マルコ福音書12:35~37
「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(12:37)
主イエスがエルサレムに入られてから、祭司長、律法学者、長老といったユダヤの指導者たちが、律法に関する難しい議論を仕掛けて来ました。ガリラヤからやってきたイエスという律法の教師がエルサレムの人たちの注目を集めていたこと、そして神殿がまるで自分の家であるかのようにふるまっていたことに危機感を覚えたのです。
しかし、この人たちは聖書に関する議論を通してナザレのイエスを言い負かすことは出来ませんでした。それどころか、主イエスがファリサイ派やサドカイ派の人たちの議論に立派にお答えになり、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する、ということが律法である」とおっしゃったのを聞いて、「先生、あなたがおっしゃっている通りです」と主イエスに聞き従う律法学者まで出て来てしまいました。
もう質問して来る人がいなくなったので、主イエスはそのまま神殿の境内で教えを語られました。群集は喜んで主イエスの言葉に耳を傾けました。
主イエスは、その群衆に向かって、質問をなさいました
「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」
「聖書を見ると、ダビデ本人がメシアに向かって『主よ』と呼びかけている。『私の子よ』、ではなく、『私の主よ』と呼びかけている。それなら、なぜメシアは『ダビデの子』」なのか、という質問です。
律法学者だけでなく、この時代の人々は皆、「あのダビデ王のようなメシアが来る、メシアはダビデの再来である」と信じていました。聖書にそう預言されていたからです。
例えば、エゼキエル書にこういう預言があります。
「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。・・・私は彼らと平和の契約を結ぶ」。
このように、いろんな預言書の中に、「メシアが来る、再びダビデが来る」、という預言が残されていたのです。
そのことから、人々はやがて来るとされているメシアのことを、「ダビデの子」という称号で呼ぶようになり、メシアはダビデの再来として、自分たちを救いだしてくれる、と期待していました。
「なぜ律法学者たちは、メシアをダビデの子と呼んでいるのか」
この質問は、群衆にとって面食らうものだったと思います。
「律法学者がそう呼んでいるのだから、メシアはダビデの子なのだろう、ダビデの再来なのだろう」、人々はそう理解していたのではないでしょうか。しかし、主イエスはあえてそのことを人々に考えさせようとなさいました。当時の人たちにとって当然だったことを、根本から問い直されたのです。
主イエスは、エルサレムへの旅を始める際に、弟子達にも質問されています。
「人々は私のことを何者だと言っているか」
弟子達は、「皆、あなたのことを預言者だと言っています」と答えました。主イエスはさらに弟子達に問われます。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」
ペトロは弟子達を代表して答えた。「あなたは、メシアです」。
主イエスは、ここで同じことを人々に問いかけていらっしゃいます。
「律法学者を始めとして、あなたがたはメシアのことをダビデの子と呼んでいる。
あなたがたが期待しているダビデの子とは何者なのか。」
人々はダビデが成し遂げたことを自分たちの時代に成し遂げてくれるだろう、と期待していました。
ダビデはサウル王の後イスラエルの指導者になり、先頭に立って戦い、エルサレムをイスラエルの首都に定め、イスラエルを国として築き上げ人です。剣をもち、敵と戦い、イスラエルを導いた英雄でした。イスラエルの人たちにとってダビデという名前は、戦争に勝つ王様のイメージでした。
主イエスの時代の人たちは、「ダビデの子」、と聞くと、ローマ帝国を打ち破る英雄を思い浮かべたでしょう。主イエスの時代、人々はそのように、自分たちの先頭に立って軍を率い、外国の支配からイスラエルを救ってくれる指導者であるメシアを待っていたのです。
その人々の期待に対して、主イエスは、「あなたたちが考えているダビデの子は、本当にそのような、戦争を指導する救い主なのだろうか」と問われるのです。
人々は、「このイエスという人こそ、ダビデの子ではないか」という期待を抱いていました。エリコの町で、バルティマイという目の見えない人が、主イエスに向かって「ダビデの子」と叫び、その信仰に応えて主イエスがその人の目を癒されたのを見ました。
エルサレムに入る際には、ガリラヤからの群衆が主イエスを前後から「我らの父ダビデの鍛えるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ」と叫びました。
「この方こそダビデの子なのではないか」という強い期待をもって、群衆はこの方のおっしゃることに耳を傾けていたのだ。
確かに、主イエスはダビデの子、メシアでした。聖書はそのことを証ししているし、私達もこの方のことを、メシア、つまりキリストであると信じています。
しかし、大切なことは、「それでは主イエスはどのようなダビデの子・キリストなのか」、ということなのです。人々が期待していたように、軍馬に乗って軍隊を指揮し、敵を倒すメシア・ダビデなのでしょうか。
主イエスのお姿は、むしろ、逆でした。馬ではなく、子ロバにのってエルサレムに入られました。強く、威厳のある王としてではなく、柔和で謙遜で平和な王としてエルサレムに入って来られました。そもそも、主イエスは弟子達に、「私はエルサレムで殺されることになっている」とおっしゃっています。主イエスの使命は、人々を戦争へと駆り立て、その先頭に立つ、ということではなかったのです。
主イエスの弟子達への問い、また群衆への問いは、今、聖書を読んでいる私達への問いかけです。私達は、自分勝手な期待を、自分に都合のいい期待を主イエスに対して持っていないでしょうか。
「あなたがたは私にどのような救いを期待しているのか」と問われています。
もしイエス・キリストが、自分が欲しいもの・自分に都合のいいものをくださる救い主であれば、信じることは簡単でしょう。信じたらすぐにいいことがたくさん起こって、自分の人生に問題が何もなくなる、というのであれば、誰でもキリストをすぐに信じるでしょう。
しかし、イエス・キリストを信じて従う・信じて従い続ける、ということは、そんなに簡単なことではありません。キリストに従う、ということは、ご利益がたくさんもらえる、ということではないのです。「私に従う者は自分の十字架を背負って私に従いなさい」と主はおっしゃいました。キリストに従うということは、キリストの十字架の御業に加わる、ということなのです。
私達は本当に主イエスがもたらしてくださった救いを正しく見据えることが出来ているでしょうか。そもそも聖書には、ダビデの子について、どのように預言されているでしょうか。
エゼキエル書34章で、神はこうおっしゃっている。
「見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散り散りになっている時に、その群れを探すように。私は自分の羊を探す。」
預言者エゼキエルが預言した「メシア・ダビデの子」は、イスラエルの牧者・羊飼いとしてのダビデでした。馬にまたがり、剣で敵を倒す強い戦士としてのダビデではなく、少年時代の羊飼いだったダビデの再来だと言っているのです。
イエス・キリストは、この数日後に、十字架に上げられます。人々は、自分たちが「ダビデの子・メシア」であると期待を抱いた人が十字架で殺されるのを見ることになります。
人々は、主イエスが十字架で殺された後、「なぜ律法学者はメシアをダビデの子と呼ぶのか」という言葉を思い出して考え込んだのではないでしょうか。
「自分たちがダビデの子であると期待したイエスという人は、自分たちが期待したダビデの子ではなかった。ローマに向かって反乱軍を立ち上げるどころか、子羊のように無抵抗に殺されてしまった」と思い、主イエスに、ローマへの反乱軍の指導者になることを期待した人たちは「ナザレのイエスはダビデの子ではなかった、メシアではなかった」と言ってがっかりしたでしょう。
しかし聖書は、あの十字架にかかられたイエス・キリストのお姿こそ、羊飼いとしてのダビデの子のお姿であることを証ししています。キリストは神から離れていた私達に、ご自身の十字架をもって神の元へと通じる道を切り開いてくださいました。
主イエスはエルサレムに入られる前に、弟子達におっしゃった。「私は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」自分の命を捨てることがなぜ人々のための救いになるのか、その時の弟子達にはわかりませんでした。
しかし、やがて、弟子達は主イエスの十字架の死の意味を悟り、人々に伝えて行くことになります。イスラエルの牧者・羊飼いは、散り散りになった羊をご自分の下に取り戻すために十字架にかかられたのです。全ての罪人の罪を代わりに背負って。
改めて考えたいと思います。私達にとって「救い」とは何でしょうか。羊飼いから離れた羊にとっての救いとは、羊飼いに見つけてもらうことです。
ヨハネ福音書に、主イエスのこういう言葉がある。
「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は、命を、再び受けるために、捨てる。」
キリストが我々にもたらしてくださった救いとは、私達を神の元へと連れ戻す、ということでした。この人生の中で神を知る、ということが、私達にとっての救いです。
私達は、神を見失った羊のために命を捨ててくださった方をダビデの子・イスラエルの牧者・羊飼い・キリストと呼んでいます。この方は、私達に再び神と共に生きる道をお示しくださいました。真の羊飼いとしてのダビデの子に、従って命の最後まで神の元へと立ち返っていくこと、これが、信仰者が歩む道なのです。