MIYAKEJIMA CHURCH

12月25日の礼拝案内

次週礼拝(12月25日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: ルカ福音書1:26~38

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、109番、103番、112番、頌栄540番

【報告等】

◇12月24日(土)19時より クリスマスイブ礼拝があります。

◇12月25日(日)はクリスマス礼拝となります。聖餐式があります。礼拝後、愛餐会があります。どうぞお残りください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月18日の説教要旨

創世記21:1~22

「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(21:17~18)

神はこれまで何度もアブラハムとサラの二人に、「あなた方の間に男の子が生まれるだろう」と予告して来られました。15章、17章、18章にそのことが記されています。神は、男の子の誕生だけでなく、「その子をイサクと名付けなさい」と、名前まで備えていらっしゃいました。

しかし、その神の言葉をきいたアブラハムもサラも、「年老いた自分たちに子供が生まれるはずがない」と、笑って来ました。笑い飛ばしてきた、と言ってもいいでしょう。

しかし、私たちが今日読んだ創世記21章で、神がおっしゃった通りアブラハムとサラの間にイサクが生まれたことが記されています。人間には考えられないことを神は成し遂げられました。年老いた夫婦の間に、命を創造されたのです。

イサクが生まれてサラは「神が私に笑いをくださった」と喜び、神の御業を讃美しています。サラのこれまでの笑いは不信仰の笑いでした。しかし今、不信仰の笑いが、信仰による笑いへと神によって変えられたのです。

アブラハムとサラという年老いた夫婦の間に神の恵みによって男の子が生まれた・・・そのことだけを見れば、これは喜びの出来事であり、私たちを神への賛美へと導く奇跡だと、手放しで言えるでしょう。

しかし、イサクの誕生は単なる喜ばしい出来事として終わるものではありませんでした。今日私たちは、イサクの誕生の場面だけでなく、その後に起こった出来事も見ました。イサクが誕生したことにより、ハガルとイシュマエルという親子がアブラハムの下から追放されることになってしまうのです。

イサクが誕生したことによって生み出される悲劇、そしてそれを超えて働いて行かれる神の御業を、視野を広くもって見ていきましょう。

さて、イサクの誕生の場面を読むと面白いことに気づきます。アブラハムが出てこないのです。イサクの誕生の際に、「アブラハムとサラが一緒に喜んだ」、という書き方はされていません。イサクが乳離れした日に、アブラハムが盛大な祝宴を開いた、ということだけが8節に書かれています。イサクが2歳か3歳になったぐらいで、ようやくアブラハムが登場するのです。

21章の最初を見ると、「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われた」とあります。「サラを顧み、サラのために」行われた、とあるように、聖書は、アブラハムではなくサラの方に焦点を当てています。そして、イサクが誕生して喜んだサラの言葉だけがここに記されているのです。

私たちはここで、サラという女性に注目したいと思います。それほど、このサラという人は、神の祝福に相応しい人だった、ということなのでしょうか。

サラがこれまで何をしてきたのか、どんな人だったのかを見返すと、とても「神の祝福に相応しい人だ」と断言することはできないでしょう。サラは、アブラハムの家庭をかき乱してきたような人でした。

サラは、自分に子供ができないので、自分の女奴隷であったハガルを夫のアブラハムに側女として差し出し、跡継ぎを得ようとしました。ハガルはアブラハムとの間に子供を宿すと、サラのことを軽んじるようになり、これに怒ったサラは、「ハガルが私を軽んじるのはあなたのせいだ」と夫アブラハムを非難して、ハガルに辛く当たるようになりました。あまりにサラがハガルにつらく当たったのでハガルはサラの下から逃げ出してしまったほどでした。

逃げ出したハガルはサラの下に戻ってきました、サラの下にイサクが生まれ、ハガルの息子イシュマエルがイサクをからかっているのを見ると、サラは不安になり、またハガルを追い出そうとします。

サラはアブラハムに言いました。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎなるべきではありません。」アブラハムは悩んだ末に、ハガルとイシュマエルと追放することにしました。

サラは、そのような人でした。ハガルにつらく当たったり、ハガルとイシュマエルを追い出したりするサラを見ると、妻としても母としても自己中心的で、わがままし放題の人に見えるのではないでしょうか。

それなのに、聖書をよく読んでみると、神はそのようなサラを中心にご自分の計画を進めていかれるのです。

ハガルが女主人サラにいじめられて逃げ出した時、神はハガルに出会ってこう言われた。「女主人の下に帰り、従順に仕えなさい。」神は、自分をいじめる女主人サラの下に帰りなさい、とおっしゃるのです。残酷な命令のように聞こえるのではないでしょうか。

それだけではありません。「ハガルとイシュマエルの親子を追い出してください」とサラから言われて苦しむアブラハムにも、神は「全てサラが言うことに聞き従いなさい」とおっしゃいました。サラが望む通りハガルとイシュマエルを追い出しなさい、とおっしゃるのです。

このようにして見ていくと、私たちは戸惑うのではないでしょうか。神はなぜサラのような身勝手で、残酷なことを言う女性の味方をなさるのでしょうか。私たちの目には不思議に見えます。

私たちが今日読んだアブラハムの一家に起こったことを見ると、人間の醜さや愚かさ、冷酷さが見えてきます。太古の昔の人たちの家庭は複雑で厳しいものだった、と思えるのではないでしょうか。

しかし、家族の難しさ、人間関係の複雑さというのは、昔も今も変わらないだろう。形を変えて、いろんなむつかしさがあります。家族だから当然お互い愛し合い、受け入れあうことが出来る、などということはありません。それが現実ですし、その現実を聖書は私たちに見せつけます。

しかし、聖書を読む私たちが忘れてならないのは、その人間の営みの中に、神の働きが流れている、ということなのです。創世記のアブラハム物語をよく読んでいくと、悩み苦しんでいる一人一人に、神が確かに寄り添っていらっしゃることがわかります。

ハガルがサラから逃げ出した際、神はハガルを追いかけ、「あなたが生む男の子にイシュマエルと名付けなさい。イシュマエルから大きな国民が生まれる」と祝福を告げられました。その祝福と共に、ハガルはサラの元へと帰ったのです。

アブラハムの下から追い払われたハガルとイシュマエルがベエル・シェバの荒れ野で死ぬのを待ちながら泣いていた時、神がまた追いかけてきてくださいました。「ハガルよ、恐れることはない。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする」と再び祝福なさいました。

神には、大きなご計画があった。

イサクとイシュマエルという二人の男の子から大きな国民を生みだす、というご計画でした。

逃げ出したハガルはサラの下に戻る必要があった、そしてハガルとイシュマエルはイサクから離れる必要があったのです。神は、悩んだり苦しんだり泣いたりするアブラハムの家族一人一人に寄り添いつつ、ご自分の計画のためにそれぞれを導かれていますハガルにもサラにも、イサクにもイシュマエルにも、それぞれに道を用意していかれるのです。

そしてその道は、イエス・キリストの誕生へとやがてつながるのです。

ヘブライ人への手紙に、こういう言葉がある。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

そして、旧約聖書に出てくる信仰者たちの名前を挙げられ、こう書かれています。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」

「彼らは天の故郷を熱望していたのです」

アブラハムも、サラもハガルも、イサクもイシュマエルも、神のご計画の実現を自分の目で見ることはできませんでした。自分の目で、「大きな国民」を見ることはできませんでした。しかし、自分の思いをはるかに超えた神の祝福の計画を信じて、それぞれの地上での命を生き抜いたのです。

イエス・キリストは、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、こうお応えになりました。

「神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」

私たちは、アブラハムの家庭内で起こった醜い争いの中に、神の恵みの支配、神の国を見出すことはむつかしいでしょう。祝福されたはずのアブラハムの一家には衝突や葛藤がありました。 Continue reading

12月18日の礼拝案内

次週礼拝(12月18日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記21:1~22

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、73番、108番、354番、頌栄540番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月11日の説教要旨

創世記19章

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(19:29)

ソドムで起こったこと、そしてソドムに起こったことを続けて読みました。

ソドムの町に入った二人の旅人を暴力で自分たちの支配会に置くために、町中の男たちがロトの家にやって来ました。ロトはなんとか旅人たちを守ろうとした、守り切ることはできませんでした。戸が破られようとしたその時、二人の旅人たちが出てきてロトを家の中へと引き入れ、ソドムの男たち全員に目つぶしを食らわせ、戸口がわからないようにしました。

この二人の旅人たちは、神のみ使いでした。男たちが目を開けられなくなった隙に、使いたちはロトに自分たちが何者であるかを告げ、身内の人たちを連れてソドムの町から逃げるように伝えました。

ロトは嫁いだ娘たちの婿たちのところへ行き、「ここから早く逃げよう。主がこの町を滅ぼされるのだ」と言いましたが、婿たちは冗談だと思い、従いませんでした。ロトは一晩中婿たちを説得し続けていたようです。

夜明け近くなると、み使いたちはロトを急き立てました。「早く、妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に降る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」

16節を見ると、まだ「ロトはためらっていた」、とあります。婿たちがロトの言葉を信じない、ということは、婿たちに嫁いだ自分の娘たちもソドムの町から出ない、ということです。娘たちも滅びに巻き込まれてしまう、ということでした。

16節には、「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。どうやら三人目の旅人、主なる神ご自身が、アブラハムとのやりとりを終えて、追いつかれたようです。主はロトのためらいをご覧になって、「憐れまれ」ました。神は、ロトの痛みをご存じでした。

しかしそれでも、正しい人ロトが滅びに巻き込まれることを良しとされませんでした。アブラハムに「正しい人を巻き込むことはしない」、と約束された通り、神は正しい人ロトの一家をみ使いに手を取らせて町の外へと連れて行かれました。

そして言われます。

「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」

ソドムの町から出て行く、ということはロトにとって降ってわいたような話でした。昨日まで、この町から出て行くなどということは考えてもいませんでした。しかし、いつの間にかソドムの罪は膨らみ、もう滅びるしかないところまで来ていたのです。

ソドムからの脱出のためにロトに与えられた時間は一晩だった。私たちはここで、出エジプトの思い出すことが出来るのではないでしょうか。

エジプトでの奴隷生活に苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞かれた神は、モーセをお選びになり、イスラエルの民をエジプトから救い出されましたが、その際、イスラエルの民がエジプトから出て行くために与えられた時間は、やはり、一晩でした。あわただしく、ほとんど何も持たず、イスラエルはただ神の導きを信じて出て行くしかありませんでした。そこからイスラエルにとって長く、不安な旅が始まったのです。

この時のロトは、まさに、エジプトから出て行こうとするイスラエルそのものです。ロトはソドムから出て行くことをためらいました。「命がけで山に逃れよ」とおっしゃる主に対して「主よ、できません」と言いました。まだソドムに未練があったのです。

ソドムは肥沃な土地で、ロトも豊かな生活が出来ていました。ここまで自分の生活を築き上げてきたのに、突然町を離れ、肥沃な低地から山に移って新しく厳しい環境で生活をまた築いていくということは大変なことでした。ソドムから出て行ったら次はどんな土地で、どんな生活になるか分からないのです。

「山に逃れなさい」とおっしゃる神に対して、ロトは、「できません。あそこにある小さな町なら近いので、あそこで私の命を救ってください」と言いました。ロトは豊かな低地の生活を捨てきれなかったのではないでしょうか。

しかし、交渉してくるロトの願いを神は聞き入れられました。ロトの一家がその小さな町ツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラの上に天から、硫黄の火を降らせ、滅ぼされました。こうしてロトの一家は、罪に対する滅びから神ご自身の手によって救い出されたのです。

これで全てが終わったか、というとそうではありませんでした。ロトの妻が、「振り返ってはいけない」と言われていたにも関わらず、後ろを振り向いたので塩の柱になってしまったのです。

聖書はこのことを26節でただ一言、「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」と簡潔に書き記している。ロトの妻に起こったことを、聖書は全く何も解説を加えていません。しかし、塩の柱とされたロトの妻の姿は、大きな警告となって私たちの目の前に示されているのではないでしょうか。

ロトの妻は、ただ、後ろを振り向いた、というだけのことでした。しかし、神の救いの中で、後ろを振り向いいてしまうということがどれほど恐ろしいことなのか、ということを聖書は伝えているのではないでしょうか。

出エジプトの際、旅の中でイスラエルは何度もエジプトを振り返りました。「荒野を旅するよりも、エジプトで奴隷であった時の方がマシだった」、と何度もモーセに訴えました。そのたびに、イスラエルは神から罰を受けました。

神はエジプトから脱出したイスラエルを荒れ野で養いつつ、その後もイスラエルに40年間寄り添って共に歩み、約束の地まで導き入れられました。そしてモーセは、40年の荒れ野の旅を最後に振り返り、「この荒れ野の40年は、神に委ねることを学ぶための旅だったのだ」、とイスラエルに語りました。

ロトの一家がソドムから救い出されたのは、ある意味で小さな出エジプトでした。罪の支配から、神が救い出してくださり、神の御手の内に、恵みの支配へと立ち帰って行く旅でした。しかし、ロトの妻は、ソドムの町を振り返ってしまいました。それは、罪の支配を振り返ってしまった、ということでしょう。

イエス・キリストは弟子達に、ソドムの出来事についてお教えになっている。

「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失うものは、かえって保つのである」

キリストは、ソドムの滅びの出来事を、過去のこととしてお話しなさっていません。「人の子」、つまり御自分が世に再び来られる時に、同じことが起こる、とおっしゃっているのです。私たちは、ソドムの滅びを、むしろ将来自分たちに起こることとして見つめなければならないのです。

そのようにして見ると、塩の柱とされたロトの妻の姿は、私たちにとって大きな教訓となるのではないでしょうか。ロトの妻は、み使いの救いの導きに全てをゆだねることが出来ず、後ろを振り返ってしまいました。その一瞬の迷い・未練が、どんなに恐ろしいことになるのか、を私たちはここで学びたいと思います。

さて、ソドムの滅びを離れたところから見た人がいました。アブラハムです。アブラハムは朝早く起きて、神と語り合った場所に行き、山の上から低地を見ました。昨日までそこにあった町が、なくなり、地面から煙が立ち上っている光景が目に飛び込んできました。

聖書は、このことも非常に簡略に書いています。神による滅びを見たアブラハムが何を思ったのか、ということは何も記されていません。私たちはただアブラハムの心情を想像するしかありません。

ソドムの町には10人の正しい人すらいなかったのか、という虚脱感があったのではないでしょうか。そして罪に対する神の裁きの厳しさも、アブラハムの心を打ったのではないでしょうか。

私たちは、聖書が、創世記が、我々読者に何を伝えようとしているのか、アブラハムの立ち位置に立って、しっかりここで見つめなければならないと思います。創世記には、人間の罪が描かれています。神が裁きを行われ、罪を滅ぼし、そして罪の中から信仰者を救い出す様が描き出されています。そして創世記は私たちに不信仰の結末を生々しく見せるのです。

神は人の罪を決して見逃すということはなさいません。信仰が豊かな霊の実を結ぶように、不信仰も、罪の実を結ぶのです。不信仰が結ぶ実、それは、滅びです。

不信仰の町ソドムは神によって滅ぼされました。今一度、ソドムの罪とは何だったのかを振り返りたいと思います。

預言者たちが、このソドムの滅びについて書いている。

紀元前626年ごろ、預言者ゼファニヤがこんな預言を残しています。

「金も銀も彼らを救い出すことはできない。主の憤りの火に、地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる」 Continue reading

12月11日の礼拝案内

 次週礼拝(12月11日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記19:19~33

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、71番、98番、263番、頌栄540番

【報告等】

◇12月11日(日)礼拝後、役員会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月4日の説教要旨

創世記19:1~11

「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。(19:4)

アブラハムの元に三人の旅人が訪れました。彼らはアブラハムに男の子の誕生を予告し、自分たちがソドムに向かっていることを告げました。「ソドムで正義を求める叫びの声が聞こえる。これからソドムに行って、どうなっているのか様子を見に行く。」

アブラハムは、この旅人たちがソドムの町にはびこる悪をぼしに行こうとしていることを知りました。しかし、ソドムの町には、自分の甥のロトが住んでいたので、旅人に詰め寄ります。「あなたは、正しい人たちを、悪い人たちと一緒に滅ぼしてしまうのですか。」旅人は、「もしソドムの町に正しい人が10人いたら、その人たちのために、町全部を赦そう」と約束してくれました。

三人の旅人の内二人が、先にソドムに到着しました。ここで聖書は初めて二人の旅人のことを「み使い」と書いています。二人の役目は、自分たちの元にまで届いた叫びの通りかどうか、ソドムの町の様子を確かめることでした。夕方にソドムの町に到着した二人の旅人はどうやら、どうやら、町に入ったところにある広場で夜を迎え、朝まで過ごすつもりだったようです。

この二人の神のみ使いを最初に見つけたのは、アブラハムの甥のロトでした。ロトは、ソドムの町の門のところに座っていたのです。町の門の入り口に座っていた、ということは、ロトがこの町の指導的な立場にあった、ということを意味します。

神と二人のみ使いがアブラハムの元を訪ねた時、アブラハムは天幕の入り口にいて三人を招き入れましたが、それはアブラハムが、天幕の指導者だったからです。

同じように、ロトも町の指導者の一人として、ソドムの町の門、入り口に座っていました。指導者として、町を出入りする人たちを把握しておく責務があった、ということでしょう。

しかし、ソドムの町の門のところに座っていたのはロト一人だけだったようです。ソドムの町の他の指導者たちは誰一人、そこにいませんでした。このことが、その時のソドムの町の様子を物語っているのではないでしょうか。ソドムの町の指導者たちが、指導者としての責任を果たしていなかったということです。町の秩序は、それほど乱れていた、ということが、このことだけでもわかります。

古代のオリエント社会では、旅人をもてなすという掟がありました。ロトは、二人の旅人を見ると立ち上がって迎え、地にひれ伏して、自分の家に泊まることを勧めました。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊りください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください」

このロトのこの言い方だと、「この町の中では誰にも姿を見られないようにした方がいい」「そしてできるだけ早くこの町から立ち去った方がいい」、と言っているようにも聞こえます。ソドムの人たちがこの二人の旅人に何か害を及ぼすことを恐れているようです。ロトは、この町の広場で夜を過ごすことが安全ではないことをよく知っていたのです。二人のみ使いは、ロトの家に泊まることにしました。

2人がロトの家で食事をして、また床に就かないうちに、ソドムの町の男たちがロトの家を取り囲みました。ロトの家に旅人たちが入った、ということが町の中で知れ渡ってしまったようです。

男たちは「旅人たちを出せ」と言いました。「なぶりものにしてやる。」ソドムの男たちは、旅人たちに対して性的な暴力をふるおうとしてやってきたのです。「若い男も、年老いた男も」、つまり、街中の男たちがそう言いながらロトの家に詰めかけて来たというのです。

なぜソドムの男たちはそんなことをしようとしたのでしょうか。ソドムの男たちは、全員が同性愛者で、暴力的な手段を使って自分たちの性的な欲求を満たそうとしたのでしょうか。

そうではありません。この場面を読むと、「ソドムの罪は、同性愛ということだった」と安易に結論づけてしまいそうですが、そうではありません。

相手に対して性的な暴力をふるう、ということは、相手を自分の支配下に置く、ということを意味しました。自分たちが支配者である、ということを相手に知らしめるための手段だったのです。

これは、古代の多くの社会で行われていたことでした。特に戦争の中で、侵略した場所で、男・女関係なくなされていたことでした。

ソドムの人たちを止めようとしたロトに対して、男たちは言いました。「よそ者のくせに指図して。彼らより先に、お前に痛い目に遭わせてやる。」これはつまり、男たちがよそ者であるロトを性暴力を振るい、そのことによってロトを支配しようとした、ということです。

さて、ソドムにはびこっていた罪とは何だったのでしょうか。我々は、丁寧にここを見ないといけないと思います。ソドムの男たちが、同じ男性に対して性的に暴力をふるおうとしたということで、「神は同性愛というものに罰を下されたのだ」、などと言われたりします。

しかし、聖書はソドムの罪は同性愛であった、とは言っていません。

預言者イザヤは、ソドムの罪のことを、「主に敵対し、その栄光のまなざしに逆らった」ことだと語っています。

預言者エゼキエルは、ソドムについて、神からこう言われています。「食物に飽き、安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは、傲慢にも、私の目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。」

イザヤやエゼキエルといった預言者たちの言葉を見ると、ソドムの罪とは、神に敵対したこと、貧しい人たちを軽蔑し、暴力をもって支配していたことである、というのがわかります。

ソドムの町には平和がありませんでした。旧約聖書が書かれたヘブライ語で、平和のことをシャロームと言います。シャロームというのは、神の元にある平和のことです。

イエス・キリストは、「律法の掟の中でどれが一番大事なものか」と聞かれ、「一番大事な掟は、神を愛し、隣人を愛することだ」、とおっしゃいました。聖書の言葉は全て、神を愛し、隣人を愛するための教えだ、とまでおっしゃいました。神を愛し、隣人を自分のように愛すること、それが聖書が伝えているシャローム、平和なのです。

ソドムには、それが全くありませんでした。神を愛するどころか、神のみ使いを性的な暴力で支配しようとしています。普段から、ソドムの男たちは、旅人がソドムの町に入ると、男であろうが女であろうが、このような仕方で相手を支配していたのでしょう。だからロトは「朝早く出立してください」と旅人に伝えたのではないでしょうか。

この町には、神に対する愛も、隣人に対する愛もありませんでした。あるのは、暴力による支配でした。それがソドムの罪です。神の元にまで聞こえたソドムの叫びとはその暴力の中で正義を求める、弱い者たちの祈りの叫びだったのです。

さて、この暴力による危機の中で、ロトがこんなことを言いました。「私には娘が二人います。皆さんに二人を差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください」

私達は、このロトの言葉をどう見るでしょうか。家族を犠牲にしてまで旅人を守ろうとした美談として読むことはできるでしょうか。そんなことはないでしょう。

旅人を守るためとはいえ、愚かな申し出です。どんな理由であれ、自分の娘を町の男たちに「好きにしてください」と差し出す、ということが信仰の美談だとはとても思えません。

私たちはここで、ロトという人一個人を見るだけでなく、もう少し広い視点をもちたいと思います。聖書は、このロトの姿を通して私たちに何を見せようとしているのか、ということです。自分の娘を身代わりに差し出す、と言ったロトの姿の中に、私たちは罪に対する人間の無力さを見るのではないでしょうか。

私たちはここを読みながら、ロトをいくらでも批判することができます。しかし、聖書がいつでも、私たち自身の姿を見せようとしているということを忘れてはならないでしょう。

ロトの家にやってきた人たちは、旅人たちを暴力で支配すること、自分たちのものにするためにやってきました。人々は、ロトの娘を求めていたのではありません。ロトが言ったことは、実は的外れなのです。「娘たちを好きにしてください」と言っても、何の解決にもならないし、これではただ、娘たちが傷ついて終わるだけなのです。

しかし、これこそ、罪に飲み込まれそうになった人間の姿ではないでしょうか。何かしなければならないのは分かっている、しかしどうしていいのかわからない。人の痛みなど顧みずにその場しのぎで窮地から逃げようとするのです。

進退窮まったロトの姿は、まさに、罪に飲み込まれようとする無力で無理解な人間の姿ではないでしょうか。この時ソドムの町で起こったこと、そしてソドムの男たちとロトの間でのやり取りは、今でも起こっていることなのです。個人と個人の間で、国と国の間、そして人類全体で、暴力による支配があり、その中でて理不尽に差し出される犠牲があるのです。

私たちは、ロトの家に集まって来た人たちを通して、神を見失った人間がどれほど残虐なことをしてしまうのかを見せられます。そしてロトの姿を通して、私たちが罪の力に対してどれほど無力で、的外れな判断をしてしまうのか、ということを見せられるのです。

ソドムにあったのは、混乱でした。無秩序でした。神への愛も、隣人への愛もありません。神への叫びは、このような中で発せられるのです。そして、その叫びは、必ず神の元にまで届きます。

ロトの家に集まった人たちが、家の戸を破ろうとした時、二人の旅人、つまり神のみ使いはロトを家の中に引き入れて戸を閉め、人々に向き合われました。神は、信仰者を、御自分の背中の方に回し、罪の力から身を挺して守られたのです。神は、襲い掛かる罪の力と信仰者の間にご自身の身を置かれました。

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