12月12日の説教要旨

イザヤ書8:9~15

「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(8:13)

アドベントに入ってから、イザヤ書を通して、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生の預言を見ています。その名前の通り、「神我らと共にあり」ということを、ご自身の存在を通して教えてくださるメシアのことです。インマヌエルと呼ばれるメシアがお生まれになったことを、我々はクリスマスと呼び、お祝いをしています。

今日も、イザヤ書の言葉を通してインマヌエルの恵みを感じていきたいと思います。

紀元前8世紀、アハズ王をはじめとするユダ王国の政治をつかさどる人たちは、周辺諸国の軍隊が攻めてくると聞いてアッシリア帝国に助けてもらおうとしました。神から遣わされた預言者イザヤは、その人たちに「静かにしていなさい。ただ神に頼りなさい」と告げます。しかし、その言葉は王宮の人たちには受け入れられませんでした。

イザヤは、「神を頼らずアッシリアに頼る道を選んだユダ王国が、これからアッシリアによって蹂躙されることになる」、という裁きの預言を残しました。

それが、これまで我々が読んできた内容です。

今日我々が読んだ9節から、イザヤの口調ががらりと変わります。ここまでは神に背を向けたユダ王国に対する滅びの預言でしたが、ここから、イスラエルを攻めようとする敵に向かって語り始めるのです。

「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ」

イザヤはユダを攻めようとする諸国に向かって、「おののけ」と挑戦的な言葉を叫びます。

皆、アラムと北イスラエル王国が攻めてきたことでパニックになり、アッシリアの強さに恐れている中で、イザヤだけが自信をもっていました。ユダのような小さな国の民の一人にしか過ぎないイザヤなのに、「来るなら来い。武装して、戦略を練って攻めて来るがいい」と言うのです。

ユダ王国に軍事的な秘策があるから自信をもっているのではありません。「神が私たちと共にいらっしゃるからだ」と言います。それが理由です。それだけが理由です。ほかに理由はありません。

どんなに相手が強く、武装して戦略を練ってかかってきても、神が共にいてくださるのだから勝つ、と言うのです。実際の歴史ではその後どうなったでしょうか。ユダ王国を武力で脅してきたラムと北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされてしまいます。その後、ユダ王国はアッシリアに国を蹂躙されます。アッシリアは、ユダの町々を滅ぼし、エルサレムまで来て都を包囲したが、エルサレムを攻め落とすことはなく、引き揚げていくことになります。そして、その10年後に、バビロンという国に滅ぼされてしまうのです。

全てイザヤが言ったとおりになりました。

なぜこの時、イザヤはここまで神が共にいてくださることを確信していたのでしょうか。イザヤ自身が、インマヌエルという事実を体験して知っていたからです。若い日に預言者として召された時、彼は神殿の中で実際に神の声を聴きました。て神ご自身が、イザヤに「行け、預言せよ」とおっしゃったのです。

イザヤが伝えた言葉は、イザヤ自身の言葉ではなく、神の言葉でした。イザヤははただ、「神はこうおっしゃっている」と伝えました。

イザヤは自分自身に自信があったのではありません。自分の時代を見抜く、物事を分析する力をイザヤが持っていた、ということではありません。神の「私はあなたがたと共に居る」というインマヌエルの御心を知っていたからです。

我々はどのように神を知るのでしょうか。旧約時代のイスラエルは預言者の言葉を通して神の御心を知らされました。

預言者の言葉に耳を傾けなかったイスラエルは何度、「預言者の言葉は本当だった」「神は私達と共にいらっしゃる、インマヌエルという言葉は真理だ」と、思い知らされたでしょうか。

イスラエルはその歴史の中で、時代に翻弄され沈みそうになる中で、神からの救いの御業を与えられてきました。そのたびに、インマヌエルの恵みを目撃し、体験してきました。そしてその体験を聖書の中に記録して、後世にまで伝えて来ました。

私たちは頑張って、神にたどり着き、神を知るのではありません。すでに私たちが聞くべき言葉は前もって与えられています。聖書が与えられ、生きた神の言葉であるイエス・キリストが世に来てくださいました。

しかし私たちは見ようとしないのです。聞こうとしないのです。自分に見えているもの、自分が聞きたいと思うものだけに向かってしまいます。イスラエルの過ちを私たちは何度も繰り返してしまいます。

人は、神から離れて生きる、ということに耐えられるほど強くはありません。聖なる存在を知らずに生きていけるほど強くはないのです。人はインマヌエルを心の底ではいつも求めています。

自分が神から離れた闇の中にいることに気づいたとき、それまで聞こえなかった神の招きの声が聞こえてきます。神はいつでも、聖書を通してご自分の元へと続く道を私たちに示してくださっているのです。

攻めて来る諸外国の同盟を「恐れるな」、とユダの国民にイザヤは伝えています。

「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。」

ユダの王、アハズや、王宮の政治家たちは、ユダ王国はアッシリアに頼ることが救いだ、と思っていました。しかし、イザヤは「違う」と言います。

「万軍の主のみ、聖なる方とせよ。あなたたちが恐るべき方は主。御前におののくべき方は主」

神のみを恐れなさい、と言います。ユダを攻める諸外国や、アッシリアを恐れるのではありません。ただ恐れるべきは、神お一人だ、と伝えます。

イスラエルがなすべきことは一つなのです。「神を聖なる方」とすることです。この「聖なる」というのは、「区別された」という意味の言葉です。神を、他の何からも特別に区別して、何よりも誰よりも大切にする、ということです。

私たちは、イエス・キリストから「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉をいただいています。はじめの言葉が、「願わくは、御名を崇めさせ給え」という祈りです。それは、「あなたのお名前が聖なるものとされますように。聖いものとして区別されますように」という意味の祈りの言葉なのです。

これこそが、聖書が全体を通して我々に伝えていることであり、私たちが信仰生活の中で一生かけて求めていくことであり、そしてそれが、インマヌエルということの意味です。

神を聖とするかしないか、ということが、私たちにとっての信仰の分かれ道となります。神を聖とする者に、神は平和と逃げ道を下さいます。しかし、自分の生活の中に神を迎え入れる余地のない者は、イザヤが言うように、魔術や偶像に走り、さらなる暗闇と絶望へと向かってしまいます。

誤った道に行こうとするイスラエルに、神はいつでも、前もって預言者を送り、道を正そうとされました。それでも誤った道を進み続けるイスラエルに、今度は神ご自身が「つまずきの石」「罠」となって、ユダの道の軌道を修正される、とおっしゃいます。

歴史の中で苦しいことがあると、人は目に見えるわかりやすい救いに向かってしますが、神とイスラエルは共に痛みを担いながら、正しい道へと修正していくのです。

信仰者と神が共に歩むことを妨げる力がこの世にあります。聖書はそれを「罪」と呼んでいます。「神よりも、こちらの方が頼りになるではないか」、という誘惑の声は、我々の信仰の日常の中でも聞こえてくる声ではないでしょうか。

ヨハネ福音書で、キリストはこうおっしゃっている。

「私は羊の門である。・・・私は門である。私を通って入るものは救われる。・・・私は羊のために命を捨てる。・・・こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は命を、再び受けるために、捨てる。」

キリストは私たちの歩みをインマヌエルの信仰の道へと導くために痛みを担ってくださいました。私たちのためにある時は「つまずきの石」となってくださり、ある時は「罠」となってまで神と共に生きる道へと連れ戻してくださいました。

このインマヌエルの君こそ、救いに通じる門なのです。

私たちはこの方を、聖なる方として、他の誰とも他の何とも特別に区別して礼拝したいと思います。そこに、何も恐れる必要のないインマヌエルの歩みが実現するのだ。

「よい羊は私の声を聴き分ける」とキリストはおっしゃいます。私たちはこの命の羊飼いのお名前を教えていただき、礼拝することによって、インマヌエルの喜びを知ることができたのです。