マルコ福音書14:27~31
「イエスは弟子達に言われた。『あなたがたは皆、私につまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』」
弟子達にとって、イエス・キリストと囲んだ「過ぎ越しの食卓」は大きな衝撃でした。主イエスから「あなたがたの中の一人が私を裏切ろうとしている」と聞かされた。
過越しの食卓に座を連ね、出エジプトの恵みに思い浸っていた弟子達は衝撃を受けました。考えられないことでした。過越の食卓が一気に緊迫したものになります。
弟子達は「誰だろうか」と皆考えました。その弟子達に追い打ちをかけるように、主イエスは葡萄酒を配り、「これは私の体、私の血だ」と、ご自分に死が差し迫っていることを示されました。
主イエスと弟子達は、この過越しの食卓から、オリーブ山へと出ていきました。
オリーブ山まで歩く間、弟子達は、主イエスが食卓でおっしゃったことを頭の中で反芻していたでしょう。
「12人の中で裏切るのは一体誰なのか」
「食卓で手渡されたパンと葡萄酒が主イエスの体であり血であるとはどういうことか」
オリーブ山に着いた時、弟子達は主イエスからさらに衝撃的なことを聞かされます。弟子の一人が裏切ろうとしているだけではなく、「あなたがたはこれから私を見捨てて逃げる」とおっしゃったのです。
あまりのことに、もう黙ってはいられなくなりました。ペトロは皆を代表して答えます。
「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」
弟子達は皆、ペトロと同じ気持ちでした。当然自分は先生と一緒に最後までいるつもりだ、自分が途中で先生を見捨てて離れてしまうなどということはない、と全員が意思表示しました。
しかし、そのペトロの言葉に対して主イエスは「よく言ってくれた、私は嬉しい」とはおっしゃいませんでした。それどころか、「あなたは今日、今夜、鶏が二度なく前に、三度私のことを知らないというだろう」と予告されます。
戸惑う弟子達と比べて、弟子達に見捨てられた後にご自分の死が待ち受けているはずの主イエスの心は静かでした。
ここで主イエスはとても大切なことをおっしゃっている。
「私は復活したのち、あなた方より先にガリラヤへ行く」
ご自分に迫っている死の向こう側に、ご自分の復活を見据えていらっしゃいます。そしてエルサレムでの十字架の向こうにある、ガリラヤへの勝利の帰還、ガリラヤでの再会を弟子達に約束なさっています。
しかし、心乱れた弟子達はこの希望の言葉が耳に入っていません。「君たちは私を置いて逃げ去ってしまうだろう」という言葉に驚いて、主イエスがご自分の復活と、招きのことをおっしゃっているのに、本当に聞くべき言葉を聴けていないのです。
この夜の弟子達の姿に、私たちは人間の弱さ、私たち自身がもっている信仰の弱さを見ます。心乱れて、聞くべき言葉を聞くことができない信仰者の姿です。
死を超えたところでのイエス・キリストとの再会という恵みが示されたのに、誰も聞くことができません。自分たちの前にある不安で心がいっぱいになり、これから自分たちを襲う躓きの恐れでキリストの言葉が聞けていません。自分だけに心が向いてしまっているのです。
これまで弟子達は主イエスの力ある御業を見、力ある言葉を聞いて、絶対の安心感を持っていました。しかし、「私はエルサレムで殺されることになっている」という主イエスから何度も聞かされて、不安になってきます。「これは、多くの人の耐えに流される私の血だ」という言葉を聞き、心が不安でいっぱいになってしまいます。そして夜の闇の中で、「君たちは私を見捨てるだろう」と言われて、聞くべき言葉が聞こえなくなったのです。
「そんなことは絶対にない」と言い切ったペトロは健気です。しかし、本当に今夜、舌の乾かないうちにペトロは「私はイエスという人など知らない」と言ってしまうことになります。そして、主イエスに言われたことを思い出して泣き崩れてしまうのです。
他の弟子達も、「あなたを見捨てることなど絶対にない」と言ったのに、この後すぐ、主イエスを置き去りにして皆逃げ去ってしまいます。
私達の中で誰がペトロを笑えるでしょうか。誰が、弟子達のことを非難できるでしょうか。弟子達は自分たちの主イエスに対する忠誠は変わらない、と思っていました。しかし、それは、弟子達が主イエスへの信仰を本当に試されたことはなかったからです。信仰の試練が与えられたとき、我々人間はもろいのです。
順調な時はいいでしょう。「神に導かれている、キリストに守られている」と素直に喜んで感謝することが出来ます。しかし、少しでも逆境になると、私達の信仰はすぐに揺らぎます。
私たちはここで、安易に弟子達の信仰のもろさを笑うことはできません。
この弱い弟子達こそ、私達信仰者が皆持っている弱さの現れなのです。
さて、驚き混乱する弟子達を前にして、主イエスは静かでした。主イエスは、この後ご自分にどんなことが起こるのかをご存じでした。それはすでに預言書に描かれていて、全て神のご計画の内にあることをご存じだったからです。
預言者ゼカリアの言葉を引用してこうおっしゃいました。
「『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」
ゼカリアは、ダビデの子メシアがロバに乗ってエルサレムに入場することや、メシアがエルサレムに来る時には神殿の境内から商人たちが追い出されることも預言していました。
そしてゼカリアは、メシアがエルサレムで見捨てられる、ということも預言していました。「羊飼いが打たれる時、羊たちが逃げ去る」、それは、イエス・キリストが十字架に上げられる時、弟子達が逃げ去る、という預言だったのです。
私達がここで本当に目を向けなければならないのは、その弱い弟子達にキリストが希望を残された、ということなのです。キリストは弟子達がご自分を見捨ててしまうことをご存じの上で、「私はガリラヤで君たちが戻ってくるのを待っている」と許しの言葉をこの時点でお与えになったのです。
ルカによる福音書の、同じ個所を見ると、主イエスはペトロにこうおっしゃっている。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」
私たちが信仰生活の中で躓くかどうか、ということが重要なのではありません。私たちはつまずくのです。何度も。
大事なことは、それでもキリストは私たちのために執り成しの祈りをしてくださり、私達をあきらめずに、待ち続けてくださる、ということなのです。私たちがキリストに背を向けても、キリストが私たちに背をお向けになることはありません。
キリストは私たちの背中に向かって、何度でも「戻ってきなさい」と言ってくださいます。弟子達に、「故郷で会おう」、とおっしゃったように、私たちにも「私はあなたを待っている」と言ってくださるのです。人生のどの時点においても、です。
私たちはなぜ主イエスに従うのでしょうか。どんなことがあってもキリストに従うことが出来るほど、確固とした、揺らがない信仰心があるからでしょうか。そうではありません。「主よ、なぜですか、なぜこんな苦しみが私を襲うのですか」と祈りながら、その先で受け止めてくださるキリストの姿を見出して、なんとか進んで行くのです。
イエス・キリストはご自分の復活をここで預言されました。それは同時に、弟子達への罪の許しの預言でもあるのです。
主イエスは、弟子達の躓き・裏切りで全てが終わってしまうのではない、ということを示された。キリストを見捨てたから、自分の信仰はそこで終わりだ、神と共に生きる命はもう終わりだ、と思う必要はないことを示されました。
キリストは前もって弟子達にご自分の死と弟子達の躓きを予告されました。その中で弟子達に伝えようとなさったのは、ご自分の死の向こうには復活があり、罪の許しと、キリストとの再会が待っている、という希望だったのです。
オリーブ山はキドロンの谷を挟んで、エルサレムの都の反対側にある山です。主イエスが宿泊なさっていたベタニア村は、オリーブ山のさらに向こう側にあります。このまままっすぐ歩いて、宿泊なさっていたベタニア村へと向かわれるのか、というとそうではありませんでした。
オリーブ山の中にあるゲツセマネという場所へと主イエスは向かわれています。オリーブの実から油を搾る場所としてつかわれていたところです。そこで、この後祈りの時を持たれます。
もしこの時、主イエスがゲツセマネで祈らずに、素通りしてそのままベタニア村の宿へと戻って行かれていたら、逮捕されることも、十字架にかけられることもありませんでした。
主イエスは、全てをご存じで、ゲツセマネの祈りの時を持たれることになります。神の救いの御心のためにご自分を差し出しました。御心に従い貫くために、主イエスはゲツセマネで祈り続けられました。これからご自分を見捨てて逃げる弟子達のために、祈り続けようとなさるのです。
イエス・キリストは、弟子達のことをよく理解されていました。その信仰の弱さをご存じでした。だからこそ、キリストはゲツセマネで弟子達。罪人たちのために執り成しの祈りをささげ、ご自分の十字架の死の向こうにある、立ち返るべき場所をお示しになったのです。
詩編37篇
「主は人の一歩一歩を定め、み旨に適う道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。若い時にも老いた今も、私は見ていない、主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。」
何度もキリストを疑い、キリストから離れてしまう私達の弱さを、キリストご自身が誰よりも深く理解してくださっています。
神は、私達の一歩一歩を定め、み旨に適う道を備えてくださいます。私達は、倒れても、それは神の捨てられたのではないのです。倒れた私達の手を、それでもキリストは捉えていてくださいます。
神は私たちが自分自身を知っているよりも、私たちのことをご存じです。自分が何を持っているか、ということに慢心するのではなく、神の言葉を聞くためにまず心と耳を向けていきましょう。