10月17日の説教要旨

マルコ福音書14:1~9

「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(14:9)

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」と、主イエスは弟子達・信仰者に向かってご自分の再臨の時があることをお示しになりました。そしてその日に弟子達に伝えるべきことをすべてお伝えになったので、宿をとっていたベタニア村へと戻られました。

今日私たちが読んだところには、「過越祭と除酵祭の二日前になった」、とあります。主イエスは金曜日に十字架に上げられることになるので、「二日前になった」ということは、十字架はあと二日というところまで迫っている、ということです。

主イエスが十字架を前にした差し迫った時をどのように過ごされたのか、しっかりと見ていきましょう。

「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた」、とあります。しかし、この人たちは、主イエスの言葉に喜んで耳を傾けていた民衆が騒ぎ出すことを恐れてもいました。

ある人達の殺意が主イエスに向けられていて、何かの小さなきっかけ・小さな口実さえあれば、その人たちは主イエスを殺すための手順をすぐに踏めるように備えていました。

キリストはもちろん、ご自分を殺そうとしている人たちが近くにいることをご存じでした。エルサレムへの旅の初めから、「私はエルサレムで殺されることになっている」と弟子達におっしゃって来たのです。主イエスにとって旅の目的地はエルサレムであり、もっと言えば、エルサレムのゴルゴタの丘の十字架でした。

主イエスはそれでも、エルサレムから逃げることなく、静かに、ご自分の十字架の死の時を迎えようとなさっています。イザヤが預言した「苦難の僕」として、「屠られる生贄の子羊」として、ご自分を殺そうとする人たちの前でじっと屠られる時を待っていらっしゃいます。

その日、主イエスはベタニアという村のシモンという人の家にいらっしゃいました。このシモンという人は、「重い皮膚病」だった、と記されています。律法の規定では、「重い皮膚病」には接触してはいけないとされていました。「重い皮膚病」の人の家に、このように人々が集まる、ということは聖書に照らし合わせると考えられないことでした。

恐らく、主イエスがシモンという人の皮膚病を癒されたのでしょう。そしてその癒しの業をシモン自身とその家族が喜んで、このもてなしの食事の席を設けていた、と考えるのが自然です。ここには書かれていませんが、皆、主イエスを囲んで、喜びに満ちた雰囲気の食卓だったと思います。

そのような和やかな食卓で、人々が驚くようなことが起こりました。突然一人の女性がナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけたのです。この人がなぜ突然そんなことをしたのか、聖書には何も書かれていません。

この女性はシモンの家族で、シモンの皮膚病を癒してくださったこのイエスという方に感謝の意を表そうとしてこのようなことをしたのかもしれません。しかし、それだけでは説明がつかないでしょう。主イエスに感謝を表すだけなら、頭に香油を数滴たらせば十分だったはずです。しかしこの女性は、壺を割って、高価なナルドの香油を全て注ぎかけました。

人々は、女性がしたことの意味が分からず、彼女を非難しました。「なぜこんなに香油を無駄遣いしたのか。300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」

デナリオンというのは、日給の単位です。300デナリオンというのは、300日分の日給ということなので、当時の人々の年収に値するほど高価なものでした。

香油のツボを壊して、誰か一人にそれを全て注ぐ、ということはとんでもない無駄に思った人たちはすぐに女性に抗議しました。高価な香油は、もっとほかに有効な使い道があったはずだ、と。一気に全部使わなくても、たくさんの貧しい人たちのために使うことだってできたのに、そっちの方がいい使い方ではないか、と言いました。

これは正論だと思います。この時人々がいたのは、重い皮膚病の人シモンの家でした。女性に抗議した人たちは、病の人、貧しい人たちの苦しみをよく知っていた人たちだったでしょう。主イエスご自身、金持ちの若者がご自分に従おうとしてやってきたとき、「持ち物を売り払って貧しい人たちに施しなさい」とおっしゃったこともあります。

しかし、この時主イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか」とおっしゃいました。主イエスがもう貧しい人々のことをなんとも思わなくなってしまわれた、ということなのでしょうか。

主は続けてこうおっしゃいます「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」「この人は私の葬りの準備をしてくれた」。そして、イエス・キリストの福音が語られるところでは、このナルドの香油の注ぎも語られることになる、ともおっしゃいました。

この女性がしたことは、明らかに非常識な行為です。しかし主イエスは、その女性がしたことは、神の救いの大きなご計画の中の一部であり、この女性がしたことは、神の時と業に適っていることを示されました。この女性は、高価なナルドの香油を、使うべき時に、最も適切な使い方をしたのです。

この女性がナルドの香油をすべて注いだ、ということは、彼女のイエス・キリストの思い・信仰をすべて注いだ、ということです。周りの人たちにとって、300デナリオン以上の価値のある香油を一度に使ってしまう、ということは無駄遣いでした。しかし、この時は、そうすべき時だったのです。

それはメシアがご自分の命を差し出して、世の全ての罪の暗闇から救いだされる時でした。メシアが全ての人から見捨てられ、一人で十字架に向き合われようとする時でした。

この時に最もふさわしい香油の使い道とは何だったのか・・・それは、メシアの葬りを準備をする、ということでした。

旧約聖書のコヘレトの言葉の中に、こういう言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・・求める時、失う時、保つ時、放つ時」

シモンの家で、この女性は、高価なナルドの香油を手放しました。この人は「キリストを求める時・香油を捧げ手放す時」を逃さなかったのです。

聖書は、この女性について詳しいことを書いていません。私達がこの女性に関してここで見ておきたいのは、この女性は時に適うことをした、ということです。信仰の時を逃さなかった、ということです。

主イエスが弟子達に「目を覚ましていなさい」とおっしゃったそのすぐあとで、この女性が香油を主イエスに注ぎました。私たちは、この女性の信仰の姿に、「目を覚ましている、ということがどういうことなのか」ということを見ることができるのではないでしょうか。

この香油の注ぎはイエス・キリストの死についても私達に教えてくれます。キリストの死は、ただ恐怖と絶望で終わる暗いものではなかったのです。良い香りのする、贅沢に油を注がれた祝福された死でした。

「祝福された死」というのは、奇妙な響きです。主イエスが殺され、埋葬される、ということが私達にとって喜ばしい知らせ・福音である、ということは奇妙なことです。しかし、それが、イエス・キリストの死の意味なのです。

それはイザヤ書の預言そのものです。「彼の受けた懲らしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。」

なぜこの方が懲らしめられ、傷つけられることによって、私達に平和が与えられ、癒されるのでしょうか。そこには、逆説に満ちた、説明のつかない恵みがあります。この何の罪もない方が、世界の全ての罪を背負って死んでくださったのです。だから、この方の死は、私達にとって祝福であり、喜びなのです。

この方が殺されたことを、後に世界は自分に与えられた喜びとして延べ伝えていくことになります。この女性がしたことも。

この時キリストに注がれたナルドの香油の香りは、今でも消えていません。私達自身が今世に向かって放つキリストの香りです。

パウロがコリント教会にこう書いています。

「神は、私達をいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私達を通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどるものにとっても、滅びの道をたどるものにとっても、私達はキリストによって神に捧げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」

私達は、キリストの香りを放つ者として生きているのです。イエス・キリストがこの私のために死んでくださったということを知って生きる、それが、キリストの香りを世に向かって放つ、ということです。その香りは、やがてこの世を包むことになります。

信仰者は、いつでもこの世の価値観と、キリストがお示しくださった天の価値観の間に挟まれています。そして、この世の価値の方にばかり目が行ってしまいます。

シモンの家での出来事を見ても、ナルドの香油は一年分の労働に等しい価値がある、ということに目が行くのは当然でしょう。しかし、忘れてはならないのは、地上の価値に勝る天の宝を私達はキリストの命を通していただいている、ということです。

キリストの死という何物にも代えられない宝を、大切に抱いて、神の国を目指してキリストに救われた命を歩んでいきましょう。