MIYAKEJIMA CHURCH

4月3日の礼拝案内

次週礼拝(4月3日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、6番、526番、380番、頌栄543番

【報告等】

◇4月23日(土) 10時より三宅島伝道所総会があります。

◇次週、聖餐式があります。

◇4月3日(日) 雑誌「信徒の友」の取材があります。礼拝後、愛餐会(お弁当)がありますので、ご予定ください。

◇4月9日(土) 10時より 役員会があります。

 【牧師予定】

◇4月2日(土) 牧師は伝道所を留守にします。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

3月27日の説教要旨

マルコ福音書15:42~47

「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである」(15:43)

「小さな信仰の業が」

イエス・キリストは金曜日の朝から十字架につけられ、午後三時に大声で叫んで息を引き取られました。十字架刑は見せしめのための処刑法ですので、十字架につけられた人が息を引き取るまで何日も苦しむような刑罰でした。

主イエスは、十字架に上げられる前に夜通し暴力を振るわれ、体を痛めつけられていたので、弱っていらっしゃったのでしょう。朝に十字架につけられ、午後の3時に息を引き取られました。ピラトは、「もう死んだのか」と驚いています。

十字架上で死んだ人の遺体は、その家族が引き取りに来ないのであれば地面にそのまま投げ捨てられることになります。息を引き取られた主イエスの遺体はすぐに十字架から降ろされず、見せしめのために人々の目にさらされたままにされました。

今日読んだ最初の、42節には、「すでに夕方になった」とあります。午後三時から、夕方まで、もうすぐ日が沈もうとする時間までそのままにされていた、ということです。

ユダヤの一日は、日没が区切りとなります。日が沈んだところから一日が始まる、という数え方ですので、日が沈めばユダヤ人にとっての安息日となります。

もうすぐ日没になる、という時間に、アリマタヤという町の出身で、身分の高い議員であったヨセフという人が、勇気を出してポンテオ・ピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるように願い出た、ということが記されています。

ヨセフは、日付が変わって安息日になる前に、主イエスを十字架から降ろし、埋葬しようとした。ユダヤ人にとって、十字架の上に死体をそのままにしてさらしておくことは聖い安息日に相応しいことではなかったからです。

旧約聖書の申命記に、このように記されています。

「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」

死体を夜通し木の上にさらすことを神はお喜びになることではない、神がイスラエルにくださった土地を汚すことになる、と律法で言われています。安息日には仕事をすることは禁じられているので、日が沈んでしまうと、主イエスの遺体を十字架から降ろしたり、埋葬したりすることができなくなってしまいます。

ローマ兵にとってそんなことはどうでもいいことでしたので、十字架の罪人を見せしめのためにそのままにしておくつもりでした。しかし、ユダヤ人の議員であったヨセフにとっては我慢できないことでした。彼はイエスの家族が遺体を引き取りに来るのを待っていましたが、主イエスの家族も、弟子達も遺体をとりに来ません。このままだと安息日の間、十字架の上にそのままにされてしまいます。

3時に主イエスが息を引き取られてから、この夕方まで、ヨセフはどうすべきか考え続けていたのでしょう。日没が迫る中、ヨセフは決断しました。覚悟を決めてピラトのところに行き、主イエスの遺体を引き渡していただきたい、と願い出たのです。

「勇気を出して」願い出た、と聖書には記されています。確かに勇気が必要だったでしょう。身分の高いユダヤの議員でありながら、ヨセフはローマ総督ポンテオ・ピラトに、ローマへの反逆者の遺体を引き渡していただきたい、と願い出るのですから、そのことによってローマからも、同胞のユダヤ人からも不審に思われることは間違いありません。「お前もイエスの仲間か」と十字架に上げられるかもしれません。

なぜヨセフは、命の危険を承知でナザレのイエスの遺体を引き取ろうとしたのでしょうか。聖書はその理由について一言、「この人も神の国を待ち望んでいたのである」と記しています。この人も、このイエスという方に神のお姿・メシアのお姿を見出していたのです。

12章28節以下を見ると、ひとりの律法学者と主イエスのやりとりが記されています。エルサレム神殿の境内で、ひとりの律法学者が主イエスに「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」と質問しました。

その人自身、悩んでいたのかもしれません。聖書に数多く記されている掟をどう守ればいいのか、何を第一とすればいいのか、迷いがあったのかもしれません。

主イエスは、「あなたの神である主を愛しなさい」という掟と「隣人を自分のように愛しなさい」という掟をおっしゃり、その二つの掟を切り離せない一つのものとしてお示しになりました。

律法学者はそれを聞いて納得しました。霧が晴れて真理が見えました。そして「その二つの掟は、どんな捧げものや生贄よりも優れています」と主イエスに答えます。

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」と聖書に記されています。

主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者がアリマタヤのヨセフだったかどうかは分かりません。大切なことは、イエス・キリストには、12弟子以外にも、心から従おうとする人たちがいた、ということです。ガリラヤの漁師たちだけでなく、エルサレムの律法学者や議員の中にも主イエスに神の姿を見出した人たちはいたのです。

私達は「イエス・キリストの弟子」と聞くと、12人だけを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、キリストの直弟子「だけ」がキリストを世界に伝えて行ったのではありません。

主イエスに神の国の到来を期待して、従っていた人たちはたくさんいたのです。聖書の中では描かれていない、もしくは、ほんの少ししか描かれていない無名のキリスト者たちがたくさんいました。アリマタヤのヨセフも、聖書の中では目立たない、小さな存在です。

しかし、このような、誰からも注目されないような小さな信仰者一人一人の、小さな信仰の業を通して、神の御業は進んでいったのです。

小さな信仰者が、小さな信仰の業を行う際には、大きな勇気がいります。主イエスを三度否定したペトロを見ればわかるでしょう。「あなたはナザレのイエスを知っているか。あなたはイエスの仲間か」、そう尋ねられて「そうです」と答えるだけのことにも大きな勇気がいります。

ましてや、アリマタヤのヨセフは、ユダヤ人の中でも、身分の高い議員でした。「ナザレのイエスは死刑にすべきだと言っている」人々の中で、一人だけ皆と違うこと・反対のことをするのに、どれほど勇気が要ったでしょうか。

ヨセフがイエスの遺体を引き取るということは、仲間からの決別であり、ローマへのささやかな抵抗であり、イエス・キリストへの献身でした。どれほどの勇気がいったか、と思います。

彼は、一人の議員として、ではなく、一人の信仰者として決断しました。「死んでもなお、この方は神の子だ」、という信仰があったからこそ、勇気を振り絞ってピラトに「遺体を引き取らせてください」と願い出たのでしょう。

ヨセフは自分の私財を投げうって、主イエスのために墓を買い、そこに遺体を収めました。

そして数人の女性たちが、その埋葬を見ていたことが記されています。この女性たちは、主イエスが十字架に上げられる時から、ずっと見ていました。この人たちは主イエスの死を見届け、埋葬まで見届けました。

そしてこの女性たちは三日後の朝、その墓が空っぽになるのを見ことになります。確かに死んで、確かに埋葬された方が蘇られた、ということの証人となります。そしてこの女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の礎となっていきます。

この女性たちもまた、小さな信仰者でした。女性たちがしたことは、ただ、キリストを見続けた、ということです。何か人の目をひくような、尊敬されるような社会事業をしたわけではありません。主イエスを遠くから見続けていたこの人たちの小さな目撃証言が、やがて教会の核となっていきます。

私たちは信仰者として日々、何をしているでしょうか。どんな信仰の業をなしているでしょうか。そのように訊かれると誰もが「自分は信仰者として十分なことは出来ていない」と下を向くでしょう。

しかし、取るに足らない、私たちの日々の小さな祈り、小さな信仰の業は、確かに用いられていきます。どんなに小さくても、神がそれを用いてくださるのです。誰か一人の、皆の注目を集めるような立派な信仰の働きによって神の御業が進むのではありません。

使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう記しています。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」

私たちは、自分の信仰の小ささを恥じる必要はありません。神は、そのような見劣りするような部分を、大いに用いてくださるのです。私たちの小さな信仰の決断が、小さな信仰の勇気が、神の救いの御業のために確かに用いられます。

日が沈む前のヨセフと女性たちの姿・業を見つめたいと思います。

3月27日の礼拝案内

次週礼拝(3月27日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:42~47

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、4番、132番、356番、頌栄543番

【報告等】

◇4月3日(日) 雑誌「信徒の友」の取材があります。

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月20日の説教要旨

マルコ福音書15:33~41

「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:38)

「道が拓かれる」

詩編の22編で、このような嘆きが歌われています。

「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」

「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられるほどになった私のからだを、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」

イエス・キリストの十字架はまさに、この詩編の嘆きの言葉が現実になったものでした。そこには、これ以上ない孤独と絶望がありました。ゴルゴタの丘の上、大地は暗くなり、御自分の弟子や仲間もなく、目の前には敵だけがいたのです。

極限の孤独の中、これ以上ない絶望の中で、主イエスは「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばれました。ゴルゴタの十字架を包んだ暗闇は、神に見捨てられた絶望、そしてキリストが担ってくださった私達の罪そのものでした。

十字架刑を受けた人は何時間も苦しむことになります。十字架の横木に釘で手を打ち付けられ、自分の体重を足で支えないといけないのです。肉体の痛みに加えて、呼吸をすることが出来なくて苦しみます。長い時間痛みに苦しみ、ゆっくりと意識を失っていき、最後には窒息死することになります。

しかし、主イエスの死の瞬間はゆっくりと意識を失っていくようなものではなく、突然でした。「大声を出して息を引き取られた」とあります。

ヨハネ福音書には、主イエスの最後の言葉として「成し遂げられた」という一言が記録されています。「成し遂げられた」・・・それはご自分が神の救いの御業を成し遂げた・自分の使命を果たした、という勝利の言葉とも読めます。

しかし、このマルコ福音書では、ただ、主イエスが大声で叫ばれた、という事実だけが記録されていて、何をおっしゃったのかはわかりません。勝利の叫びだったのか、絶望と苦痛の叫びだったのかわかりません。私たちはマルコ福音書に記録された、キリストの死をどのように受け止め、理解すればいいのでしょうか。

主イエスの死は、一人のユダヤ人が息を引き取った、というだけの出来事ではありませんでした。この方の死は、この世界の歴史の大きな転換点でした。

主イエスの死によって、神殿の奥深くで、異変が起こりました。息を引き取られた瞬間に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。

エルサレム神殿には垂れ幕が二つありました。一つは、至聖所の入り口にありました。祭司が一人だけで、その垂れ幕を通って中に入り、香をたく場所・至聖所の入り口を垂れ幕が仕切っていたのです。

そして、至聖所の中に、さらにもう一枚、至聖所の中でも最も神聖な空間を区別する垂れ幕がありました。年に一度、祭司がその中に入り、贖罪の捧げものを捧げるのです。

この二枚の垂れ幕の内、どちらが裂けたのかはわからりません。福音書にはそのことは書かれていません。しかし、どちらの垂れ幕が裂けたのか、ということが大事なのではありません。至聖所に至る垂れ幕が裂けた、ということが持つ、その意味が大事なのです。

20メートル近い高さの垂れ幕がただやぶれたというのではありません。「上から」「真っ二つにされた(受身形)」と記されています。聖書は、神が、上から垂れ幕を裂かれた、ということをつたえているのです。

このことを、ヘブ10:19―20ではこう説明しています。

「兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」

十字架の上でイエス・キリストの肉体が裂かれた、ということはすなわち神殿の垂れ幕が裂かれた、ということであり、それは神への道が開かれた、ということだったのです。

祭司だけが入れることになっていた、神との出会いの場所が、祭司以外の人たちにも開かれたのです。神との出会いの場所を遮っていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、誰もが神の元へと行けるように、道が拓かれました。

イエス・キリストの死が神殿の中にあった垂れ幕を真っ二つに裂いた、ということ、それは、祈りを失い、「強盗の巣」となっていたエルサレム神殿の中心を破壊した、ということでもあります。ここから、神の目に「強盗の巣」とみなされたエルサレム神殿は、ここから崩壊への道をたどることになります。40年後のローマ軍による破壊への秒読みがここから始まったのです。

そしてキリストの死は、人の手によらない霊の神殿を打ち立てました。キリスト教会です。

イエス・キリストの死と共に、もう一つ、不思議なことが起こっています。ローマの百人隊長が、十字架で死なれたイエス・キリストを見上げて「この人は本当に神の子だった」と信仰を告白したのです。この人は十字架刑の責任者でした。この人の指示で主イエスは十字架へと上げられたのです。

百人隊長にとって、ナザレのイエスは、ユダヤ人の王を自称して逮捕され、ローマへの反逆の罪で十字架に上げられた犯罪人でしかなかったはずです。同じユダヤ人たちからさえも最後まで馬鹿にされ、侮辱され、弱々しく死んでいった、一人の犯罪人でした。

十字架の上で侮辱され、絶望の叫びを上げ、弱々しく死んでいくナザレのイエスを見た百人隊長が、なぜか「本当に神の子だった」と信仰を告白した、というのです。

なぜなのでしょうか。主イエスの十字架での最期を見ると、どこにも神の子だと思えるような要素はありません。イエス・キリストの死の何が、この百人隊長を信仰に導いたのか、百人隊長は何をキリストの死に見出したのか、聖書は何も書いていません。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶望の叫びがあり、最後に大声を出して死んだ・・・それだけです。主イエスが十字架の上で華々しい奇跡を行われた、とか、主イエスの祈りにこたえて神の声が聞こえてきた、というのならわかります。しかし、ナザレのイエスはこのゴルゴタの丘で、暗くなったゴルゴタの丘で、無残に、誰の助けもなく無残に死んだのです。

百人隊長は、誰よりも、一番近くでナザレのイエスの死を見ました。しかしこの人はナザレのイエスへの信仰告白から一番縁遠い人だったはずです。異邦人の軍人・ローマの百人隊長で、十字架刑の責任者です。その人が、神の子らしくない死に方をしたイエスを見て、「この人はキリストだ」と信仰を告白したのです。

私たちはこのことに、「神殿の垂れ幕が上から真っ二つに裂けた」ということの意味を見ます。ローマの百人隊長は、ユダヤ人でもなく聖書を良く知っている祭司や律法学者でもありませんでした。異邦人の死刑執行人でした。その人が、暗闇のゴルゴタの丘に神の姿を見出したのです。いや、上から見せられた、と言った方がいいかもしれません。信仰の道が「向こう側から」拓かれたのです。神の御手が働いたとしか言いようのないことです。

キリストの十字架の前で、私達は信仰の分かれ道に立たされます。主イエスを侮辱していたユダヤ人たちに神の子の本当のお姿は見えませんでした。そして死刑執行の責任者であった異邦人が「本当にこの人は神の子だった」と信仰を告白しました。

このゴルゴタの十字架をどう見るか、ということが、私たちの信仰の分かれ道となります。この方の十字架を、神に見捨てられて十字架で死んだ罪人と見るか、世の全てを背負い私の身代わりとなって死んでくださったメシアと見るか・・・罪人の死と見るか、神の子による犠牲の死と見るか。

この時、十字架の周りにいた人たちは主イエスの叫びをどのように聞いたでしょうか。この時、主イエスの周りには弟子達はいませんでした。皆、主イエスを見捨てて、どこかに逃げ去っていました。百人隊長のように、強い思いをもって十字架の主イエスを見ていた人はいなかったのでしょうか。

聖書には、主イエスに従って来た女性たちが、遠く離れてこの十字架を見守っていたことが記されています。その中には、「小ヤコブとヨセの母マリア」という人がいました。この人は、主イエスの実の母マリアです。自分の息子の十字架を、マリアはどのような思いで見たでしょうか。

この女性たちが、後に、キリストの復活の目撃者となり、弟子達にキリストの復活を伝える証言者となります。彼女たちはこの時、自分たちの目で、確かに主イエスの十字架の死を見届けました。三日後に、この方の空っぽの墓も、自分たちの目で実際に見ることになります。そしてこの数人の女性たちの証言が、後のキリスト教会の信仰の拠り所となるのです。

ローマの百人隊長と、女性たち・・・この人たちは、主イエスの十字架の死に何かを見ました。それを見せたのは、聖霊ではないでしょうか。神殿の垂れ幕を真っ二つに裂いた力が、彼らの心の中にあった垂れ幕を裂いて、信仰の目を開かせたのです。このちいさな信仰の証言者たちから、イエス・キリストへの信仰は世界へと広まっていくことになります。

ヘブ6:19―20「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくようなものなのです。」

私たち教会は荒波の中でも錨をおろしてじっと耐える船のようなものです。イエス・キリストという方に魂の錨を下ろし、日々天の故郷へと向かうのです。天の故郷への道は、上から拓かれました。今、私たちも、聖書を通してゴルゴタの丘に立ち、百人隊長や女性たちと一緒に、キリストの十字架に神の子の尊い犠牲を見ています。

イエス・キリストの十字架の死からの復活という、誰にも信じられないようなことを証言した人たちがいて、今の私達の信仰生活があります。誰も信じてくれないことを、声高に「あの方は本当に十字架の死から蘇られた」と伝え続けた人たちがいて、今の私達の礼拝があります。

我々は、日々の信仰の試練の中で、キリスト者たちが伝え続けたキリストの十字架と復活の証言へと立ち返ります。そして、キリストの証言者として用いてくださる聖霊に身を委ねるのです。

3月20日の礼拝案内

 次週礼拝(3月20日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:33~41

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、2番、90番、298番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月13日の説教要旨

マルコ福音書15:33~41

「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」(15:33)

「十字架の闇」

ゴルゴタの丘の十字架上でイエス・キリストがイエス・キリストが息を引き取られた瞬間です。神の救いの御業が現れた、この歴史の中で最も神聖な場所・瞬間です。

ゲツセマネでイエス・キリストは「できることなら、苦しみの杯を私から取り除けてください。しかし、私が望むことではなく、あなたの御心のままに」と何度も祈られました。それは、イエス・キリストが地上の生涯で神と向き合って祈られた最後の時間でした。しかしその祈りの中で示されたのは、神は自分に十字架の死を望んでおられる、ということでした。

主イエスは救い主キリストとして、神の御業のために自分を差し出すために、祈りの戦いを続け、御自分が与えられた苦しみの杯を飲み干すために十字架の死へと進んで行かれたのです。

私達はこの十字架の主イエスの死を見て不思議に思うのではないでしょうか。

「なぜ神の子が十字架で死ななければならなかったのか。なぜ神の子が神に向かって絶望的な叫びを上げなければならなかったのか。なぜこの方の十字架は暗闇に包まれたか」

これらのことについて、考えていきたいと思います。

死の直前、主イエスは十字架の上で叫ばれました。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

これは主イエスが実際に話されていたアラム語で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味の叫びです。神に向かって放たれた、祈りとも、恨み言ともとれる叫びです。これが主イエスの地上での最後の言葉でした。

ここまで主イエスは沈黙を貫いてこられました。最高法院のユダヤ人たちの裁判の中でも、ピラトの尋問に対しても、黙って有罪の判決を受け、言い返すことなく、抵抗することなく十字架へとご自分の身をゆだねてこられた方です。群衆が「イエスを十字架につけろ」と叫んだ時も、ローマ兵から鞭で打たれた時も、兵士たちから嘲りと侮辱を受けた時も、十字架に打ち付けられた時も、主イエスは徹底して沈黙を貫いてこられました。

しかし、息を引き取られる瞬間、沈黙を破り、叫ばれます。

「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。その一言は絶望の叫びでした。信仰者の最後の希望である神を見失った叫びです。

この時主イエスが確かに十字架の上で叫ばれた言葉を、周りで聞いていた人たちは正確に記憶して、聖書にそのまま「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と記録されました。

なぜ神の子が、神に向かって絶望の叫びを上げて死んでいかなければならなかったのでしょうか。私たちにとって、そのことは大きな謎です。

ここまで、ガリラヤからエルサレムに至るまで、この方は神のために働いてこられました。神の国の教えを説き、神の業を行ってこられた方です。

私たちは、ここに神に見捨てられた神の子、という究極の矛盾を見ます。「神の子ですら神から見捨てられる」ということを見ると恐怖を感じます。

主イエスはこの福音書の中で神に向かって「父」と呼びかけてこられました。しかしここで初めて、神を「父」と呼ばず、「神」と呼びかけていらっしゃいます。神と主イエスとの間に、距離があるのです。

主イエスが最後に叫ばれたこの一言は、詩編22編の最初の言葉です。それは自分をむち打ち、嘲る人たちの中で神を求める祈りの言葉です。

神に背を向けたイスラエルは何度も、罪がもたらす苦しみの中で神に向かって祈り叫んできました。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

これは罪の中から救いを求める叫びだ。

私たちはこのキリストの叫びをどう捉えればいいのでしょうか。

聖書は、キリストの十字架の死は、私達罪人の身代わりの死であった、ということを証ししています。そうであるなら、十字架の上のキリストの死は、本当は私たち罪びとがそうなるはずのものであったことであり、「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは、本当は罪びとが十字架の上で叫ぶはずの叫びだった、と言っていいのではないでしょうか。

この方は、この罪の絶望・罪の孤独・罪の悲惨を、十字架の上で身に引き受けてくださり、本当は、私たちが死ぬ際、最後の一息で叫ぶ絶望の言葉を代わりに叫んでくださったのではないでしょうか。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉は本当は神の子キリストが叫ぶようなことではありません。あの方は、私達の罪の叫びを十字架の上まで持って上がっくださったのです。私達が「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばなくてもいいように。

キリストの十字架の死に関して、もう一つ不思議なのは、全地が暗くなった、ということです。

「12時頃、全地が暗くなり、3時まで、主イエスが息を引き取られるまで闇が続いた」、とあります。

日食が起こったのでしょうか。それは考えられません。日蝕は3時間も続かないし、過越祭はそもそも満月の時期なので、日食が起こらない季節です。

偶然3時間もの間太陽が厚い雲に覆われたか、偶然嵐が3時間続いたのか、それは分かりません。

しかし私たちにとって、どんな自然現象によって暗くなったのか、ということが重要なのではないのです。キリストが十字架に上げられた際に起こった「闇」にはどんな意味があったのか、ということが重要なのです。

旧約の預言者アモスがこんな預言を残しています。

アモス8:9

「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子をなくしたような悲しみを与え、その最後を苦悩に満ちた日とする。」

ゴルゴタの神の子の十字架を包む暗闇、それはまさに、アモスが預言した「独り子をなくしたような悲しみの闇、喜びの祭りを悲しみに変える闇」でした。

アモスが預言した「その日」、つまり「裁きの日」が、来たということです。。

真昼に太陽が沈み、白昼に大地が闇となる時。

祭りの喜びが悲しみに、喜びが嘆きになる時。 Continue reading

3月13日の礼拝案内

 次週礼拝(3月13日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書15:33~41

 交読文:詩編8編2節~10節

 讃美歌:讃詠546番、1番、136番、142番、頌栄543番

 【牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月6日の説教要旨

マルコ福音書15:21~32

「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:30)

二千年前に、エルサレムのゴルゴタの丘でナザレのイエスというユダヤ人青年が十字架刑で処刑されたこ出来事の中に、私たちはどれだけのことを見ているでしょうか。

1世紀のユダヤ人の歴史家、ヨセフスという人は、「紀元30年ごろ、エルサレムでイエスという人が十字架で殺された」と記録しています。ただ、それだけを書いています。歴史家ヨセフスにとっては、「そういうことがあった」という、一言で片付く出来事だったのでしょう。

しかし、一世紀のキリスト者たちは、この方の十字架を単なる「罪人(ざいにん)の処刑」では終わらせませんでした。彼らはナザレのイエスという方に関して膨大な証言を集め、福音書を紡ぎあげ、この方の十字架が神の許しと招きの御業であったことを後の世に残したのです。

我々は、このイエスという方の十字架を私たちはどう見るでしょうか。改めて考えたいと思います。

極限の痛みの中、キリストは最後まで、誰からも憐みを受けることなく黙ってすべてを甘んじてお受けになりました。私たちはゴルゴタの丘の光景を通して、神の子が罪人のためにどれだけの痛みを引き受けてくださったのか、そして罪びとの目にどれだけ神の子の本当のお姿が見えていなかったのか、ということを知ります。

人々はここまで、主イエスのことを「ダビデの子」と呼んできました。強いイスラエルを築き上げたダビデ王の再来として期待したのです。しかし主イエスは人々が期待した強いユダヤの王ではなく、羊飼いとしてのダビデの再来でした。ユダヤ人を指導してローマに反乱を起こすメシアではなく、イスラエルのために自分を犠牲にして、神の元へとすべての人を招くメシアでした。

主イエスの十字架の罪状が「ユダヤ人の王」と掲げられたことは、これ以上ない皮肉です。主イエスはローマへの反乱者と一緒に十字架に上げられました。「二人の強盗」というのは、主イエスの代わりに釈放された反乱の指導者バラバの配下の者たちでしょう。まるで、ローマに反乱を起こしたユダヤ人の王であるかのように扱われています。主イエスの本当のお姿とはまるでかけ離れています。人々がどれだけこの方のことを理解できていなかったか、ということがわかります。

しかし、この人間の無理解さえも神の救いのご計画の中に入っていました。主イエスご自身は、御自分がお受けになる痛みについて、「すでに聖書に書かれている」と何度もおっしゃってきました。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に登り、モーセとエリヤと共に話された後、山を下りるときに、主イエスは三人におっしゃいます。「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある」

ユダがご自分を裏切ろうとしていた過ぎ越しの食卓では、「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く」とおっしゃいました。

ゲツセマネの園にご自分を逮捕しに来た人たちには、「これは聖書の言葉が実現するためである」とおっしゃいました。

主イエスは何度も何度も、ご自分に与えられる痛み、侮辱、すべての人から与えられる死について、「すでに聖書に書かれている・預言されている」とおっしゃって来ました。ゴルゴタの丘でこの方がお受けになった痛みは全て神のご計画の内にあったのです。

主イエスは弟子達に受難を予告されました。

「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人のことを侮辱し、唾をかけ、鞭うったうえで殺す」

全て、その通りになっています。

ユダヤの指導者たちから有罪とされ、ローマ兵からは鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、頭をたたかれ、唾を吐かれました。そして今、十字架の上でユダヤ人からの痛みをお受けになっています。

それだけではありません。

「そこを通りがかった人」から、「祭司長たちと律法学者」たちから、そして「一緒に十字架につけられた人たち」からののしられました。

主イエスの十字架の周りには誰一人味方はいなかったのです。「たとえ死ぬことになってもあなたを見捨てることはありません」、と言った弟子達でさえ一人もいません。近くにいて主イエスの受難の予告を聞いていた弟子達でさえそうでした。

聖書の言葉をよく知っていた祭司長、律法学者たちですら、主イエスの十字架に神の御心を見出すことはありませんでした。十字架に上げられたナザレのイエスを初めて見るユダヤ人たちならなおさら、この方のことを理解することはなかったでしょう。

さて、もし私たちが、この時ゴルゴタの丘のキリストの十字架を見たら、なんと声をかけたでしょうか。「この方は神の子で、今私たちの罪を背負って死のうとしてくださっているのだ」と言えたでしょうか。頭を振りながら、周りにいた人たちと一緒に、この方に向かって侮辱の言葉を吐いたのではないでしょうか。

キリストは十字架で血を流すご自分のお姿を通して、私たちの罪を教えてくださっている。

十字架に上げられた主イエスに向かってユダヤ人たちは様々な侮辱の言葉を吐きました。

「神殿を打ち倒しし、三日で建てる者」

「メシア、イスラエルの王」

彼らが侮辱するために吐いた言葉は皮肉にも、真実でした。

この方はエルサレム神殿を打ち倒し、霊の神殿を三日でお建てになる方でした。この方は本当にメシアであり、イスラエルの王でした。

イエス・キリストの十字架の死は、確かにエルサレム神殿の終わりでした。古い神殿はここで滅びるのです。この後、キリストが息を引き取られた瞬間に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けます。キリストはご自分の命と引き換えに、神へと通じる道を拓かれるのです。

十字架の死から三日後、キリストは復活され、「人の手によらない」神殿、霊の神殿、神の畑を新しく打ち立てられます。キリスト教会です。

人々は少しずつ、自分たちが十字架で殺したナザレのイエスが実はメシアであり、イスラエルの王、この天地の王・神であることに気づいていくことになります。

「他人は救ったのに、自分は救えない」と人々は十字架のキリストに向かって叫びました。確かに、主イエスはこれまで多くの人を奇跡の業で癒し、悪霊を追い出してこられました。「あれだけの力があったのだから、十字架から降りることだってできるはずだ」、そう考えたのでしょう。

主イエスは以前、ご自分に与えられる痛みの意味について弟子達にこうおっしゃいました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」

「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」

この方は、自分を救えないのではないのではありません。救わないのです。自分を救うことが許されていないのです。十字架から降りることは許されないのです。神が、御自分に十字架で死ぬことをお求めになっているからです。今、身代金としてご自分の命を自ら差し出すことが神から与えられた使命であるということをご存じだったのです。契約の血をご自分の体から流すことが求められているのです。

イエス・キリストは十字架の周りで御自分を侮辱する一人一人を、その罪から救いだすために、今痛みを引き受けていらっしゃいます。主の十字架の周りで叫ぶ人たちは、自分たちの罪をこの方にどんどん負わせています。

この十字架の三日後に、人々は墓の中からよみがえられた主イエスを見ることになります。一人や二人ではありません。キリストの弟子達だけではありません。多くの人が殺されたはずのイエスを見ました。

復活なさったキリストにペトロはもう一度招かれ、宣教へと押し出されました。そしてエルサレムの人たちに告げました。 Continue reading