸から水を汲んで飲んでもやがて喉は渇きます。しかしこの旅人は言うのです。

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

この言葉は女性にとってとても魅力的なものでした。女性は生きるために毎日この井戸に水を汲みにこなければなりませんでした。しかし水汲みは嫌な作業でした。人目を避けて、一日で一番暑い時間に水汲みに来ていました。人目を避けなければならないような生き方をしている人だったのです。

この人が水をくれるというのであれば、自分はもう人目を避けてこの井戸に水くみに来る必要はなくなります。女性は答えました。

「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいようにその水をください」

これこそ女性の本当の願いでした。

よく見ると、主イエスは女性に「生きた水、湧き出る水」とおっしゃっています。単なる「水」のことをおっしゃっているのではないのです。文字通りの水ではなく、何か霊的な意味でこの言葉を女性にお伝えになっているのです。

聖書で、水は「命」の象徴です。

詩編42:1~2「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」

イスラエルの詩人は歌っています。「水を求めるように神を求める」「魂の渇きを満たしてくださるのは神であり、自分の魂は命の神を常に求めている」

預言者イザヤの書にも、神の言葉があります。

イザヤ書55:1「渇きを覚えているものは皆水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き私のもとに来るがよい。聞きしたがって魂に命を得よ」

国を失い、バビロンに捕らわれていたイスラエルの人たちに向けて神が預言者を通して語られた言葉です。

外国にとらわれていたイスラエルの人たちは魂が飢え、渇いていました。そこで神の招きの言葉を聞いたのです。

「水の所に来なさい」

「水の所」とは神の御許です。このようにイエスキリストがおっしゃる「生きた水」とは神のことです。そして「私はあなたに生きた水を与えることができる」とおっしゃるのはつまり「私が神である、だからここに来なさい」ということなのです。今サマリア人女性は目の前に「命の源泉」を見ているのです。

ここまで言われても女性はまだキリストがおっしゃっていることが理解できていません。彼女はまだ主イエスが自分の水汲みの仕事を軽減させてくれる、ことを期待しています。

私たちもこの女性が持っていた期待と同じようなことをキリストに対して抱くことはないでしょうか。キリストを信じれば何か自分の仕事が楽になるという期待をいたりはしないでしょうか。自分が抱えている仕事や問題が軽くならないのであればすぐに私たちはすぐにキリストを疑ってしまうのではないでしょうか。

私たちはこのサマリア人女性の無理解を他人事として見ることはできません。私たちはイエスキリストに何を期待しているのでしょうか。この後女性はキリストからさらなる恵みを示されることになります。

キリストは女性に「あなたの夫を連れてきなさい」とおっしゃいました。なぜ突然主イエスがそんなことをおっしゃったのかよくわかりません。

彼女は「私には夫はいません」と答えます。彼女が言ったのはそれだけでした。しかし、主イエスは彼女におっしゃいます。「その通りだ。あなたには5人の男がいたが今連れ添っているのは夫ではない。」

女性は以前は5人の男性と結婚していたようです。そして今は夫ではない男性と一緒に暮らしていたようです。5人の男性と今まで結婚したことがあり、今は夫ではない人と共に暮らしていると、いうことで、周りの人たちからこの女性がどのような目で見られたのか、すぐ想像できると思います。だからこの女性は人目を避けて一日の一番暑い時間に井戸に水を汲みに来ていたのです。

女性は隠していたことまですべてこの方に知られていたということに驚きました。そこで初めて女性は主イエスに「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。

私たちは、キリストが私たちを既に知ってくださっていた、ということを思い知らされることがあります。私達は、自分でキリストを知ろうとして知る、というよりは、「この方は既に私のことを全て知ってくださっていた」ということを知って、跪くのではないでしょうか。

女性は、このユダヤ人の旅人が自分のことを全て知っており、何かを自分に与えようとしていることに気づき始めました。自分が内に秘めている負い目や引け目は、この方には隠しておけないことを知りました。それでも招こうとしてくださるこの方から逃げるのではなく、むしろこの方の懐深く入って行こうとするのです。

ここまで読むと、私たちは考えさせられます。主イエスとサマリア人女性の出会いは、偶然だったのでしょうか。偶然、この日のこの時間に、主イエスが旅に疲れてそこに座っていらっしゃったから、この女性は主イエスから声をかけられたのでしょうか。

イエス・キリストは、サマリアのシカルにあるヤコブの井戸のそばに座り、水を汲みに来た女性に話しかけられました。その場所で、その時間に、この女性が来るのを待っていらっしゃったのです。そしてキリストは彼女の負い目をすべて洗い流す生きた水として、彼女に声をかけ、招かれたのです。

私たちは、キリストが自分を知ってくださっていたことを知った時、そして自分で自分を知っている以上に、キリストが心の奥底まで理解してくださっていることを知った時、キリストの御前にひれ伏します。全てを、キリストの招きに委ねるようになります。自分が抱えている問題や悩みを軽減してくれるかどうか、などということではなく、自分が抱えているものそのままに、キリストに自分を委ねるようになります。

誰でも、人に誇ることのできない自分、人目をはばからないといけない自分があります。キリストはその弱さ・醜さをご存じの上で私たちを招いてくださっています。

私たちは人生の中でいつ、どこでキリストから声をかけられたでしょうか。自分では気づいていないかもしれない。聞こえなかったかもしれません。それでも、キリストは御自分が生きた水であり、命の源泉であることを、私たちの人生の歩みの中で時間をかけて教えてくださいます。

このサマリア人女性のように、「どうして私などに話しかけるのですか」と答えることもあるでしょう。「私はあなたを信じません」と突っぱねることもあるでしょう。それでも、人に知られず、孤独の中で、生きるために水をくむ私たちにキリストは「尽きることのない命の水を私から受けなさい」と招いてくださるのです。

ヨハネ黙示録に、この世の終わりの教会、キリスト者たちの様子が描かれています。

「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も、その神殿で神に仕える玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや飢えることも乾くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである」7:16

世の終わりの私達の姿です。命の源であるイエス・キリストの下に集められ、神によって涙をぬぐわれたキリスト者たちの姿が預言されています。今、私たちはそこに向かっているのです。

黙示録の最後には、イエス・キリストご自身の声が書かれています。

「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しいものは値なしに飲むがよい」22:17

キリストは私たちの心にあるものを全てご存じです。それにも関わらず、「渇いているものは来るがよい」と招いてくださいます。キリストの招きの深さに、全てを差し出していきたいと思います。