ヨハネ福音書16:25~33
イエスキリストと弟子たちが過ごされた最後の夜の場面は、ヨハネ福音書13章から17章にかけて描かれています。かなりの分量です。13章で、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたことが描かれ、17章ではイエスキリストの最後のとりなしの祈りの言葉が記録されています。その間にある14章から16章までの言葉が、直接イエス・キリストが弟子たちに語られた告別の言葉ということになります。
その14章から始まるキリストの最期の言葉は「心を騒がせるな」という一言から始まります。弟子たちの心は騒いでいました。先生がなぜ自分たちの足を洗ってくださったのか、弟子たちは戸惑いました。
ペトロは「師であるあなたが弟子である私たちの足を洗われるのですか」とはっきり言いました。その時の主イエスの答えは、「今私がしていることはわからないだろうが、後でわかるようになる」でした。そしてそのまま、一人一人の弟子たちの足を洗い、拭って回られたのです。
自分たちが今、何か特別な時間を過ごしている、ということを弟子たちは感じたでしょう。心を騒がせ、戸惑い不安になる弟子たちに向かって、イエス・キリストは「これから私と君たちは離れ離れになる」とおっしゃり、同時に、「けれども大丈夫だ」とおっしゃいます。
今日私たちは、14章から続くキリストの言葉の最後、16章の最後のところを読みました。イエス・キリストの弟子たちへ教えのまとめ・集大成ともなる言葉です。
「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」
心騒がせる弟子たち、また生きる不安を抱える信仰者たちにキリストはこの言葉を残してくださいました。
生きる中で逆風を感じる時、いつでも私たちの心は騒ぎ不安になり戸惑うのです。右を見ても左にいてもイエス・キリストの姿は直接見えません。キリストの存在を感じられない時、「自分は一人なのだろうか。神に見捨てられたのだろうか。キリストは自分に背を向けられていらっしゃるのだろうか」と不安になるのです。
この夜の弟子たちこそ、生きる中で不安を抱えた信仰者たちの姿そのものではないでしょうか。そして、そのような信仰者たちにとって、一番必要な言葉がこのイエスキリストの言葉なのです。
「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
聖書は「神我らと共にあり」というインマヌエルの喜びを伝えています。インマヌエルという真理こそが、聖書が全体を通して今の私たちに伝えようとしている福音・喜びの知らせなのです。
何か生き方に迷った時、何か悲しむべきことが起こった時、私たちの信仰の足元は揺らぎます。簡単にぐらつきます。イエス・キリストの歴史を見ると、目に見える神を求めて繰り返し偶像礼拝に走ったことがわかります。
私たちだって、何か不安なことがあれば目に見えてわかりやすい救いを求めるのではないでしょうか。そのような闇の中でこそ、イエス・キリストのこの言葉は福音の光として輝くのではないでしょうか。
「神我らと共にあり「イエス・キリスト我らと共にあり」
既に世に勝っていらっしゃる方が、世で苦難を生きる私たちと共にいてくださる、という約束が与えられています。
この約束をもって、キリストは弟子たちへの告別の言葉を締めくくられました。主イエスの弟子たちへの最後の言葉は励ましの言葉でした。
今日読んだ最初のところで、「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた」とおっしゃいました。確かに、主イエスはこれまでいろんな例えを用いてご自分が何者であるかということを示してこられました。
「私はまことのぶどうの木。あなた方はその枝である」
「私は良い羊飼いであり、良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」
「私は羊の門である。誰もこの門から入らなければ救いに至ることは出来ない」
しかし、この夜、弟子たちとの最後の別れに際して、主イエスはもうたとえを用いない、とおっしゃいました。もう弟子たちに何も隠しておく必要はないのです。キリストははっきりおっしゃいました。
「私は父の元から出て世に来たが、今世を去って父のもとに行く」
このように直接はっきりおっしゃったので、主イエスがこれから死ぬことになることが弟子たちも現実味を帯びて伝わったでしょう。
弟子たちは答えます。
「今は、はっきりと話になり少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で誰もお尋ねする必要のないことが今分かりました。これによってあなたが神の元から来られたと私たちは信じます」
弟子たちははっきりと、「この方こそ神の元から来られた方である」と信じました。
弟子たちの信仰告白と言っていい言葉です。しかし、これに対してイエス・キリストは、不思議な言い方をされています。
「今ようやく、信じるようになったのか」
私は一生懸命あなた方に私が何者であるかを伝えてきたけれども、ようやくここにきてやっとわかったのかという、キリストが弟子達の無理解に呆れていらっしゃるようにも聞こえる言葉です。しかしこの言葉は、元の聖書のギリシャ語を見ると、もっと単純な言葉です。
「今、あなたたちは信じるのか」
ようやく信じるようになったのか、という弟子たちの無理解を責めるような言葉ではありません。むしろ弟子たちが今、きちんと信じている、ということを確認されている言葉です。
そして、この言葉は、今の信仰は、次の瞬間どうなるだろうか、というキリストの思いを含んでいます。「今確かに君たちは私のことを信じている。しかしこのあとはどうだろうか」という意味合いの言葉なのです。
イエス・キリストはこの後十字架の上で孤独な死を遂げられることになります。しかしその十字架の前で一体何人の弟子たちが立っていたでしょうか。今、「あなたは神の元から来られた方です」とはっきり信仰告白をした弟子達は、この夜の内に主イエスの逮捕を見て、逃げていくことになるのです。
旧約の預言者ゼカリヤがこういう言葉を残しています。
「羊飼いを撃て。羊の群れは散らされるがよい」
真のイスラエルの羊飼い、良い羊飼いであるイエス・キリストはこの後、文字通り撃たれるのです。鞭で、釘で、十字架へと打たれていきます。そして、主イエスの羊である弟子達は散り散りに逃げ去ることになります。ゼカリヤの預言は実現するのです。
「今、あなたたちは信じるのか」
このようにおっしゃるキリストはどのようなお気持ちだったのでしょうか。主イエスは弟子たちがご自分を見捨ててしまうことを既にご存知でした。それでも今この瞬、弟子たちが自分を信じてくれているということを喜ばれたのではないでしょうか。
私たちの信仰は頼りないものです。この時の弟子たちと同じです。「あなたのためなら命を捨てます」と心が燃えるような時もあれば、「私はイエスなど知らない」と言って逃げたくなる時もあります。
「今ははっきり強く信じている」と思っても次の瞬間にはどうなるかわかりません。明日も同じように熱い信仰を持ってイエス・キリストのことに従えているのかどうかわからないような、弱いものです。
「今あなたたちは信じているのか」
毎日毎日、すべての瞬間、イエス・キリストから直接そう言っていただけることができたら、私たちの信仰生活はどんなに豊かなものとなることでしょうか。しかし私たちは弱いのです。キリストを見捨てて逃げ出したあの弟子たちは私たちの姿なのです。
それでもイエス・キリストはその瞬間の信仰を喜んでくださいました。このことは私たちにとっても大切なキリストの喜びだと思います。それが私たちにとっての信仰の励みになるのではないでしょうか。
この一瞬の信仰、この日一日の信仰、それを大事に抱いて一歩一歩天の国に向けて歩むしかありません。そしてそこにイエスキリストの喜びがともなっているということを覚えたいと思うのです。
この後イエス・キリストは十字架と上げられていきます。その十字架への道行きの中に弟子たちの姿はありません。主イエスはすべての世の人たちから見捨てられました。しかし神の子イエス・キリストは決して孤独ではありませんでした。なぜならキリストの父である神が常に共にいらっしゃったからです。
キリストの十字架とは何でしょうか罪人の敗北した姿でしょうか。そうではありません。これがイエス・キリストのこの世に対する勝利の姿栄光の姿だったのです。これが父なる神の元へと戻って行かれるイエス・キリストの栄光のお姿だったのです。
「自分たちの先生が、この世から居らっしゃらなくなったらどうなるのか」。取り残される弟子達は、その不安を捨てることはできなかったでしょう。その弟子たちに主イエスがこの夜一貫して繰り返されたのは、「祈りなさい」、いう言葉でした。
主イエスと弟子達の間にあるつながりは消えません。祈りがあるからです。「私の名を通して神に祈りなさい」とおっしゃいました。「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。その言葉の通り、キリストこそが、神に至る道であり、神の真理を示し、神と共にある命をくださる方となってくださいます。
弟子達の祈り、また私たちの祈りは、イエス・キリストという道を通って神の元へと向かい、聞き届けられることになるのです。これこそイエス・キリストが弟子たちに残された最も大きな祝福でした。これこそが、キリストが私たちのために世に遺してくださった最も大きな宝でした。
キリストの名によって祈る。イエス・キリストのお名前を通して祈るということ。今、私たちはどこに向かって、どのように祈ればいいのかを知っています。それはキリストが命をかけて教えてくださった恵みなのです。キリスト者と神が祈りによってつながるといこと、これこそがイエス・キリストがご自身の宣教の業を通して作り上げられた道なのです。
弟子たちはこれから世において迫害があります。キリストははっきりそれをおっしゃいました。しかしその苦しみは、苦しみだけで終わるものではありません。キリストは信仰の苦しみを、「生みの苦しみ」とおっしゃっています。イエス・キリストに従うが故の苦しみがあります。
しかし私たちはキリストから「その苦しみの中で勇気を出しなさい」という言葉を与えられました。今、信じている弟子たちはこのあとすぐにつまずいてしまいます。しかし、それでいいのです。キリストは弟子たちがつまずくということをご存知でした。
だからこそ彼らには「世に勝る何か」が必要だったのです。「勇気を出すための何か」が必要だったのです。
その「何か」こそ、イエス・キリストご自身でした。
「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」
この言葉がその後の弟子たちの生涯を決定づけ支え続けるものとなりました。同じ励ましが、今も私たちに向かって与えられています。に世に勝っている方が、私たちと共にいてくださっています。世の苦難を、キリストと共に生きる私たちの姿が、次の信仰者への道を示すことになるのです。