使徒言行録24:10~23
「私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」(24:14)
ローマ総督フェリクスの前で、パウロの裁判が開かれました。ユダヤの最高法院が、キリストの使徒パウロを訴えたのです。パウロは、「世界中のユダヤ人の間に騒動を起こしている」「『ナザレ人の分派』の首謀者である」「神殿を汚そうとした」、という罪状をあげられました。
今日私たちは、それに対するパウロの弁明の言葉を読みました。最高法院とパウロそれぞれの訴えがここに記されていますが、私たちはどちらの弁明を受け入れるでしょうか。
最高法院の代表者たちと雄弁家のテルティオは、きちんとした身なりで総督の前に立ち、雄弁に語りました。一方パウロは逮捕されてから何日も一度も着替えずに、汚れた格好をしていたでしょう。威厳に満ちた最高法院の人たちと比べると、パウロは見劣りがしていたでしょう。
しかし、それぞれの言葉を比べて見るとどうでしょうか。テルティオの言葉は、半分以上がフェリクスへの賛辞、へつらいです。フェリクスの自尊心をくすぐり、その場で自分たちに有利に物事を運ぼうというものでした。
一方パウロは、自分の無実を弁明しつつ、同時に最高法院が「ナザレ派」と呼ぶキリスト教会の信仰の正当性を整然と語っています。イスラエルが先祖から受け継いだ正当な信仰を抱き、エルサレム教会のために集めた献金を届けに来ただけであるということを淡々と伝えました。
私たちがここを読む際に忘れてならないのは、このパウロの言葉は、ローマ総督に向けて語られていると同時に、今使徒言行禄を読んでいる私たちに向けて語られているものでもある、ということです。
私達は、このパウロの弁明をどう聞くでしょうか。
パウロは今、逆境の中にいます。神から使命を与えられ聖霊に導かれているにも関わらず、同胞のユダヤ人たちからは誤解され、ローマ総督の前で最高法院の人たちと争わなければならなくなっています。聖霊に導かれているはずなのに、キリストに従っているだけなのに、パウロには苦難が続いているのです。
ここに私たちは信仰の不条理を見るのではないでしょうか。神に導かれているのであれば、もっと平坦な道を行けるのではないでしょうか。
しかし、エルサレム神殿で捕らえられてからのここまでのパウロの姿を見ると、不思議なことに、パウロは苦しんでいるように見えません。普通であれば、無実の罪で裁判の場に立たされると、取り乱してしまうものではないでしょうか。
しかし、パウロは今自分の身に起こっていることも神の御手の内にあり、キリストを証しする場へと自分が召されていることをひたすら信じていました。そしてパウロは、自分の身の潔白を証明すること以上に、キリストを証しすることに使命を見出していたのです。
パウロはフィリピの信徒への手紙の中でこう書いている。
「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると」
パウロは獄中からフィリピ教会に手紙を書きました。監禁されているにも関わらずパウロは喜んでいます。自分が牢屋に捕らえられたことで、そこにいる人たちにキリストが知られるようになった、と喜んでいるのです。
パウロは、ローマ総督や最高法院とは全く違う視点を持っていました。それは、自分の苦難を通して、聖霊が福音を広めてくださっている、という確信です。総督の前に立たされ、最高法院と争いながら、パウロは聖霊の働きを信じ、この苦難が確かに用いられる、と信じていたのです。
私たちも、キリストが自分に出会ってくださった時から今までのことを思い返すと、「聖霊の導き」としかいえないようなことがあったでしょう。しかし、自分が苦境に立たされることがあると、すぐに「聖霊が自分から離れたのではないか」と不安になってしまうのではないでしょうか。
私たちは覚えたいと思います。苦難の中にあっても、いや、苦難の中でこそ、神の導きは思わぬ仕方で現れるのです。私達は、思わぬ仕方で聖霊に用いられるのです。
ペトロが後に手紙の中でこう書いている。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみに与ればあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ち溢れるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上に留まってくださるからです。」
キリストの名のための苦しみというものがあります。トロやパウロの時代ほどの迫害は、今の私たちにはないかもしれません。しかし、信仰ゆえの苦難というものがあります。ペトロは、「キリストのための苦しみの中にこそ、神の霊の働きがある」と言うのです。キリストの使徒たちの信仰の姿勢に、私たちは励ましを得ることが出来るのではないでしょうか。
パウロは14節で「この道」という言葉をつかっています。これは、「神の道・主の道」のことです。その「道」は、いつでも、一本でした。何本もあったわけではありません。そして「私はその正しい一本の道を歩いているだけなのです」、と総督に弁明しています。
パウロは、自分が「先祖の神を礼拝し、律法に則したことと預言者の書に書いてあることをことごとく信じています」、と言っています。イエス・キリストも同じようなことを弟子達におっしゃったことがあります。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
主イエスが神の国の福音を宣教された時、人々は、「イエスという人は何か新しいことを教えている」と思いました。しかし、そうではありませんでした。「神が聖書を通しておっしゃっているのは、そもそもこういうことなのだ」、ということをお伝えになっただけなのです。
旧約の預言者たちは、「いつか救い主が来る」と預言して来ました。神は預言者エゼキエルを通しておっしゃっています。
「見よ、私は自ら自分の群を探し出し、彼らの世話をする。・・・私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。・・・私は彼らと平和の契約を結ぶ」
パウロは、羊の群を探す羊飼いのように、神が世に来られた、それがイエス・キリストである、そしてキリストは自分を召し出して、御自分の証人とされた。自分はそのために働いている、とフェリクスに伝えました。パウロがしたのはそれだけでした。
1世紀の教会は、「聖書が伝えて来た救い主が来た」ことを伝えるのに苦心しました。旧約の預言者たちが、神から預かった言葉を伝えても信じてもらえなかったように、教会が伝える福音も、なかなか受け入れられませんでした。
それは今でも同じでしょう。教会は救い主到来の預言を信じ、今、キリストに導かれる羊の群として生きています。私たちは、羊飼いを指さすのです。キリストに立ち返ることで、立ち返るべき方を世に証しするのです。飼いを指さしながら、同じ群れの中に人々を招いていくのです。
それは、簡単なことではありません。時間がかかることだし、痛みを伴うことでもあります。簡単に信じてはもらえないのです。
私たちは、信仰生活の中で辛いことがあると、すぐに心が折れそうになります。神に祈っているのに、キリストを信じているのに、どうして上手くいかないのか、と思います。そのような時にこそ、私たちのために苦しまれたキリストの十字架を思い出したいと思います。
使徒ペトロは、手紙の中でこう書いている。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって、祝福を祈りなさい。・・・義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。・・・キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神の元へ導くためです」
正しくない私のために、正しいキリストが死んでくださった、ということ。
キリストが私のために痛みを担ってくださった、ということ。
これこそ、信仰が折れそうになった時に思い出さなければならないことではないでしょうか。
ペトロは、こうも書いています。 Continue reading