ルカ福音書24:36~49
「『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する』」
イースターの朝、女性たちが、主イエスの墓が空になったことを弟子達に伝えました。このことは弟子達を混乱させました。
「主イエスのご遺体を誰かが盗んだのか?」
女性たちは墓の中で天使から「あの方は蘇られた」と告げられたことも言いました。しかし弟子達はそんな話を信じませんでした。
その後、エマオへと向かう二人の弟子達が復活なさった主イエス・キリストに出会います。主イエスは二人とエマオまで共に歩み、聖書を解き明かし、御自分の復活が聖書の預言の実現であることをお教えになりました。
そして今、イエス・キリストはエルサレムで、弟子達の真ん中に立って、復活なさったご自身の姿を現わされました。
弟子達は主イエスを見て、「亡霊を見ているのだと思った」、と記されています。この時代、死者の霊が地上をさまよう、ということは一般的に信じられていましたが、死者が実際に肉体を伴って蘇る、ということは考えられないことでした。
主イエスは弟子達に「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」とおっしゃいました。そしてご自分の手と足をお見せになってご自分が亡霊ではないことを示されました。
弟子達は、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」とあります。喜びと、信じられない、という思いが心の中で同時に湧き上がって来て、弟子達の混乱は続きました。
このように、実際に主イエスの復活を見ても揺れている弟子達を見ると、信仰者として頼りなく見えます。しかし、これが信仰者の偽りない姿ではないでしょうか。
主イエスが以前「私は十字架で殺されるが三日目に復活する」とおっしゃっていたとはいえ、実際にそれを見ると、簡単に受け入れられるようなものではないでしょう。むしろ、自分が見ているものの不思議さに圧倒され、どうしていいのか分からなくなるのではないでしょうか。
実は、私たちの信仰はそのようなところから始まるのです。私たちの信仰は、いつも新鮮な驚きで満ちているはずなのです。信じられないことを目の当たりにして、不思議さに打たれ、理解しようにも理解しきれない弟子達の姿は、まさに信仰者の姿そのものです。
「信仰」というのは、驚きだと思います。聖書に記録されている、信じがたい復活のイエス・キリストとの出会いに驚き、不思議さに打たれながらキリストの言葉に聞き従わざるを得ない・・・それが信仰生活でしょう。
本当は、死人のよみがえりを信じない方が、楽なのです。聖書を読んで、「そんなバカなことがあるはずがない」、と信仰の戦いを放棄することの方が楽でしょう。しかし、信仰というのは、その葛藤、その戦いから降りないことです。その驚きは、私たちが死ぬまで続きます。
主イエスを十字架で失った弟子達が、最初に与えられた復活のキリストの言葉は「あなたがたに平和があるように」でした。
弟子達は恐怖の中にありました。自分たちの先生が殺された、次に、自分たちはどうなるのだろう、という恐怖がありました。
そこで「あなたがたに平和があるように」というキリストの声を聞かされます。恐れの中にあるキリスト者に与えられるキリストの慰めの言葉です。自分ではどうしようもない時、道を失ったときに信仰者だけが聞くことが出来る、キリストの言葉です。私たちは祈りの中でこのキリストの声を聞くから、主の復活を信じ続けることが出来るのではないでしょうか。
恐怖の中にある者、道を見失った者が一番聞きたい言葉が、信仰の証言を分かち合う群に与えられるのです。
さて、復活なさったイエス・キリストは、十字架につけられる前と同じように、弟子達と共に食卓を囲み、依然と同じように神の国の教えを説かれました。その教えの内容は以前と同じでした。神の国の教えです。
神はあなたを愛していらっしゃる、あなたが神の元に立ち返り神と共に生きることを求めていらっしゃる、ということを変わらずお伝えになりました。
主イエスはご自分の身に起こった十字架と復活を「聖書に書かれている通り」とおっしゃっています。この方の死と復活は、全て神のご計画として旧約聖書の中に預言されていたのです。
この時の弟子達の驚きに見るように、聖書に記されている奇跡の中で、キリストの復活ということが一番信じられないことではないでしょうか。
神の子が罪びとの罪を背負って十字架で死んでくださり、復活し、天の上り、聖霊によって私たちを今も導かれている・・・そう聞くと、あまりに話が大きくて、簡単に受け入れることはできないでしょう。
しかし、それこそが、聖書が全体を通して私たちに伝えようとしている救いなのです。
後に、キリスト教会の中からキリストの復活を信じない人たちが出てきた時、パウロは手紙の中でこう書いています。
「キリストは聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死に、葬られました」
「キリストは聖書に書いてある通り、三日目に復活しました」
イエス・キリストに起こったことは、全て旧約聖書に記録されている預言の言葉の実現だった、と力を込めて伝えるのです。
イエス・キリストが、以前、弟子達にたとえ話をお聞かせになりました。こういう内容だ。
贅沢に遊び暮らしていた金持ちと、貧しいラザロという人がいました。金持ちは死んだ後、陰府に落ちます。そして貧しかったラザロはアブラハムと一緒に宴の席に座っていました。
金持ちは、生前の自分の生活を悔い改めて、アブラハムに向かって願いました。「自分がいるところに自分の兄弟たちが来ることのないように、ラザロを遣わしてください」。しかし、アブラハムは、「今聖書を読んで信じないのであれば、死者が復活して神の言葉を伝えたとしても信じないだろう」、と言いました。
考えさせられるたとえ話です。もし今、私たちが聖書を読んでイエス・キリストの復活を信じないのであれば、実際に誰かが生き返って「復活はあるのだ、永遠の命はあるのだ」と言っても信じないだろう、ということです。
私たちには、聖書に記録されたキリストの復活証言があります。聖書の証言を通して、私たちは今も生きて働かれるイエス・キリストとの交わりを知ります。もし聖書を読んで、それを受け入れないというのであれば、実際に復活なさったイエス・キリストのお姿をこの目で見たとしても、信仰に導かれることはないでしょう。
逆に言えば、私たちには、聖書があれば十分なのです。私たちは、驚きに打たれながら、復活のイエス・キリストの慰めの言葉を聞きながら生きていきます。
さて、復活なさったキリストは弟子達に使命を託されました。それはキリストの復活を証言する、ということでした。
何か人の目を集めたり噂になったりするような特別なことをしろとおっしゃるのではありません。ただ、キリストについて見聞きしたこと、つまり、私たちが経験したイエス・キリストとの交わりを隣の人に伝えなさい、ということです。
この使命は、今の教会まで受け継がれています。それぞれの、イエス・キリストとの出会いを、キリストと共にする歩みを、キリストから聞かせていただくみ言葉を隣の人に証言するのです。
主イエスは48節でこうおっしゃっている。
「あなたがたはこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」 Continue reading →