MIYAKEJIMA CHURCH

5月22日の礼拝案内

 次週礼拝(5月22日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄1:13~26

 交読文:詩編9編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、13番、164番、344番、頌栄539番

【報告等】

◇6月5日(日)はペンテコステ礼拝となります。愛餐会があります。どうぞご予定ください。

【牧師駐在日】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月15日の説教要旨

 

使徒言行禄1:6~12

「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(1:7)

使徒言行録には、復活のキリストと共に過ごし、聖霊を注がれ、自分たちが思ってもいなかったところへと向かっていく弟子達の姿が描かれています。私達はその弟子達の姿を通して、自分自身に働く聖霊の力というものについて思いを巡らせていきます。

聖書に記録されている出来事は、決して過去のことではありません。キリストを見捨てた人、キリストを知らなかった人、キリストに背を向けていた人にキリストが出会ってくださり、その人たちがキリストを証しするようになる姿が記されています。これはキリストの時代から今に至るまで、実は私たちが生きる日常の中で起こっていることです。

私達は、使徒言行録を通して、聖霊に導かれながらキリストの復活を証しする弟子達の姿に信仰者としての自分を重ねながら、彼らと共に旅をすることになります。

さて、今日は福音宣教がキリストから弟子達へと引き継がれた、という場面を読みました。ルカ福音書の初めを読むと、この時代、人々は神の救いを待っていた、ということがわかります。

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ「差し迫った神の怒り」を伝え、「悔い改めよ」と民衆に向かって叫びました。人々はそれを聞いて恐れ、徴税人も兵士もヨハネの下にやって来て、「私はどうすればよいのですか」と尋ねてきたことが記されています。

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないか、と皆心の中で考えていた」、と福音書に書かれています。

この時代、誰もが、救い主を待っていたのです。どういう救い主か、というと、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主です。

主イエスの弟子達もそうでした。弟子達は復活なさった主イエスから神の国の教えを聞いて、こう質問しています。

「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」

弟子達が期待していた「神の国」というのは、ローマから独立して国家となった、強いイスラエルのことだったようです。彼らは、復活なさった主イエスに、自分たちをローマ帝国の支配から救い出して、ユダヤ人の国、イスラエルという国が立て直してくださることを期待しました。

十字架の死から蘇られた復活の主が自分たちの目の前にいて、「神の国」の教えを語ってくださっています。肉体の死をも克服された方が、「君たちに聖霊が下る」とおっしゃっているのです。自分たちが武器をもってローマに向かって立ち上がる日は近い、と思ったでしょう。

しかし、主イエスは「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」という弟子達の質問に対して、「そうだ」とも「違う」ともおっしゃっていません。ただ、「その時は、君たちにはわからないのだ」とおっしゃいました。主イエスがおっしゃったのは、ただ、「神の救いの時が迫っている」ということだけでした。それがいつなのか、そしてどういう救いなのかについては具体的に何も明らかにされないのです。

弟子達は、心の中で困惑したのではないでしょうか。「もうすぐ自分たちはローマを相手に戦うのか」と考えていた弟子達は、主イエスから「聖霊の力が与えられる時を待て」と言われ、「君たちは私の証人となるのだ」と言われたのです。

嚙み合っていない主イエスの御心と弟子達の期待・・・私たちは、この時の弟子達の期待感と困惑を理解できるのではないでしょうか。

私たち自身、キリスト者として「今自分が何をすればいいのか」、ということを具体的に知りたいと願います。キリスト者として、「あれをすべきではないか、これをすべきではないか」、と考えます。しかし、考えれば考えるほど、「自分は何もできていないのではないか」、と思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、冷静に考えると、自分が良いと思うこととキリストがお求めになっていることが必ず同じとは限りません。イスラエルという国の立て直しを期待していた弟子達に聞かされたのは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」いう気の言葉だった。

弟子達にとって、それは意外な使命だったでしょう。イエス・キリストの証言者となること、それがこれから弟子達に求められた戦いだったのです。自分が聞いたイエス・キリストの教えを、そしてイエス・キリストという方を地の果てまで伝えていく、その先に神の国がある、ということでした。

私達は、弟子達がどれだけ信仰者として弱い人たちだったのかを知っています。一度は主イエスを見捨てた人たちです。その人たちが今、キリストを伝える使徒として新たに召されているのです。この人たちは、特別に強い人たち、偉い人たちではありませんでした。むしろ、普通の弱い人たちでした。

弟子達は恐れたのではないでしょうか。「地の果てまでイエス・キリストを伝えるなどという大それたことが自分にできるのか」、と心の中で思ったでしょう。

弟子達はこの後聖霊を注がれ、福音宣教へと向かっていくことになります。彼らが伝えたのは、彼らがもっていた立派な考えや哲学ではありませんでした。彼らが実際にキリストから聞いたこと、実際にキリストの周りにいて見たことでした。それが、弟子達がイエス・キリストを地の果てまで伝えるために持っていた唯一の武器でした。

そして弟子達に託されたその福音宣教の業は今、キリスト教会に受け継がれています。

このように見て行くと、私達は思うのではないでしょうか。

「自分には弟子達のように、直接イエス・キリストの教えを聞いたわけではない、直接キリストの業を見たわけではない。自分には弟子達のように直接キリストから言葉をいただいたり、食卓を囲んだりしたことはないから、何をすればいいのかわからない。」

確かに、私たちはイエス・キリストが地上にいらっしゃった時代を生きたわけではありません。しかし、「キリストを体験した・キリストを感じた」という体験はあるのではないでしょうか。「信じがたい聖書の言葉は、それでも真理だ」、と思える経験があったから、今この礼拝に身を置いているのではないでしょうか。「あの時、確かにキリストが私と共にいてくださった・確かにキリストを近くに感じた」と思えることがあって、キリストに信頼して、今こうして礼拝の中にいるのではないでしょうか。そこには、確かに聖霊の働きがあります。

主イエスはこうおっしゃったことがあります。

「誰でも、人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれた時は、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」

使徒言行録を見ると、弟子達がイエス・キリストの証言をするときには、「聖霊に満たされて」語った、と記されています。

私達も同じです。

私達も、語るべきこと、なすべきことは、聖霊が導いてくれるのです。私達にとって、ただなすべきことは、「私はイエス・キリストの仲間だ、キリスト者だ」と言い表すことです。

主イエスは、ガリラヤからエルサレムへと旅をする途中で、3人の弟子達を連れて山へ登られたことがあります。3人の弟子達は山の上でモーセとエリヤと語り合われる主イエスを見ました。

聖書には、「弟子達は沈黙を守り、見たことを当時誰にも話さなかった」とあります。ペトロたちは山の上で見た光景を、自分たちの中だけに留めておこうとしました。「私はモーセとエリヤと、先生が語り合うのを見た」と言っても信じてもらえない、と思ったのでしょう。「誰かに話して馬鹿にされるよりも、黙っている方がいい」と思ったのでしょう。

しかし、十字架の死から復活なさった主イエスはペトロをはじめ弟子達に「地の果てに至るまで、私のことを伝えなさい」と言って派遣されました。黙っていることは許されなかったのです。

私達も同じなのです。自分がイエス・キリストの仲間であることを言い表すことには、痛みが伴います。しかし、キリストがまず私達罪人の仲間となってくださって、十字架で痛みを担ってくださったことを覚えたいと思います。

弟子達はこの後聖霊を受け、キリストの使徒と呼ばれるようになり、キリストのために様々な痛みを自分の身に負うことになりました。キリストを伝えるということは、「キリストと痛みを共にする」、ということでもあります。

使徒たちは、キリストのために苦しむことを彼らは自分たちの信仰の喜びとしました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜んだ」と使徒言行禄の5章に記されています。私達は聖霊によって変えられていくのです。

主イエスがガリラヤで弟子達を宣教の旅へと派遣された時、弟子達に「何も持っていくな」とお命じになりました。「身一つで行け」、とおっしゃったのです。

弟子達はその言葉に従い、ガリラヤを回りながら神の国の到来を伝え、その先々で信仰者たちによって生活を守られました。不思議です。キリストは、信仰者が行く先で、先回りして受け入れてくださるのです。

私達はイエス・キリストを証しするために何か特別に持っていなければならないようなものはありません。イエス・キリストの証言の他何も持っていない弟子達は、行く先々で聖霊によって、不思議な仕方で宣教の道が開かれていきました。聖霊は今もキリスト教会のために、私達の見えないところで天の国へと導き続け、私達の知らないところに道を準備してくださっています。

キリストが弟子達に託された福音宣教の業は、今のキリスト教会、私たちにまで受け継がれてきました。私たちはキリスト者として、キリストの証人として今を生きています。

身一つでいいのです。あとは全て、聖霊が備えてくださり、私達を用いてくださる。聖霊に身をゆだねて、「私はキリストの仲間です」を言い表していきましょう。