4月13日の礼拝説教

 ヨハネ福音書12:9~19

先週、私たちは、主イエスがラザロの家族とご自分の弟子達と一緒にベタニア村で食事をなさった場面を読みました。それは過越祭の六日前のこと、つまり、イエス・キリストの受難のちょうど一週間前、という時でした。その食事のちょうど一週間後、キリストは逮捕され、無理やり有罪とされ、夜通し苦痛を与えられることとなります。

その食事の席にいた人たちは、ラザロが墓の中から起こされたという喜びを分かち合っていたでしょう。起こされたラザロの家族はもちろん、キリストの弟子達も、自分たちの先生が死者の復活という大きな奇跡を起こしたことを喜んでいたでしょう。

しかしその喜びの食卓の中、主イエスだけは、他の人たちとは違う心持でいらっしゃいました。一週間後には、逮捕と、苦痛と、十字架の死がご自分を待っていることをご存じでした。

死から復活したラザロを喜ぶ人たちと、ご自分の死に向かっていかれるイエス・キリストとの間には大きな気持ちのずれがあったのです。

その喜びの宴の中で、ラザロの姉妹マリアが、主イエスの足に香油を注ぎ、自分の髪の毛で拭いました。それを見た他の人達は、高価な香油を無駄遣いするマリアに驚きましたが、主イエスだけはマリアがご自分のホームの準備をしてくれたことを喜びました。

今日私たちが読んだのは、その喜びの宴の翌日のことです。主イエスはエルサレムに入場されました。日曜日の朝のことでした。このちょうど一週間後、主イエスはエルサレムのゴルゴタの丘で十字架に上げられ苦しまれることになります。

大喜びして主イエスをエルサレムに迎え入れる群衆の姿と、一週間後にご自分を待つ十字架へと見据えていらっしゃる主イエスのお姿は、対照的です。

ヨハネ福音書では、主イエスが約3年の間、ガリラヤとエルサレムを行き来してこられたことを書いています。祭りのたびに、主イエスはガリラヤからエルサレムにいらっしゃって、しるしを行われました。

エルサレムの人たち、またエルサレムに巡礼に来ていた人たちは、この三年間、ナザレのイエスがエルサレムで祭りのたびに行って来た不思議な癒しの奇跡、そして聖書の教えを説くのを見てきました。

祭司長たちが「ナザレのイエスを見つけたら通報するように」という命令が出されていたにも関わらず、イエスは過越祭のためにエルサレムにやって来たのを見て、人々は喜びました。この人たちは、ラザロを死者の中から蘇らせたことを皆伝え聞いていたのです。それほどの奇跡をおこなう方がエルサレムの過越祭に来られたのです。

過越祭はイスラエルの解放・救いを記念する祭りです。ナザレのイエスには特別な力があることを知って、期待を抱いていた人たちにとって、過越祭にやってきたこのイエスという方はこの時、自分たちの救いの象徴そのものとなったのです。

しかし、ベタニア村での晩餐でそうであったように、人々に見えていた主イエスのお姿と、本当の主イエスのお姿は違っていました。

主イエスは昨晩の食事の席でマリアから香油を注がれました。油を注がれるというのは、王、祭司、預言者が神から選び出されて任命される際の儀式でもあります。普通であれば、頭に油を注がれます。

しかしマリアは主イエスの足に香油を注ぎました。主イエスの前に低くなり、主イエスの体の一番低い部分に注ぎました。それは、王として立つ方の栄光の印ではなく、主イエスご自身がおっしゃったように埋葬の準備でした。

この時のエルサレムで、誰が一週間後の主イエスの十字架を予想できたでしょうか。確かに、主イエスはこの世の王、祭司、預言者として世に遣わされた神の子・メシアでした。しかし威光をまとい、この世の頂点に君臨する地上の王ではありませんでした。

良い羊飼いとしてご自分の命をこの世のために投げ出すために来られた天からの王でした。低く、謙遜なメシアでした。栄光のメシアではなく、受難のメシアでした。

主イエスがエルサレムに入場される日の前の夜、群衆が主イエスの噂を聞きつけてやってきたことが書かれています。ラザロを見るためです。本当にナザレのイエスは死者を墓から起こしたのか、確かめるためでした。死者の復活という、未だ聞いたことのない大きな奇跡が本当かどうか、自分たちの目で確かめる必要がありました。

人々は、ラザロが生きていることを自分の目で見ました。人々は興奮したでしょう。これほどのしるしは見たことがありませんでした。

しかし、一方で、ラザロの復活を快く思わない人たちもいたことも書かれています。祭司長をはじめとする宗教指導者たちでした。人々の心が主イエスに向いていくことに危機を持っていたのです。

指導者たちの中でも、特にサドカイ派の人たちはラザロの復活のことを疑っていたでしょう。ユダヤ教の中でもサドカイ派の人たちは、死者の復活を信じていませんでした。ラザロが生き返ったということはサドカイ派の人たちにとって危険思想でした。

祭司長たちは、ナザレのイエスのせいで過越祭の前に民衆の感情が高ぶることを危惧しました。指導者たちは、自分たちの宗教的支配力がイエスに奪われてしまうことを恐れました。

そして何より、過越祭の中で何か問題が起きて、ローマの兵士たちに鎮圧されるということを恐れました。

1世紀のユダヤ人歴史家のヨセフ巣は過越祭の際には200万人もの人々がエルサレムに巡礼にきていたということを記しています。その人数の多さを考えると、祭司長たちもローマ兵たちも緊張していたということは想像できます。

そして彼らが考えた解決策はラザロを殺す、ということでした。ラザロの存在そのものが、ナザレのイエスを神の子・メシアと信じる人たちを作ってしまうのであれば、殺してしまおうと考えるようになったのです。

皮肉なことに、聖書を一番よく研究していた彼らが、ラザロの復活に神の栄光を見出すことなく、神の御業の生き証人であるラザロを殺そうと企んだのです。

日曜日の朝、主イエスのエルサレム入場という出来事の水面下では様々な人々の思いが交錯していたのです。

主イエスは多くの人々から熱狂的に迎え入れらました。ベタニア村からついてきた人たちと、エルサレムで迎え入れた人たちは、「ホサナ」と主イエスに向かって叫び、ヤシの枝を振りました。

人々は、エルサレムに入って来るナザレのイエスに、ユダヤ人指導者ユダ・マカバイの姿と重ね合わせた。ユダ・マカバイは紀元前2世紀に、外国の軍隊と戦ってエルサレム神殿を取り戻した人です。

ユダ・マカバイが戦いに勝って、エルサレムに入場した時、人々はマカバイをヤシの枝を振って迎え入れました。今、エルサレムの人たちは主イエスのことを新しいユダ・マカバイとして、新しい軍事指導者として迎え入れているのです。

ホサナというのは「主よ、私たちを救ってください」という意味の言葉です。旧約聖書では、やがて来られる主の名において来られるメシアに向かって叫ぶ言葉でした。

このホサナという叫びの中に、群衆の主イエスに対する期待が表れています。それは、ローマ帝国からの解放、外国の支配からの解放でした。

しかし、これはイエス・キリストに対する正しい期待ではありませんでした。主イエスご自身は、「羊のために命を投げ出す良い羊飼い」として来られたのです。

主イエスのエルサレム入場の仕方は不思議です。わざわざ「ろばの子を見つけて、お乗りになった」と書かれています。

軍事的英雄として凱旋したユダ・マカバイの姿とはかけ離れています。新しいイスラエルの王、ユダ・マカバイの再来としてエルサレムに入るというのであればこの姿はちぐはぐです。馬に乗って、剣や槍をもった兵士たちを後ろに従わせて入場する、威風堂々とした王の姿ではありません。逆だ。一人でロバに乗ってエルサレムに入る姿には、微塵も強さを感じません。むしろ弱々しい姿です。

主イエスのすぐ後ろで見ていた弟子達は、なぜ先生がこのようなことをなさるのか、わかりませんでした。もっと人々から尊敬を得るような仕方でエルサレムに入ればいいのに、と思ったのではないでしょうか。

しかし、弟子達はキリストの十字架の後、この時の主イエスの御心を知ることになりました。キリストの十字架の後、弟子達はなぜ主イエスが馬ではなく、ロバに乗られたのかを悟ります。

主イエスがロバに乗ってエルサレムに入場するという滑稽な姿をなぜさらされたのか。それは預言者ゼカリヤの預言の実現でした。旧約聖書のゼカリヤ書に、「ロバに乗った方が来る」、という預言が残されています。メシアは、威光に輝く軍事的な征服者ではなく、平和の王として、謙遜な王として来られる、という預言です。

主イエスがエルサレム入場の際に乗られた小さなロバ、それは平和と謙遜の象徴でした。そしてご自分が謙遜な王であり、羊のために命を投げ出す羊飼いであることをこのような仕方で示されたのです。

主イエスがエルサレム入場された時、その姿を見た人たちは誰も主イエスのお姿を正しく見ることができませんでした。熱狂して迎えた群衆も、危機感をもって見ていた最高法院の人たちも、主イエスのことを正しく見ることはできませんでした。皆、自分の思いだけを見て、キリストの思いを、神の御心を見ることができませんでした。

神の御心に自分の心を向けないということこそが、罪ではないでしょうか。その罪から私たちを救い出すために、私たちの心を神へとつなぎ合わせるために、キリストはこの世に来てくださったのです。人々からの熱狂と指導者たちからの殺意を受けつつ、主イエスは受難のメシアとしての歩みを静かに続けていらっしゃいます。

群衆に熱狂的に迎え入れられる主イエスを見て、ファリサイ派の人たちは恐れを抱きました。

「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」

これがファリサイ派の人たちの心配でした。しかし、これは心配することではありません。世をあげてイエス・キリストについていくということ、これが神の御心であり、それがこの世の救いなのです。エルサレムの人たちだけでなく、後には、世のすべての人々がキリストについて行くことになります。

宗教指導者たちは、群衆がイエスに従うことで問題が起こりローマに支配されてしまうのではないかと心配し続けました。キリストがもたらしてくださるのはローマの支配ではありません。神の支配です。イエス・キリストによってこの世界が神の支配を取り戻すことになるのです。

人はこの世的な目線でしか、この世の計画でしか目の前のことを判断できません。しかし神の霊的なご計画は、私たちの目に見えなくても、イエス・キリストが静かにご自分の内に秘めた強い思いによって、静かに実現していきました。

良い羊飼いでいらっしゃるキリストは、この時のエルサレムの人たちだけではなく、世界のすべての人たちを迎えに来られました。神から与えられた受難という使命を抱いて、この世の期待の中を静かに十字架に向かって歩まれるイエス・キリストお姿を見つめたいと思います。