10月3日の説教要旨

マルコによる福音書13:24~31

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、揺り動かされる。」(13:24)

謎めいたイエス・キリストの言葉です。

太陽や月や星の光がなくなり、天体が揺り動かされる、ということが起こり、その後、「人の子」という存在が来て、世界中から人々を集める、ということが言われています。この言葉だけを見ても、キリストが何を弟子達にお伝えになっているのか、よくわからないのではないでしょうか。

主イエスは一体何を弟子達にお伝えになっているのか、そして、謎めいたこの言葉は、今を生きる私達にとってどのような意味があるのか、考えて見ていきましょう。

「神殿が崩れる、というのはいつ起こるのですか」と尋ねて来た弟子達に、ここまで主イエスは、その時の様子を語って来られました。

「メシアや預言者を名乗る人たちが大勢現れ、人々を惑わすだろう・・・キリストを信じる弟子達・信仰者たちは、ユダヤでもユダヤの外でもイエス・キリストの福音を宣べ伝える中で試練が与えられるだろう・・・エルサレム神殿が破壊される時には、なんとしてでも生き延びなさい」ということをお伝えになりました。

今日私達が見たのは、その後の言葉です。「それらの日には、このような苦難の後・・・」という言葉が続きます。

「このような苦難」というのは、エルサレム神殿の崩壊と、それに伴う様々な苦難のことです。

つまり、主イエスはエルサレム神殿が崩れた後のことをここでお話しなさっているのです。

神殿崩壊という苦難の後には「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」だろう・・・。

文字通りに受け取ると、世界の秩序が全て崩れて、世界がなくなってしまうようなことをおっしゃっているように聞こえます。

一体これは何のことなのでしょうか。エルサレム神殿崩壊の後に、「天体が揺り動かされる」、とはどういうことなのでしょうか。

「天体が揺り動かされる」という不思議な表現は、イザヤ書13:10の預言からの引用です。

太陽や月や星が消えてなくなる、と聞くと何だかこの世界が全て壊れてしまうような恐ろしい響きを感じる言葉ですが、元のイザヤ書では、エルサレムを占領し支配していたバビロンという国の滅びを、「天体が揺り動かされる」という言葉で表現しているのです。

つまりこれは、敵の滅びと、抑圧からの解放のことなのです。

元のイザヤ預言の言葉を踏まえて、イエス・キリストがここでおっしゃっている言葉を読むと、「太陽や月や星がなくなって天体が揺り動かされる」、というのは、エルサレム神殿を破壊するローマも、その後にはやがて力を失うということが示されているのです。

主イエスは続けて「天体の光が消え」た更にその先を預言されます。

いろんな苦難の後に、「人の子」が来て天使を遣わし、世界中から全ての人を自分の下へと集めるだろうとおっしゃいます。

「人の子が大いなる力と栄光をおびて雲に乗って来るのを、人々は見る」

「人の子」というのはダニエル書に出てくる、神から全世界を治める権威を託された存在のことです。主イエスはこれまでずっとご自分のことを「人の子」と呼んでこられました。

つまり、イエス・キリストの下に全世界の全ての人々が招かれ、集められ、一つになるだろう、という希望の預言なのです。

このことは、旧約の預言者イザヤも既に預言していました。

「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もうと』」

人種や民族を超えて、全ての人が、天地を創造された真の神を知り、同じ神を求めて一つになる時が来るだろう、とイザヤは預言しています。

世界中の人たちが、互いに誘い合って、イスラエルの神を求めるようになる、というのです。

イザヤはこうも言っている。

「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する」

イザヤの時代、このイザヤの言葉を聞いた人たちは馬鹿にして笑ったのではないでしょうか。いつ自分たちがエジプトに滅ぼされるか、アッシリアに占領されるかわからないのに、エジプトやアッシリアがイスラエルの神を一緒に信じ、自分たちと一緒に礼拝する日が来る、などと預言者は言うのです。

イスラエルはエジプトとアッシリアという大きな国に挟まれた小さな国でした。エジプトとアッシリアという強大に挟まれてどうやって生き残るか、ということをいつも考えていなければなりませんでした。

イスラエルとエジプトとアッシリアの全ての人が、一緒に礼拝する日が来る、などということは非現実的なのです。

しかし、この時のイザヤの預言は、イエス・キリストという人の子・メシアによって実現することになります。

私達が今日読んだイエス・キリストの言葉は、まるで世界が滅びるような恐ろしい響きをもった言葉に聞こえるかもしれません。

しかしそれは絶望的な言葉ではなく、堕落したエルサレム神殿が崩れた後に、全ての人がイエス・キリストの下に集められていく希望の預言であることがわかります。

この主イエスの言葉を聞いた弟子達は、どう思ったでしょうか。「それはいつ起こるのだろうか」と考えたでしょう。主イエスは、「イチジクの枝が柔らかくなり葉が伸びると、夏が近づいたことがわかるのと同じだ」とおっしゃいました。春の次に夏が来るように、イエス・キリストの下に世界の全ての人が一つになる時へと、時間は自然に流れている、ということです。

この主イエスと弟子達との会話から40年後にエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。多くの人たちは、エルサレム陥落を、この世の終わりと捉えたでしょう。

しかし、主イエスの言葉を前もって聞かされ信じていたキリスト者たちは、神殿が破壊されても終わりではないことを知っていました。それは新しい時代の始まりであり、人の子・イエス・キリストの支配の始まりである、という希望を捨てずにキリストの福音を宣べ伝え続けたのです。

神のご計画は、私達人間にはかり知ることは出来ません。この地上で起こる様々な出来事・・・戦争や飢餓や地震といった苦難の時には、私達の目に希望は見えません。神の姿を見いだせず、神に見捨てられたのではないか、と絶望します。

しかし、そのような混沌の中にある人間の営みの中でも、神が全ての人をご自分の下へと招かれる救いのご計画は進んでいるのです。

イザヤは、主イエスの時代よりもはるか以前に、そのことを預言していました。

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、空しくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」

神の思いは、人間の思いとは異なり、神のご計画は人間の思いを高く超えている、と言われています。雨が降ればそれは大地を潤すように、神の言葉が世に与えられれば、それはこの世で必ず使命を果たす、と言われています。

イザヤが預言した「神の言葉」こそ、イエス・キリストでした。キリストがおっしゃることは、我々人間の思いを超えています。何をおっしゃっているのか、我々にはわからないことも多いのです。しかし、イエス・キリストという神の言葉は、この世で必ずその使命を果たされました。その使命とは、全ての人を神の元へと招く、ということです。

神はイザヤを通しておっしゃいました。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」

「耳を傾けて聞き、私の下に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」

魂に渇きを覚える我々は、神の元に行くのです。そして潤していただくのだ。

キリストを通して神の言葉を聞き、魂に命を頂くのです。「もう終わりではないか」、と思える中にあっても、神は救いの時へと世界を導いてくださっています。

希望を持ち続けて生きましょう。