マルコ福音書12:38~44
「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(12:40)
主イエスが神殿の境内で群衆に向かって二つのことをおっしゃいました。一つは「なぜ律法学者たちは、メシアのことをダビデの子と呼んでいるのか」という質問です。もう一つは、「律法学者たちの偽善に気をつけなさい」という警告です。
今日私達は、主イエスの律法学者たちの偽善に対する警告の言葉と、実際にそのことによって苦しむ一人のやもめの姿を見ました。律法学者たちは、自分たちでは「自分は正しく律法を実践している」と考えていました。しかしイエス・キリストの目には、そうは映っていませんでした。
信仰者が、信仰の実践の中で陥る落とし穴がここに潜んでいます。律法学者たちの偽善の姿、また神殿でのやもめの姿から学んでいきたいと思います。
律法学者たちの誤った信仰の実践について主イエスは具体的にこうおっしゃっています。
「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場であいさつされること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」
もちろん、当時の律法学者が全員そうだった、というわけではないでしょう。律法学者の中にも主イエスの教えを聞いて、「先生、その通りです」と教えを受け入れた人もいました。
しかし、当時は主イエスがおっしゃったような律法学者が多くいたのでしょう。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と主はおっしゃいます。
私達は福音書を読んでいると、律法学者というのは、悪い人たち・悪意をもった人たちだ、という印象をもってしまいがちです。
しかし、実際はそうではありません。誰かを苦しめようと意図的に悪い行いをしていたわけではありません。誠実に聖書を研究し、神の御心に沿う生き方を真剣に実践しようとしていた人たちです。
しかし、この主イエスの言葉を見ると、多くの律法学者は、自分が神の目にどう映っているか、ということよりも、自分が人の目にどう映っているか、ということに心が向いてしまっていたようです。
自分を大きく見せることに心を奪われてしまい、無意識のうちに偽善がはびこって来て、弱い人たちの姿が目に入らなくなってしまう・・・これが、信仰者が陥る落とし穴ではないでしょうか。
この主イエスの言葉は、信仰者に向けられた、信仰の在り方に対する問いでもあるのです。「あなたの信仰は、どうなのか、人に見せるための信仰になっていないか、弱い者に心は向いているか、見せかけの祈りになっていないか。」
主イエスは、エルサレムに入られる前、誰が神の国に入るのか、ということを弟子達にお教えになった際に、こうおっしゃっています。「先の者が後になり、後の者が先になる」。
エルサレムへの旅の中で弟子達の関心は「誰が一番偉いのだろうか」ということでした。エルサレムに入る直前には、ヤコブとヨハネが抜け駆けして主イエスに「私達二人だけを優遇してください」と願い出たりしました。
そのような弟子達に、主イエスは「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたいものは、全ての人の僕になりなさい」とおっしゃいました。
なぜ主イエスはご自分の弟子達に「全ての人の僕になりなさい」とおっしゃったのでしょうか。イエス・キリストご自身が、「全ての人の僕」として来られたからからです。
キリストの弟子として生きる、ということは、キリストのように生きる、ということです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」
主イエスの命は、身代金だとご自身でおっしゃいました。そのキリストの弟子達である、ということは、神の御心に従い、神に仕え、人のために命をつかう生き方をしていく、ということなのです。
主イエスは、「神を愛し、隣人を愛する」ということが律法だ、とお教えになりました。神が律法を通してお求めになっているのは、そのことなのです。
律法学者たちの姿は、主イエスの目には律法からかけ離れたものとして映りました。律法学者たちは、主イエスの言葉で言うなら、「先の者」だったはずです。ユダヤ人社会の中で、人々の先頭に立って、律法について聖書についての教えを説き、実践していた人たちでした。しかし、彼らはいつの間にか神の国から遠い生き方をする「後の人」になってしまっていたのです。
長い衣をまとうこと、人から挨拶されること、上席・上座に座ること、長い祈りをすること・・・神に喜んでいただくためではなく、人々から注目と尊敬を集めるための律法になってしまっていたようです。
律法を求めながらも律法から外れてしまったことで、どんな問題が起こっていたのでしょうか。この後、神殿で献金をする一人のやもめが出てきます。
主イエスは、群衆にお語りになった後、賽銭箱に群衆がお金を入れる様子を見ていらっしゃいました。そこは、神殿の中でも「女性の庭」と呼ばれる、たくさんの人が行きかう場所で、13個の賽銭箱が並べられていたそうです。
そこでは「大勢の金持ちがたくさんお金を入れていた」とあります。この賽銭箱にお金を投げ入れる姿は、他の人からも見られることになります。たくさんの献金をする人ほど、注目を浴びるのです。
そのような中で、誰にも注目されない一人の貧しいやもめが献金しようとやって来ました。この人は、レプトン銅貨二枚、本当にわずかな捧げものをしました。ただ彼女は神を愛し、自分が持っているものを心を込めて捧げたのです。この人は、全財産を神殿に献金しました。
主イエスはその姿をご覧になって、弟子達を呼んで「あの女性の姿を見なさい」とおっしゃいました。主イエスがご自分の弟子達に見てほしいと願われたのは、多額の献金をする大勢の金持ちではなく、乏しい中から自分の持っている物・生活費を全部入れたこの女性でした。神のため、隣人のために、ささやかに生きる小さな人でした。
主イエスは「あの女性は誰よりも多く捧げた」とおっしゃいました。「先の者か後の者か」ということでは、この女性は、この世では「一番後の者」でした。しかし、このわずかな捧げものをした女性こそ神の国に最も近い人、「一番先の者」だと主イエスはおっしゃいます。この人こそ、天に宝を摘む人だったのです。主イエスが弟子達に見てほしいと願われたのは、この女性でした。
私達は、間違えてはならないと思います。イエス・キリストは、この女性をご覧になって、「立派な信仰だ」と喜んでいらっしゃるのではないのです。むしろ、お怒りになっていらっしゃいます。
この女性は、全財産を献金しました。つまり、破産した、ということです。わずか銅貨二枚の献金によって。
律法にはこう記されています。
「寡婦や孤児は全て苦しめてならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く」
弱い者を守れ、と律法は言っています。しかし、この弱く貧しい女性は、律法学者たちから見向きもされていのです。神の家・神殿で、破産しました。しかし、誰もそれに気づいていません。
わずか銅貨二枚を神殿に捧げたことで、この女性はもう食べるものも買うことが出来なくなりました。本当は律法学者が、このような弱く貧しいやもめを守らなければならないということを一番知っているはずの人たちです。その女性の周りには、誰もその苦しみに手を差し伸べる人はいませんでした。
40節で主イエスは律法学者たちは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とおっしゃっています。この女性の献金の姿に、そのことが現れています。
主イエスが弟子達に「あの女性を見なさい」とおっしゃったのは、「美しい信仰の姿ではないか。あの人を見習いなさい」と言いたかったのではありません。「神殿で、守られなければならない人が守られていない。律法学者たちが律法が求めていることから目を背けている。これで神殿と言えるだろうか」と、弟子達にお見せになるためです。神殿が、祈りの家としての姿を失ってしまっているその有様を弟子達に「見ておきなさい」とおっしゃったのです。
主イエスがエルサレムに入り、神殿に入られてからここまでご覧になったのは、神殿が神殿でなくなっている、という事実でした。弱い女性が神殿で破産するということが起こっている、それこそ、神殿が強盗の巣になっている、ということではないでしょうか。主イエスがエルサレム神殿に入られてから感じてこられた怒り・悲しみは、このやもめの献金をご覧になった時、頂点に達しました。
神殿が神の神殿でなくなる、ということは恐ろしいことです。これは、私達で言えば、キリスト教会が、キリストの体でなくなる、ということです。
私達は、「当時の律法学者たちは冷たい人たちだったのか」、と思って、終わらせてはいけません。祈りの家であるはずの神殿が、強盗の巣になっていた、ということを他人事のように見てはいけないのです。
このことは、主イエスの時代の律法学者だけの話ではないでしょう。この問題はキリスト教会の問題でもあるのです。
新約聖書のヤコブの手紙2章に、こういうことが書かれています。
「私達の主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなた方の集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入ってき、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を止めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたはそこに立っているか、私の足元に座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」
こういう手紙が残っている、ということは、実際に、教会の中でもこういうことが起こっていた、ということです。自分が高くみられることを好み、誰かが低くみられることには心を向けない、ということは、後のキリスト教会の中でも起こっていたのです。
そうして考えると、主イエスの律法学者たちに対する批判は、今の私達の信仰に対しても厳しく迫って来るのではないでしょうか。
私達の教会は本当に今も、「血の通った」キリストの体として生きているでしょうか。教会が祈りの家ではなく強盗の巣になってはいないでしょうか。
主イエスは、エルサレム神殿に律法を見出されませんでした。神の恵み、神の平和を見出されませんでした。教会に律法がなくなり、人の目ばかりを気にする偽善的な信仰がはびこると、キリストはお怒りになり、悲しまれるのです。
私達は、キリストの目に自分の姿がどう映っているか、ということを祈りの中で問い直していきたいと思います。人の目以上に恐れるべきものを忘れてはならないのです。