11月16日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:1~9

イエス・キリストの、地上での最後の夜のお姿を追って福音書を読んでいます。キリストは弟子たちと過ごされる最後の夜、語るべき言葉をすべて語り、共に祈るべき言葉をすべて祈られました。私たちが今日読んだのは、告別の言葉と、執り成しの祈りが終わり、最後の夜の闇へと出ていかれたキリストのお姿です。ついに、イスカリオテのユダの手引きによって逮捕されることになります。

主イエスは弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出ていかれた」、とあります。そして、「そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」とあります。

一行は神殿のそばにある園・庭へと向かいました。そこは、主イエスと弟子たちがよく集まっていた場所でした。エルサレムに滞在している時には、弟子たちはその庭で主イエスと共に祈ったり、主イエスから教えを聞いたりしていたのでしょう。

当然、イスカリオテのユダもその場所を知っていました。「過越祭を目前に控えて、一行はいつものようにあの場所に、あの園に集まるに違いない」、と考え、ユダは、兵士と下役たちを案内しました。主イエスの一行の行動を先回りした、ユダの裏切りの場面です。

主イエスの一行が向かったのは、オリーブ山のゲツセマネと呼ばれていた場所でしょう。マタイ、マルコ、ルカの福音書には、そこで主イエスが苦しみ悶えて最後に神に祈られた様子が記録されています。

しかし、ヨハネ福音書では、「オリーブ山」とか「ゲツセマネ」という言葉がつかわれていません。おそらく、敢えて、ゲツセマネという言葉をつかっていないのでしょう。そうすることによって、他の三つの福音書とはあえて違うところに焦点を当てようとしているようです。

ヨハネ福音書は、主イエスの一行が「その途中、キドロンの谷を通って行かれた」と書いています。「ゲツセマネに向かって行かれた」ではなく、「キドロンの谷を通って行かれた」です。

ヨハネ福音書は、「ゲツセマネ」ではなく、この「キドロンの谷」という場所に私たち読者の目を向けさせようとしているようです。この夜の「キドロンの谷」には何があったのでしょうか。そこに、イエス・キリストの救いを象徴する何があったのでしょうか。

「キドロンの谷」は文字通り谷ですので、谷底には川が流れています。その流れはエルサレム神殿の脇を通っていました。そして過越祭を控えたこの夜、川の水は神殿で犠牲に使われた動物を洗うのに使われていました。過越祭の前の晩ですので、たくさんの生贄が捧げられていたでしょう。キリストがこの時渡られた川は、血で赤く染まっていたのではないでしょうか。

キリストは赤く血に染まった川の流れを超えていかれた、というその姿は、その先でキリストを待ち受けている流血を象徴的に表しています。まさに、死線を超えていかれるキリストのお姿がここにあるのです。この時の川の色は、キリストご自身の痛みであり、死を象徴していました。その流れを超えていかれるキリストの歩みは、キリストの覚悟そのものを現していたのです。

私たちが何より忘れてならないのは、キリストは、ご自分の歩みの先に何が待ち受けているのかをすべてご存じの上で、その川をご自分の意志で渡られた、ということです。

イエス・キリストは、ご自分に課せられた使命を知らず、運命に抗うこともできずに十字架に上げられた悲劇の英雄ではありません。本当は、逃げようと思えば、いつでも逃げられたのです。やめようと思えば、この夜の内に、やめることはできたのです。

しかし、キリストはご自分の意志で、羊のために命を投げ出す良い羊飼いとして、キドロンの谷を流れる、血で赤く染まった川の向こう側へとご自分の足を進めていかれました。

この「キドロンの谷の向こうへ行かれた」という一文に、キリストはご自分の計画をご自分の意志と力で進めていかれた、ということ、神の御計画にご自分の身を差し出された、ということを、見出したいと思うのです。

イスカリオテのユダに率いられた人たちがナザレのイエスを目指して逮捕しに来ました。「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやってきた」とあります。

「一隊の兵士たち」というのは、ローマ兵の部隊のことで、600人もしくは1000人規模の部隊のことを意味します。600人でも、1000人でも、一人の人間を逮捕するのには、十分な数です。十分どころか、大げさな人数です。

そして兵士たちと一緒にやってきた「下役たち」というのは、ファリサイ派と大祭司の指揮のもとにある神殿警備兵のことです。以前、この下役たちが、で主イエスを逮捕に来ようとしたことがあります。(7:32) しかし、その時、彼らは主イエスの教えを聞き、捕らえることができませんでした。「今まで、あの人のように話した人はいません」と彼らは上役に報告しました。そして今、またその下役たちが主イエスの逮捕のためにやってきました。

こうしてこのヨハネ福音書のキリスト逮捕の場面を見ると、この世の政治権力者・宗教権力者らが総力を挙げてイエス・キリストに向かって来たということがわかります。

ローマ兵が、反乱を企てる危険な人物を捕らえに来たというだけならまだわかります。しかし、これまで主イエスの御業を見て、主イエスの教えを聞いてきたユダヤの祭司や律法学者までが、未だに主イエスに神のお姿を見出すことができていないというのはどういうことなのでしょうか。

それほど、この世の闇は深かった、ということでしょう。キリストを逮捕しに来た彼らの姿は、ヨハネ福音書が書いている「この世」の罪を象徴しています。

彼らは、「松明やともし火や武器を手にしていた」と書かれています。過越祭は満月に行われるので、松明など本当は必要ないぐらい明るかったはずです。しかし彼らは、用心深く「明り」を持って来ました。

このことも象徴的です。自分たちの手に自分たちの明かりを持って、「世の光」であるイエス・キリストに向かっていったのです。それは、彼らの「自分たちこそが真の世の光である」という思いの象徴でもあるのです。

さて、1節に、主イエスと弟子たちが「園に入られた」、と書かれています。4つの福音書の中で、「園に入った」と書いているのはヨハネ福音書だけです。「イエス・キリストの逮捕は、園の中で起こった」、ということをヨハネ福音書はここで強調して私たちに見せようとしています。

園という言葉で思い出すのは、旧約聖書の創世記に記されている「エデンの園」です。エデンの園で、アダムとエバは蛇の誘惑によって神との関係を壊されました。誘惑が、園の中に入って働いていた、ということと、祈りの園にユダに率いられた人々が入って来た、ということに、私たちは変わらない罪の働きを見ることができるのではないでしょうか。

世の誘惑がキリスト教会に向かってくることの象徴として見ることもできるでしょう。つまり、ここに私たちの信仰の現実が描かれていると見ることができるのです。

ユダに率いられた兵士と下役たちがキリストを逮捕しにやって来たその姿に、私たちは、この世の誘惑にさらされるキリスト教会自身の姿を見るのです。

キリストは今ここで起こっていることをすべてご存じでした。その上で進み出て、「誰を探しているのか」とおっしゃいます。兵士たち・下役たちは「ナザレのイエスだ」と答えました。キリストはためらわず、「私である」とおっしゃいました。

6節を見ると、「私である」という言葉を聞いて、兵士たちは「後ずさりして、地に倒れた」、とあります。兵士たちは、「早速、捕らえる相手が見つかった」、と言って喜んだのではありません。彼らは、「私だ」とおっしゃるキリストに圧倒されて、倒れてしまったというのです。

彼らはなぜ倒れてしまったのでしょうか。これは、神のお名前に畏怖する人間の姿です。

ダニエル書10:9で、神の声を聞いた預言者ダニエルが、倒れてしまった、ということが記されています。

「その人の話す声が聞こえてきたが、私は聞きながら意識を失い、地に倒れた」と書かれています。倒れてしまったダニエルを、神が引き起こして、さらに言葉をお聞かせになったとあります。

ヨハネ黙示録でも、イエス・キリストの姿を見たヨハネが、倒れてしまう、という記述があります。

「私は、その方を見ると、その足元に倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。『恐れるな。私は最初のものにして最後のもの、また生きているものである』」

キリストは人間の支配に負けたのではありません。神の救いの御業を進めるために、進んで兵士たちに服従することで、ご自分の支配を貫かれています。ヨハネ福音書は主イエスがすべてをご存じでありすべてのことをご自分の支配の内に置かれていることを強調しています。

今何が起こっているのか、キリストはすべてご存じでした。キリストは一歩前に出て、その場を支配されます。「私である」というのは、英語で言えば、I amです。

出エジプト記で、モーセが神のお名前を尋ねた時、「私はある、あるという者だ」とお答えになりました。「私はある」という神のお名前を、キリストはここでおっしゃるのです。「私が、あなたたちが探しているナザレのイエスである」ということに加えて、「私が、神である」という意味も含まれているのです。

「私である」という言葉になぜ兵士たちはのけぞって倒れたのか。目の前にいらっしゃる方に神の子の栄光を、見て取ったからでしょう。

主イエスは、「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」とおっしゃいました。ほかの者たちには手を出さないように、ということです。

イエス・キリストは、祈りの中でおっしゃいました。

「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです」

確かに、主イエスは誰も失っていらっしゃいません。良い羊飼いとして、柵の内側にいる羊を守っていらっしゃいます。自分の意志で良い羊飼いの囲いから出て行ったユダだけが、「滅びの子」として、この後、自らの道を失ってしまうことになります。

ユダも、兵士たちも、大祭司の下役たちも、主イエスの囲いの中から羊を盗み出すことはできませんでした。主イエスは、ご自分につながる人を生かそうと身を挺して守り、導かれるのです。

今でも、教会には蛇の誘惑は襲ってきます。祈りの園における祈りを邪魔する力が働きます。しかし、キリストがおっしゃるように、良い羊飼いが、神の御名によって守ってくださっていることを覚えたいと思います。

命を懸けて、信仰者を守り導こうとするキリストのお姿を目に焼き付けたいと思います。