MIYAKEJIMA CHURCH

5月1日の礼拝案内

次週礼拝(5月1日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書24:36~49

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、10番、243番、354番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇毎週土曜日は牧師駐在日ですが、4月30日(土)は不在となります。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月24日の説教要旨

ルカ福音書24:13~35

「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:27)

失意の中、エルサレムを離れていく二人の弟子達に、主イエスが一緒に寄り添って歩き始め、主イエスの復活を知った弟子達がエマオからエルサレムに戻った、という出来事です。

エマオは、エルサレムから60スタディオン離れたところにある村だ、と書かれています。60スタディオンは、10kmの距離です。

イエス・キリストの二人の弟子が、エルサレムで主イエスが殺されたことを嘆きながら、失望の内にエルサレムから離れ、エマオへと歩いていました。彼らは、婦人たちから主イエスの墓が空っぽになった、という知らせを聞いていた。しかし、「この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった」と記されています。死んだ人が生き返るなどという馬鹿なことがあるはずがない、と受け入れなかったのです。

私たちが今日読んだ、エマオへの道行きは、「認識の出来事」としてよく知られています。二人は、復活なさったキリストと話しながら歩いたのに、この方がキリストだとは認識しませんでした。しかし、キリストと食卓を囲み、パンを受け取ると霊の目が開いて、キリストだと認識します。

私たちはここに、人がどのように復活のキリストを信じるようになるのか、という、「信仰の目の開き」を見ます。この二人の弟子達に起こったことは、キリストを信じる人であるなら、「これはまさに自分に起こったことだ」と、自分の歩んできた信仰の道を振り返ることが出来る場面でしょう。

後に、二人は聖書の言葉を聞いたとき、自分たちの心が燃えていた、と思い出すことになります。弟子達は、復活のキリストに出会って、初めて聖書に記されていることが夢物語ではなく、真実のことであり、自分も聖書の登場人物の一人であることを知りました。

キリストが不思議な仕方で出会ってくださり、聖書の真理を伝えてくださる時、それは私たちにとっても、心燃える時となります。絶望の中、昨日まで生きてきた場所から逃げようとする自分にキリストが寄り添い、共に歩き、み言葉を聞かせてくださり、聖書の真理を知って、行くべき道を歩み始めるのです。誰もが、イエス・キリストとの出会いを思い返す出来事ではないでしょうか。

私たちは、この「エマオへの道行き」の出来事を通して、自分自身のイエス・キリストとの出会いを思い返した時、「またわからないのか、私は復活してあなたと共に歩んでいるではないか」という声を思い返します。

二人の弟子の内の一人は、名前がクレオパといいました。もう一人の名前は記されていません。この「もう一人」が一体誰なのか、ということについてはいろんな説があります。

ヨハネ福音書にクレオパの妻であるマリアの名前があるので、この「二人の弟子達」というのは、クレオパとマリアの夫婦だったとも推測できます。

しかし、福音書はここであえてクレオパの同行者の名前を記していません。「クレオパとマリアの夫婦が歩いていた」、とは書いていないのです。

このことは重要なことだと思います。聖書がクレオパの同行者の名前をあえて記していない、ということに、何か特別な意味があるのではないでしょうか。

聖書は、この無名の弟子の姿に、私たち読者の姿を見せようとしているのではないでしょうか。聖書は、「今、あなたはエマオへと歩いている。クレオパと一緒に歩いているこの弟子はあなただ」と、私たちの姿をこのエマオへの道行き登場人物として見せ、信仰者としての在り方を問いかけているのではないか。

私たちはこのエマオ途上の弟子達とキリストとの出会いを通して、聖書から「これはあなたに起こったことであり、今もあなたに起こっていることだ」と見せられているのです。

二人の弟子達は、エルサレムから遠ざかりながら、道の上でエルサレムでの出来事を語り合っていました。この二人に、三人目が加わります。この三人目の人物は、復活なさったイエス・キリストでしたが、不思議なことに、この時の二人の弟子達にはそのことがわかりませんでした。

その三人目の人から「話しているのは何のことですか」と尋ねられて、クレオパは「あなたはエルサレムにいたのに、ナザレのイエスの十字架のことを知らないのですか」と驚きました。あれだけ話題になって、あれだけたくさんの人がゴルゴタの丘にその十字架を見に行ったのに、どうしてこの人はそのことを知らないのだろう、と不思議に思ったのです。

二人の弟子は、イエスという人がどのように活動を続け、そしてどのように最後に十字架に上げられて殺されたのかを語りました。恐らく、「イエスの活動はもうそこで終わってしまった。イエスが伝えた神の国をもう私たちは見ることができなくなった」と、悲観的なことを伝えたのだろう。

弟子達は、ナザレの預言者がイスラエルを率いて、もう一度強いイスラエルを取り戻してくれると信じていました。しかし、殺されてしまいました。しかも十字架で殺されてしまいました。彼らは確かに主イエスの死を見たのです。

「エルサレムでこんなことがあって、自分たちは失望しているのだ」ということを伝えると、この二人は、三人目の人から「まだわからないのか」と言われてしまいます。「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られます。

その三人目の人は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、聖書全体を説明して、ナザレのイエスの十字架の意味を語って聞かせた。

二人は、この人の話に驚き、もっと聞きたい、と思ったのでしょう。エマオに到着しても、この三人目の人物を引きとどめ、なおも話を聞こうとしました。

夕方になり、夕食の食卓を三人で囲みました。ここをよく読んでみると、面白いことがわかります。二人がこの人を引き留めたのに、三人目の人物が、この食卓の主人として取り仕切っています。この人が讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡しています。

そして不思議なことに、その人からパンを受け取った瞬間に、二人は、その人が復活なさったイエス・キリストだと分かりました。そして、わかると同時に、その人が見えなくなったのです。

このエマオでの食卓は、キリストからパンを渡され者の信仰の目が開かれた、という出来事なのです。

エルサレムから絶望感をもって出てきた二人の弟子達は、ここから希望に満ちてエルサレムへと引き返しました。

この時まで二人の弟子達の頭の中にあったのは、「自分はこれからどうすればいいのか、何を信じていけばいいのか」ということでした。三日前までは、ナザレのイエスを救い主だと信じ、この方が自分の生き方を示してくださると信じて従って来ました。

しかし、ナザレのイエスは十字架で殺されてしまい、いきなり、自分たちが歩むべき道が奪い去られました。

彼らにできたことは、エルサレムから離れることでした。留まりたくない場所、もうそこに居たくないと思う場所から逃げることでした。「昨日までの自分たちが信じてきたものは何だったのか」「これからどうすればいいのか」・・・彼らはエマオへと向かってはいたが、迷子になっていました。次にどっちに向かって一歩を踏み出せばいいのか分からなくなっていました。

しかし、復活の主との出会いは、次の一歩をどちらに踏み出せばいいのかを確かに教えてくれました。弟子達がエルサレムに戻るということは、復活のキリストとの出会いがなければ絶対になかったことです。

エルサレムに戻ると、復活なさった主イエスが弟子のシモンにも出会われた、ということが話されていた。女性たちが告げた、空の墓の問題は解決されました。あの方は、本当に復活なさったのです。

主イエスが復活なさったということ、このことが、弟子達が新たに生きる希望となりました。キリストとの出会いは私たちが歩む道を変えるのです。キリストに出会う、ということは、生きる道が、方向が、目的が変わる、ということなのです。

「主イエスは確かに自分に出会い、言葉をかけてくださった」と振り返って思う瞬間があるのではないでしょうか。その時には主イエスだとはわからないかもしれない。しかし、後から思い返すと、「確かにあの時キリストは自分と一緒に歩いて、行くべき道を教えてくださったと分かる」ことがあります。

私たちは自分たちの肉の目でキリストの姿を捉えることはできません。しかし、肉の目に捉えることのできないキリストとの出会いは、私たちを確かに変えるのです。

信仰者にとって、キリストが復活なさったということは決して消えない希望です。もしも「主イエスが十字架で殺された」、ということで全てが終わっていたのであれば、聖書に記されていることは全て過去のこととして読まれることになったでしょう。

しかし、聖書は、今のことが記されているのです。聖書は、「この方は今、復活なさり、生きてあなたと共に歩んでくださっている」と伝えています。

弟子達は、聖書の解き明かしをキリストご自身から聞かされました。「聖書に記されていることは全て、あなたに起こったことなのだ」、と教えられえたのです。

復活なさったイエス・キリストは今も私たちの目には見えない形で、共に歩いてくださっています。私たちが「ここから逃げ出したい」と思う時も、私たちにはわからない仕方で寄り添い、必要な言葉を聞かせ、「まだわからないのか」と叱ってくださいます。

キリストの十字架の後、秩序を失い、生きる道・目的を失った弟子達に寄り添い、希望をお与えになったキリストは、あのエマオへの道でそうなさったように、今も私たちを神の国へと寄り添って、共に歩いてくださっているのです。

4月24日の礼拝案内

 次週礼拝(4月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書24:13~25

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、9番、151番、522番、頌栄544番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。現住陪餐会員の方はご出席ください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月17日イースター礼拝の説教要旨

マルコ福音書16:1~8

「彼女たちは、『だれが仮名の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(16:3)

イエス・キリストが十字架で殺されたのは金曜日でした。それから三日目の朝、つまり、日曜日の朝、数人の女性が主イエスが葬られた墓に向かって歩いていました。主イエスの遺体に香油を塗ろうとしていたのです。彼女たちは、そこで、空になった主イエスの墓を見ることになりました。

イエス・キリストの証言をまとめて編纂された4つの福音書にはすべて、この朝のことが記録されています。この朝、確かに十字架で殺されたはずのイエス・キリストの墓が空になった、ということ、それが決定的な事実として報告されているのです。

この朝、ナザレのイエスの墓が空になっていた、ということが、後のキリスト教会の信仰の基盤となりました。死者が復活した、という信じがたいことが・・・いや、信じる方がおかしいようなことが、教会の信仰の基盤となったのです。

後に、使徒パウロがコリント教会にこう書いています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

確かに、死人が蘇ったということは、誰にとっても信じがたいことです。後のキリスト教会の中にも、キリストの復活を疑う人が出始めていました。

しかし、パウロは言うのです。

「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」

この日の朝起こったことを忘れないために、キリスト教会は毎週日曜日の朝に礼拝を捧げています。私たちはイースターの今日、改めて私たちの信仰の根拠は何か、そして信仰の希望は一体どこにあるのか、ということを確かめたいと思います。

キリストの復活という奇跡を目撃したのは、数人の女性たちでした。この朝、女性たちは驚きました。こんなことになるとは思ってもいなかったからです。

「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら墓へと向かった、と書かれている。

彼女たちは、墓が石で墓が塞がれている、ということを知っていました。つまり、墓に行っても仕方がない、ということを知っていながら、墓に向かっていました。香油を買って、主イエスの遺体を清めようとしてもその墓には入れない、ということは分かった上で、それでも行ったのだ。

この時の女性たちにとって大事なことは、石をどけることができるかどうか、ではなく、主イエスに近づく、ということでした。無駄だと分かっていても、主イエスの墓に向かわざるを得なかった、主イエスを求めざるを得なかったのです。

私たちはこの朝の女性たちに、信仰の姿勢を見ます。女性たちは「解決策」をもってキリストの墓に向かったのではありませんでした。「どうしようか」と言いながらも、ただキリストを求め、近づき、その先で彼女たちは思いもよらなかった道を示されたのです。

「墓」は、私たち肉なる存在にとっては終着点です。いずれ行きつく「絶望」のように、その先には何もない「行き止まり」のように考えられています。しかし、キリストの墓は終着点ではなく、新しい出発点でした。この方の空の墓は、新しい希望の始まりとして私たちに示されています。

私たちは、確証をもってキリストを求めるのではありません。私たちには、どかすことのできない石があります。どうにも背負えない重荷があります。それでもキリストに近づく、いや、それだからキリストに近づくのです。そして、キリストを求め、近づいた先で、私たちには考えが及びもしなかった神の御業が用意されているのを見見せられます。そうやって、私たちも、この女性たちのように信仰の証人にされていくのです。そのようにして「主は生きておられる、アーメン」という祈りへの導き入れられるのです。

この女性たちは、三日前の金曜日の午後、ゴルゴタの丘にいました。そこで確かに主イエスが十字架で息を引き取られたのを見ました。その夕方、アリマタヤのヨセフによって新しい墓に埋葬されたのを見ました。そしてこの日曜日の朝、女性たちは墓が空になっているのを見ました。

この人たちは、キリストを助けるために何かをした人たちではありません。この女性たちは、ただ、イエス・キリストを見続けた人たちでした。ただ、殺されるキリストを遠くから眺める以外、何もできなかった、無力な人たちでした。

しかし、この人たちが、キリストの死と復活の証人として神に選ばれたのです。

墓の中にいた天使の伝言を受け取り、キリストの弟子達に伝えたのはこの女性たちでした。キリストの十字架の死と復活の証人として、そして天使の言葉を受け取り、運ぶ預言者として彼女たちは、確かに神によって用いられました。

空っぽになった墓の中で、女性たちは、天使から主イエスが蘇られたこと、ガリラヤで弟子達を待っていらっしゃる、ということを告げられます。聖書には、女性たちがそこから逃げ去り、「震えあがって正気を失い、誰にも何も言わなかった」、とある。あまりの恐ろしさに、何も言わなかった、というのです。

マルコ福音書の本編は、そこで終わっています。

しかし実際には、彼女たちは、黙ったままではなかったのでしょう。黙ったままではいられなかったのです。女性たちはこの朝見たことを弟子達に、人々に伝えていきました。彼女たちの証言によって、弟子達は再び集まって祈るようになり、その祈りに聖霊が与えられることになります。

私たちは、この女性たちの姿を通して、「恐れを伴う信仰」ということを考えさせられます。福音を信じるというのは、実は「恐れるべき方を知る」ということではないでしょうか。畏れを伴わない信仰に、死を超えた喜びはありません。女性たちは、この墓の中で、死に勝るものを見たのです。墓を出て逃げ去るほどの恐れを感じました。震えあがって正気を失うほどの恐れです。

空っぽの墓に立って、天使から声をかけられて逃げ出した、この女性たちの恐れから私達の信仰は始まっています。そうであれば、私たちの信仰には恐れが伴うは当然でしょう。なんとなく信じていれば自分にいいことが起こるのではないかと期待して祈ったりするようなものではありません。信仰を通して、私たちは死を超えたものが見せられます。それは、私達の体が打ち震えるほどの希望なのです。

さて、女性たちが墓の中で天使から聞かされたのは、主イエスが以前弟子達におっしゃったことでした。

「私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く」

弟子達は初めにこう言われた時、この言葉が耳に入りませんでした。「君たちは私を見捨てて逃げるだろう」と言われたので、「そんなことはありません」と言うのに必死だったのです。

この日曜日の朝、弟子達はどこにいたのでしょうか。主イエスから離れ、イエスの弟子である自分はこれからどうなるのかという不安と、本当に自分は主イエスを見捨てて逃げてしまった、という苦しみの中にいました。

弟子達は、天使から言葉を受けた女性たちを通して、もう一度キリストの許しと招きの言葉を聞くことになります。

主イエスと一緒に旅をしていた時、弟子達の心を占めてたのは、「自分たちの中で誰が一番偉いのだろう」ということでした。弟子達は自分のことばかり考えていたのです。

だから、主イエスの言葉を聞けていませんでした。自分に都合のいい言葉ばかりを選別して聞こうとしていました。

自分に都合のいい言葉ばかりを求めて神の言葉を締め出してしまう人には神の言葉は聞こえてきません。自分の中から雑音が消えた時に福音は聞こえるのです。

「あの方はあなたが戻って来ることを待っていらっしゃる。あの方は罪びともう一度迎え入れてくださる」・・・世界の初め、闇の中に「光あれ」と神の声が響いたように、「あなたの命は闇の中では終わらない、光の元へと立ち返れ」という福音が与えられることになります。

天使は、「弟子達とペトロに伝えなさい」と特にペトロ名前を出しました。なぜ特別にペトロなのでしょうか。主イエスを見捨てて逃げただけでなく、三度否定してしまった、弟子達の中でも一番信仰の痛みを感じた人だったからでしょう。

ペトロは一番強い気持ちを持って、誰よりも最後まで近くに従っていきました。そしてそこで誰よりも強く主イエスのことを否定してしまいます。

信仰をもってキリストを求めれば求めるほど、自分の弱さがどんどん見えてきます。それでも主イエスは、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と厳しくおっしゃいます。「私の弟子というだけで君たちは迫害される」とおっしゃり、「あなたがたには世で苦難がある」ともおっしゃいました。

その通りでしょう。ペトロはその言葉通り、信仰の痛みを知りました。だからこそ、キリストは特にペトロの名前を呼んでお招きになったのです。信仰ゆえの痛みを感じる人こそ、キリストの慰めの言葉が向かいます。

「重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

神の国の宣教を、今度は許しの言葉を与えられた彼らが、原点であるガリラヤから始めていきます。弟子達は試練を潜り抜けたのです。弟子達がはじめになすべきことは復活の主に会いに行くことでした。

信仰者がまずなすべきことは、いつでも、復活の主のもとに立ち返ることです。あの朝の女性たちや弟子達のように。そこから、新しい道が始まります。

4月17日イースター礼拝のご案内

次週礼拝(4月17日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書16:1~8

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、8番、146番、154番、頌栄544番

【報告等】

◇次週はイースター礼拝です。聖餐式があります。礼拝後、愛餐会をもちます。

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月10日の説教要旨

創世記15章

「日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(15:12)

イエス・キリストの十字架の痛み・苦しみを思う時を過ごしています。キリストの十字架は神がキリスト教会と新しく結ばれた愛の契約の儀式でした。キリストの十字架の意味をより深く知るために、先週に引き続き、創世記に遡って聖書を見ていきます。

アブラムは75歳の時に神に召され、自分の一族と故郷から離れ、はるばるカナンの地まで旅をしてきました。神を信頼し従ったアブラムには多くの祝福が与えられ、家が栄え、たくさんの家畜、財産に恵まれます。

しかしアブラムには、自分の祝福を受け継ぐ子供がいない、という空しさがありました。そのことを神に訴えた時、神はアブラムに子供と土地をお与えになることを約束されます。そしてそのしるしとして、契約を結ぶことを神は提案されました。

今日読んだところには、正に、神とアブラムが契約を交わす場面です。

12節を見ると、「日が沈みかけた頃」とあります。アブラムが契約の儀式の準備をしていると夕方になった、ということです。神がアブラムに満天の星をお見せになってから、日が昇り、また日が沈みそうになる時間まで、神とアブラムの語りはずっと続いていた、ということです。

私たちはここに、夜も朝も昼も夕方も、信仰者に祝福を与えようとなさる神のお姿を見ることが出来るのではないでしょうか。

その後すぐに神とアブラムの間に契約が結ばれて、アブラムに子供と土地が与えられる、ということが確かなものになりますが、その契約の儀式が最中、不思議なことが起こります。

契約の儀式をまさに始めようとする時に、アブラムが深い眠りに襲われたのです。アブラムは「恐ろしい大いなる暗黒」を見せられた、と記されています。ただ、眠くなって目を閉じた、というのではありません。祝福の契約の中で、なぜか「恐ろしい大いなる暗黒」が神から見せられた、というのです。

祝福の契約の儀式の中で光が見せられた、というのであればわかります。しかし、神は、アブラムに闇をお見せになったのです。

ここには、どのような御心があったのでしょうか。

神はアブラムに満天の星を見せ、「この星のように、あなたから信仰の民が生まれてくる」とおっしゃって祝福されました。そして、神は同時に、そのアブラムから生まれてくる信仰の民が通ることになる「恐ろしい闇」も、前もってアブラムにお見せになったのです。

アブラムから生まれる信仰の民イスラエルはやがて、400年にも渡って異邦の国で寄留者となり、そこで奴隷生活を・抑圧を体験することになる、と言われます。

神はこの契約の儀式の中で、これから起こることを全て示されたのです。

アブラムから信仰の民が生まれる、ということ。

その信仰の民は苦しい試練を通る、ということ。

そして最後に、その民は信仰の試練という闇の先で解放され、ここへと戻ってくる、ということ。

この夜アブラムに示された祝福は、複雑なものでした。子孫が与えられる、という単純な喜びだけではなかったのです。

アブラムからイスラエルという民が生まれ、イスラエルが苦難を通って祝福へと導かれる、という、アブラム自身が自分の生涯の中で見届けることが出来ないほど壮大な神の祝福のご計画がこの闇の中で示されたのです。

私たちは、「神から祝福をいただける」、と聞くと、すぐに自分の周りから問題がなくなって、すべての悩みと苦難が消えることのように考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、神が下さる祝福の中には、私たちにとって必要な試練も含まれているのです。

私たちは、出エジプト記を読んで、イスラエルがエジプトで奴隷にされた時の嘆きを知っています。神はそのイスラエルの嘆きを聞いて、エジプトからイスラエルを解放されました。しかし解放されたイスラエルはその後40年間荒野の旅を続けなければなりませんでした。その試練の先に、約束の地が用意されていたのです。

神の祝福は、人間の側の思いとは全く違った仕方で実現していきます。神の民イスラエルだから、教会だから、神に守られて何の苦も無く豊かになり、何の問題も心配もなく過ごせるようになる、というようなことが祝福ではないのです。

アブラムに示された祝福は信仰の試練・苦難を通った先にある祝福でした。

出エジプトの最後でモーセがイスラエルに荒野の旅の意味を告げます。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

イスラエルは荒れ野の40年という信仰の試練を通して、自分たちが神によって生かされている民であるということを学ばされたのです。約束の地はその学びの先にありました。

なぜ、神はこんなにも遠くにある祝福をお見せになったのでしょうか。16節の最後で、「アモリ人の罪が極みに達していないからだ」とおっしゃっています。

この時アブラムがいたカナンの地にはアモリ人が住んでいました。つまり、カナン人のことです。神は「アモリ人の罪はまだまだ大きくなる」とおっしゃいます。

アモリ人は偶像礼拝の罪を重ねていました。そして神は、アモリ人の罪が極みに達した時に、アブラムから生まれるイスラエルがこのカナンの地に戻って来て、真の神への信仰をもたらすことになるだろう、とおっしゃるのです。

神の壮大な祝福がここに示されています。

アモリ人の罪が、試練を経たイスラエルによって清められることになる・・・そのようにして真の神の民が増し加えられることになる、という、アブラムには想像もつかないような大きな計画でした。

さて、この、神とアブラムのやりとりを通してわかるのは、神は、信仰者に試練をお与えになる、ということです。そしてその信仰の試練は、祝福に至るための通り道なのです。神は、試練の中で、私たちを祝福を受けるにふさわしい者へと作り変えてくださいます。

私たちにとって、本当にしんどいのは、苦しみの意味が分からない時でしょう。なぜ自分が、なぜ自分の家族が、なぜ自分の愛する者が、なぜ家族の中で自分だけが・・・そのような心の叫びを誰もがもっています。神は、その私たちの心の叫びを聞きながら、荒れ野を共に歩いてくださるのです。

神の試練が無意味だ、ということはありません。荒野の中でこそ、神が共にいてくださることを私たちは見せられるのです。

アブラムに暗闇が臨み、これらの神の言葉が語られた後、二つに裂かれた動物の間を燃え盛る火が通り過ぎました。神とアブラムの間に契約が結ばれた、ということです。

その後、神はもう一度はっきりとおっしゃいました。

「あなたの子孫にこの土地を与える」(18節) Continue reading

4月10日の礼拝案内

 次週礼拝(4月10日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記15:1~11

 交読文:詩編9編2節~7節

 讃美歌:讃詠546番、7番、316番、291番、頌栄544番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

◇4月9日(土) 10時より 役員会があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日になっています。10時~17時まで伝道所におります。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 Continue reading

4月3日の説教要旨

創世記15:1~11

「アブラムは主を信じた。主イエスはそれを彼の義と認められた」(15:6)

このアブラムという人は、後にアブラハムという名前になり、イスラエルの「信仰の父」と呼ばれるようになった人です。後のイスラエルの人たちは、自分たちのことを「アブラハムの子」と呼ぶようになります。

「アブラハムの子」・イスラエルの一員である、ということは、神とアブラハムの間に交わされたこの契約に加えられている一人・神と共に生きる信仰の民の一員である、ということです。

今日読んだところは、新しいイスラエルである私たちキリスト教会にとって、自分たちの根っこがどこにあるのかが見える大切な場面です。

神はどのような時にアブラムに語り掛け、祝福の契約を結ばれたのか、見ていきましょう。

15:1「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」

「これらのこと」というのは、14章に記されている、アブラムが住んでいた地方の王たちの戦いのことです。何人もの王たちが争いに巻き込まれてアブラムの甥のロトが連れ去られてしまいました。アブラムは僕たちを率いて戦い、ロトを、そして財産や女性たちなど、連れ去られた人たち・ものを取り戻しました。

神がアブラムに声をかけられたのは、アブラムが人間たちの争いに巻き込まれて疲れ切っていた時でした。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」

「あなたには私の守りがある。この世の愚かな人間同士の争い、戦い・混乱の中にあっても、私はあなたを守る」と神はアブラムに約束してくださったのです。

戦い巻き込まれて疲れていたアブラムが一番聞きたいと思っていた言葉だったのではないか、と誰もが思うのではないでしょうか。

しかし、アブラムは神による守りの約束を聞いても、喜ぶどころか、不満を口にします。

「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。ご覧の通り、あなたは私に子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が後を継ぐことになっています」

戦争に巻き込まれること以上に、アブラムの心を占めていたのは、自分に後継ぎとなる子供がいない、ということでした。

神に召されてからここまで、アブラムは神からたくさんの祝福を受けてきました。自分の財産が増え、僕たちを率いて戦えるほどの力をもつことが出来ました。しかし、アブラムには、空しさもあったのです。自分が死んだあと、それを受け継ぐ自分の子がいない、ということでした。

たとえ甥のロトを救い出したとしても、ロトが自分の家を継ぐわけではないのです。アブラムは、神に愚痴をこぼしました。

アブラムの嘆きを聞かれた神はさらに、言葉をお与えになります。

4節 「見よ、主の言葉があった」とあります。聖書は、私達読者に向かって「見よ」と言います。神がこの次におっしゃった言葉には決定的な意味があるのです。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」

アブラムの僕の一人、エリエゼルではなく、これからアブラムに生まれる子供が跡を継ぐ、と神はおっしゃいました。つまりそれは、これからアブラムに子供が与えられる、ということです。

そして神はアブラムにその証拠として、アブラムを外に連れ出して、天の星をお見せになりました。

「あなたから生まれる子孫はこのようになる」

神の招きにこたえて自分の故郷を捨て、ここまで旅をしてきたアブラムは、神の言葉は必ず実現する、ということを知っていました。自分が死んだあとのことを考えて空しさを覚えていたアブラムは、満天の星を見て圧倒されたのではないでしょうか。

それは、アブラムという一人の信仰者から、天を覆うほどの信仰の民・契約の民が生まれるだろうという予告でした。

アブラムにとっては、思いもかけなかった祝福でした。昨日まで、こんな祝福が自分に突然与えられるなどということは予想もしていませんでした。満天の星を通して神の恵みを見せられたアブラムは「主を信じた」とあります。既にアブラムは75歳を超えていました。しかし、「あなたから生まれる者が後を継ぐ」という神の言葉を疑いませんでした。

なぜアブラムはそんな、信じがたい言葉・約束を受け入れることができたのでしょうか。

神が、そうおっしゃったからです。それをおっしゃったのが、神だったからです。それが神の言葉だったからです。だから彼は受け入れたのです。これまでの神の言葉は全て実現したからです。

旧約聖書の元のヘブライ語では、「言葉」という単語には「言葉」という意味ともう一つ、「出来事」という意味もある。神がそうおっしゃったのなら、もうすでにそれは間違いなく実現する出来事なのです。

旧約聖書では預言者たちの言葉が記録されています。預言者たちが伝えた神の言葉は、歴史の中で必ず実現していきました。言いっぱなしではなく、神の言葉・神が預言者を通しておっしゃったことは全て出来事となっていきました。

神はご自分の言葉を受け入れたアブラムを「義と認められた」とあります。「義」というのは、正しい関係性のことを言う言葉です。神は、アブラムを、御自分が契約を結ぶのにふさわしい、誠実な人としてご覧になった、ということです。私たちはこの神とアブラムとの短いやりとりの中に、神と信仰者の間に結ばれた深い信頼を見るのです。

さて、私たちはこのアブラムという人を見てどう思うでしょうか。信じられないようなことを神から告げられ、アブラムは黙って信じました。

私たちは、ここでのアブラムの姿を見て、「自分には真似できない。『信仰の父』と呼ばれるようなアブラムの真似はできない。自分は疑い深い人間だからアブラムのような上等な信仰を持つことはなかなかできない」、などと思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、アブラムも、私たちと同じ、一人の信仰者に過ぎませんでした。私たちと同じなのです。神から祝福をいただきながらも、失望したり、愚痴ったりする私たちと同じなのです。

本当に誠実さを示されたのは神でした。神は、愚痴をこぼすアブラムに忍耐強く寄り添われたように、私たちのような足元の定まらない信仰者を祝福をもって追いかけてくださるのです。

神とアブラムのように、私たちは神と一緒に時間を重ねて、少しずつ信頼を積み重ねていく、その信頼関係が私たちの信仰生活ではないでしょうか。 Continue reading