MIYAKEJIMA CHURCH

8月6日の礼拝案内

 次週 礼拝(8月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄24:10~23

 交読文:詩編17:13~15

讃美歌:讃詠546番、26番、216番、291番、頌栄540番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇8月9日(水)~12日(金)伊豆大島にて 東支区中高生キャンプ講師

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

7月30日の礼拝説教

ローマの千人隊長、クラウディウス・リシアは、エルサレムで騒ぎの原因になったパウロを捕えました。一体なぜエルサレム神殿で騒ぎが起こったのか、その原因を探ろうとしました、最高法院のユダヤ人指導者たちを通してパウロに尋問させても分かりませんでした。

そうこうしているうちに、パウロを殺そうと企むユダヤ人たちが、実際に暗殺を行動に移そうとしていることが明らかになったので、千人隊長はパウロをエルサレムからカイサリアへと送ることにしました。

カイサリアは当時のギリシャ都市であり、国際都市でした。そこにローマの地方行政の本部があり、総督が駐在していたのです。エルサレムではユダヤ人たちが興奮していて、まともに裁判を行えないし、パウロを殺そうとする人たちもいるので大きな暴動に発展する危険性もあります。千人隊長はユダヤ人たちのいないカイサリアにパウロを送り、ローマの総督に裁いてもらおうとしたのです。

パウロは既に神から告げられていました。

「エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

その神のご計画の通り、パウロはこれからエルサレムを離れ、たくさんの人にキリストを証ししながらローマへと運ばれていくことになります。

カイサリアにはローマの総督フェリクスがいました。千人隊長は、総督への手紙をしたため、パウロを引き渡しました。

パウロがユダヤ人に殺されようとしていること、パウロがローマ帝国の市民権をもつ者であること、パウロはユダヤ人の掟に関することで殺されそうになっているのであってローマの法においては無実であることを手紙の中に書きました。そして総督フェリクスが、ローマの法の下に正しくパウロの裁判を行うことを願いました。

さて、パウロは、公平な裁判を受けることができたのでしょうか。

総督フェリクスは、千人隊長からの手紙を読んでからパウロに一つ質問しました。

「お前はどの州の出身か」

なぜ総督はパウロにこんなことを尋ねたのでしょうか。

恐らくフェリクスは、パウロが自分の管轄でない場所の出身であれば、そっちに回してしまおうと思っていたのでしょう。しかしパウロはキリキア州の出身で、そこはフェリクスの管轄でした。仕方なくフェリクスは自分でパウロの裁判を行うことにします。

千人隊長の手紙を読んだにもかかわらずこのような質問をしたことを見ると、フェリクスはパウロを真剣かつ公正に裁いてくれるような人物ではなかった、ということがわかります。

少し、このフェリクスについて触れておきます。

フェリクスは、もともとは奴隷だった人です。自分の兄弟と共にローマ皇帝クラウディウスに気に入られて、ユダヤを監視する総督にされました。ローマの歴史家タキトゥスは、フェリクスについて、奴隷根性と残酷さと強欲さがむき出しになった人物だったと記録しています。

フェリクスは52~60年まで総督としてカイサリアにいました。その後、紀元66年にユダヤ人がローマに対して反乱を起こすことになりますが、その反乱がおこった時のユダヤの行政官がこのフェリクスでした。

このように歴史の記録や、実際に起こった出来事を見ると、フェリクスという人はユダヤの人たちから反発を買いユダヤ人が反乱を起こすきっかけとなるような悪政を行っていた人だったと考えることが出来ます。

残念ながらカイサリアでパウロの裁判を行ったのは、こういう人だったのです。

ついに、総督の前でパウロの裁判が開かれました。告発者は直接被告の前で罪を言い表して訴え出なければなりません。パウロを訴えていたユダヤの最高法院の代表団が、「弁護人」を連れてやってきました。この「弁護人」というのは雄弁家のことです。

最高法院のユダヤ人たちが自分たちで直接語るのではなく、わざわざ弁の立つ雄弁家テルティロを連れて来て訴えました。テルティロの言葉を見ると、半分はフェリクスに対するへつらい・お世辞の言葉です。

それが終わるとパウロの罪を数え始めました。

世界中のユダヤ人の間で騒動を起こしている、ということ。

ナザレ派の中心的な存在である、ということ。

神殿の立ち入り禁止区域に異邦人を引き入れた、ということをあげつらっています。

この裁判は、おかしなものでした。パウロが逮捕されたのは、神殿で誤解されたからでした。その誤解を利用して、最高法院の人たちは、パウロを有罪にしようとしたのです。総督フェリクスは、真剣に真実を明らかにしようとはしていません。この後を読めばわかりますが、彼はただ裁判を長引かせて、わいろを求めていただけなのです。

今、ここで行われているのは、正しい裁きではありません。ユダヤの最高法院の人たちは、ただパウロを排除しようとしています。ローマの総督フェリクスは、なんとか賄賂を得るためにこの裁判を行っています。それぞれが自分の思いだけを実現しようとして、この裁判が進められているのです。

私達は、この裁判の先で何が起こったか、ということを歴史から学びたいと思います。この裁きの先にあったもの、それは、破滅でした。

「正しい者が正しく裁かれない」・・・その先にあったのは、ユダヤ戦争だったのです。ユダヤ人たちの不満が爆発し、ローマに反乱を起こし、戦争になり、エルサレムは滅びることになります。このパウロの裁判からわずか十数年後のことです。

私達が今日読んだこのパウロの裁判を通して、人間がどのように破滅への道を歩んでしまうのか、ということが示されています。ここに出てくる人たちは、皆、自分が基準なのです。自分が中心であり、全ての物事を、自分の中心に据えようとしているのです。

このような自分中心の思い・罪に支配された人間の思いが、自らを破滅へと向かわせていく・・・このことを我々は歴史を通して聖書を通して学ぶことが出来るでしょう。

善いものを善い、とし、悪いものを悪い、とする・・・「裁き」とは、それだけのことです。しかし、それをせずに、それぞれが自分に有利になることだけを考えて、善・悪を裁くことしなかった結果どうなるでしょうか。このようなことの積み重ねが、双方に不満を高めていき、結局紀元70年のユダヤ戦争、エルサレム陥落へと発展するのです。大きな滅びを招くのは、結局、自分のことしか考えない人間自身なのです。

エルサレムが滅ぼされたのは初めてではありません。紀元前587年に、バビロンによって破壊され、滅ぼされました。その時はどうだったのでしょうか。その時も同じでした。神の前に善悪をただすことなく人間の思いが交錯して、自ら滅びを招いたのです。

エレミヤ書を見れば、その時の様子がよくわかります。イスラエル南王国は、王宮の中でバビロン派とエジプト派に分かれていました。バビロン帝国がどんどん強く大きくなっている中、自分たちはどう生き残ればいいのか、皆考えていました。

バビロン派の人たちは、バビロンと関係を結んで生き残ろうと主張しました。エジプト派の人たちは、エジプトの軍事力に頼り、バビロンに対抗しようと主張しました。イスラエルの王は、その間で揺れていました。

しかし預言者エレミヤだけは、バビロン派でもエジプト派でもありませんでした。預言者はただ神への信頼、神に救いを求めることだけを説いたのです。バビロンにつくか、エジプトにつくか、という議論は、結局人間に救いを求めているに過ぎません。そして神が示された救いは、バビロンに膝をかがめて降伏する、ということでした。

預言者エレミヤは、バビロンは偶像礼拝を続けて来たイスラエルに対する神の裁きの道具であることを説きました。バビロンに降伏することが、神に立ち返る、ということだと言ったのです。

イスラエルの前には命に至る道と死に至る道が置かれました。バビロンに降伏し、全てを明け渡すことが命の道でした。バビロンに抵抗し、剣をもつことが死に至る道でした。

皆が、「誰に頼ろうか」「どの国に頼ろうか」「どうしたら生き残ることができるだろうか」、うろうろする中で、エレミヤだけはその場を動かず、「神の裁きを受けるためにバビロンに降伏しなさい」と言い続けたのです。

結局エレミヤは売国奴とののしられ、牢に入れられてしまいます。預言者の言葉は聞かれず、自分のことだけを考える人たちの主張がぶつかり続け、その結果、エルサレムはバビロンによって徹底的に破壊されることになったのです。 Continue reading

7月23日の礼拝案内

 次週 礼拝(7月23日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄23:31~24:9

 交読文:詩編17:13~15

讃美歌:讃詠546番、25番、90番、290番、頌栄540番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月16日の礼拝説教

使徒言行禄23:10~30

「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」(23:11)

パウロが神殿で受けた誤解は騒ぎとなり、その騒ぎは最高法院によるパウロへの尋問となりました。

パウロを捕らえた千人隊長はパウロが何をしたのか、なぜユダヤ人たちがこんなに騒いでいるのかを知ろうとして、ユダヤの最高法院の人たちを呼んで調べさせました。しかしその尋問では、最高法院のファリサイ派とサドカイ派が真っ二つに割れて、復活についての言い合いになってしまいます。そばで聞いていた千人隊長は結局、なぜユダヤ人たちがパウロを殺そうと騒ぎ出したのかわからないまま、パウロを兵営へと連れて帰ることにしました。

パウロは結局その日は釈放されることなく、ローマ軍の兵営の中に捕らえられたままになりました。使徒言行禄には書かれていませんが、パウロも不安になったのではないでしょうか。確かに聖霊は「エルサレムで投獄と苦難がパウロを待ち受けている」と示してきました。しかしそれでも、「自分の苦難を通してもっと何か福音の実りがあるのでは」、と考えたのではないかと思います。

兵営に連れて行かれて、一人になり、夜になった時、パウロは何を考えたでしょうか。

「この苦難は一体何なのか。神に見捨てられた、ということか。エルサレムに戻って来るべきではなかったのか。ヤコブの提案通りに神殿に参拝したのは間違いだったのか。そもそも、自分の福音宣教は神の御心に適っていなかったのか。」

そのような思いが沸き上がって来たでしょう。

パウロに神の声が与えられたのはその時でした。

11節「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない」

パウロは、福音宣教の旅からエルサレムに戻って来て、エルサレムで騒動に巻き込まれることになりました。そこで教会の迫害者であった自分がどのようにイエス・キリストに召し出され、教会のために働き、教会のために迫害されるようになったか、ということを証しすることになりました。

それは、本当はパウロの意志ではありませんでした。不本意な誤解を受け、騒動に巻き込まれ、そうやってキリストを証しせざるを得ないところへとパウロ自身が巻き込まれていったのは、それが、神のご計画だったからだ。

パウロがどうあがいても、何もできなかった時・・・自分の訴えをまともに届けることができず、混乱の中、自分の知識も経験も役に立たず、ただ黙るしかなかった時・・・神の声が聞こえ、神のご計画が示されたのは、その時でした。

信仰者には、神の声が与えられる時があります。自分の知恵も知識も経験も役に立たず、自分が無力になり、もう神に祈るしかない時にこそ、神の言葉は聞こえてきます。自分に自信があり、語るべき言葉をしっかり持っている時には、逆に神の言葉は聞こえない。自分の言葉が雑音となって、神の声を聞かせないのです。

主イエスと弟子達がガリラヤ湖で船に乗っていた時、嵐が起こったことがあります。。弟子達は主イエスを乗せて反対の岸へと舟をこぎ出しました。舟をこいでいた弟子達は、ガリラヤ湖で漁師をしていた人たちでした。舟の扱いには慣れていた人たちです。

しかし、激しい突風が起こり、舟が沈みそうになります。弟子達の漁師としての経験は役に立たない状況になりました。ガリラヤ湖での漁の経験役に立たない状況の中で彼らがしたことは、舟の中で眠っておられた主イエスを起こすことでした。その時出来たのは、それだけでした。

「先生、私たちがおぼれても構わないのですか」

主イエスは弟子達の声を聞き、起き上がって、風を叱り、「黙れ、静まれ」とおっしゃいました。すると風がやんだのです。湖の上で船を操る技術をもった弟子達でした。しかし、この方は、嵐を沈める権威をお持ちの方だったのです。

弟子達は、見せられました。自分たちには太刀打ちできない嵐に勝る方が、同じ船に乗っていらっしゃる、ということを。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

弟子達はそう言われて、返す言葉がありませんでした。

私たちにとって、キリストの声とは、そういうものです。信仰生活の中で何度、このキリストの声を聞くでしょうか。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。私が同じ舟に乗っているではないか。私を見ていないのか」

生きる中で嵐に吹かれる時、私たちの自信も、知識も経験も吹き飛ばされることがあります。その時に求めるのは、嵐を沈めてくださる方の声です。

また別の時に、弟子達だけで湖に乗って、反対の岸に行こうとして、逆風で渡れなかったことがあります。舟は逆風で進むことが出来ず、夜通し船をこいでも、湖の真ん中で立ち往生しました。

夜が明けるころ、弟子達は、湖の上を歩く人の姿を見ました。そしてその姿を見て、幽霊だと思い、恐怖で叫びました。主イエスは「安心しなさい。私だ。恐れることはない」とおっしゃって、船に乗り込まれます。そのとたん、風は静まりました。

嵐の中の小舟、また逆風の中の暗闇・・・苦難の中叫ぶしかなかった弟子達に、私たちは自分たちの姿を見るのです。信仰生活の中で感じる逆風の中で、私たちはそのキリストの言葉が与えられます。主イエスは「安心しなさい」とおっしゃいます。その理由は、「私がいるから」ということです。

「私がここにいる。あなたと共にいる。だから、安心しなさい、恐れることはない」という声を聞くことが出来る、ということが信仰の恵みです。私たちはそのように、神の声を聞くのではないでしょうか。

弟子達は一緒に旅をする中、昼間、落ち着いてキリストの教えを聞くことはたびたびあったでしょう。しかし本当に弟子達がキリストによる救いを痛感したのは、漁師の経験・知識が役に立たない嵐の中・暗闇の逆風の中でキリストの声を聞いた時だったのではないでしょうか。

逆風の中で、自分の力でどうしようもない時、祈るしかない時にこそ初めて聞こえてくるキリストの声です。私たちは、自分の中から自分の声がなくなった時に、神の御心が静かに示されるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。最後の最後で、どなたに向かって叫べばよいのか、そのことを知っているのが「信仰」というものではないでしょうか。

今、パウロが夜、一人でローマ兵たちの兵営に囚われている姿を見ると、「神の導き」とか「神の守り」がどこにあるのか、疑問に思ってしまうでしょう。しかし、ユダヤ人やローマ人たち、人間が意図せず作り出してしまう混乱の中にあっても、神の導きは確かに流れています。自分の力を手放し、すべてを神に委ねて、全ての雑音が自分の中から消えた時、私たちには神の声が与えられるのです。

さて、千人隊長クラウディウス・リシアは、神殿の暴動に関してパウロが無罪であることを確信していました。しかし、もうパウロを釈放して終わり、というわけにはいきませんでした。パウロを殺そうとする計画するユダヤ人人たちがいたのです。彼らは神の教えを無にし、人々の信仰をダメにする、イスラエルの信仰を壊そうとする背教者・危険人物として見ました。

その殺害計画を、パウロの甥が聞いていました。彼はそれを千人隊長に告げます。千人隊長はパウロをどう扱うべきか、すぐに決めました。パウロをカイサリアに送ることにしたのです。

ローマの市民としてパウロは公平な裁判にかけられる必要がありました。エルサレムでは興奮したユダヤ人たちがいてどうなるか分かりません。カイサリアには、ローマの総督フェリクスがいます。そこで裁いてもらおうと考えたのです。千人隊長は、パウロがローマの法律では全くの無罪であり、ユダヤ人の信仰をめぐる問題でパウロは騒がれているということを手紙で書き送りました。

さて、このようにして見ていくと、ただ神のご計画が着実に進んでいる、ということがわかります。

ユダヤ人たちはパウロが神の教えに反することを言い広めている思い、騒ぎ立てましたが、本当にパウロが何か罪を犯したかどうかは分かっていません。

最高法院の人たちもパウロの罪を見出そうとしましたが、結局、死者の復活をめぐって、ファリサイ派とサドカイ派の言い争いになりました。

ローマの千人隊長はパウロがなぜユダヤ人たちから敵視されているのかを明らかにしようとしましたが、結局何もわからずにパウロをカイサリアへと護送することになりました。

ユダヤの群衆も、最高法院も、ローマ兵も、誰もパウロを思い通りにすることができませんでした。誰もパウロを正しく裁くことが出来ていない Continue reading

7月16日の礼拝案内

次週 礼拝(7月16日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄23:10~22

 交読文:詩編17:13~15

讃美歌:讃詠546番、24番、179番、297番、頌栄540番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月9日の礼拝説教

使徒言行禄22:30~23:9

「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」(23:3)

パウロがユダヤの群衆に語り掛けていると、群衆は突然騒ぎ始めました。近くにいたローマ兵たちは、パウロがヘブライ語で話していたので、その理由がわかりませんでした。兵士たちはパウロを鎖で縛り、鞭で打って何を話したのかを正直に言わせようとしたが、パウロが生まれながらのローマ市民であることがわかり、裁判もせずに手荒に聞き出すことができなくなりました。

ローマの千人隊長は、なぜユダヤ人たちがパウロに怒っているのかを正しく知るために、ユダヤの権威である祭司長や最高法院の人たちに尋問をさせることにしました。パウロが、ユダヤ人たちを扇動してローマへの反乱を起こそうとしていたのかどうかを明らかにする必要があったのです。

パウロは最高法院の人たちの前に立たされることになりました。それが今日私たちが読んだ場面です。これは、厳密にいえば裁判ではありません。千人隊長の代わりに、最高法院がパウロに行った「取り調べ」です。そしてこれが、パウロにとって最高法院の人たちに、自分の信仰の言い表す機会となりました。

パウロは最高法院の人たちに囲まれても、臆することなく、恥じることなく、「兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と言いました。すると突然祭司長であったアナニアが「パウロの口を打て」と言いました。

神殿で騒ぎを起こしたトラブルメーカーが、悪びれもせずにユダヤの権威たちに「兄弟たち」と対等に呼びかけているのが気に入らなかったのでしょう。当時のユダヤ人にとって神殿で騒ぎを起こすことは、危険なことでした。神殿で暴動が起こったりすると、ローマ兵たちは徹底的にユダヤ人を弾圧することになるのです。反省の色が見られないどころか、「私は神の前で正しいことをしている」と言い表したパウロを見て、アナニアは怒って「パウロの口を打て」と言ったのでしょう。

それに対して、パウロは「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」と言い返しました。「白く塗った壁」というのは、外側はきれいにしているけれども内側には汚いものを隠しているという意味の表現です。

イエス・キリストも、マタイ福音書で、よく似た表現を使っていらっしゃいます。偽善者たちに向かって、あなたたちは「白く塗った墓に似ている」とおっしゃいました。「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨はあらゆる汚れで満ちている」という意味です。

さて、実際、大祭司アナニアは「白く塗られた壁」だったのでしょうか。アナニアはユダヤ教の最も高い権威にある大祭司でしたので、当然見た目は立派な人だったでしょう。その中身はどうだったのでしょうか。

歴史的な記録では、アナニアは強欲で、裏では汚職にまみれて莫大な富を手にしていた、と言われています。そしてアナニアはこの後、紀元66年に起こったユダヤ戦争の際に、ユダヤ人たちの手で暗殺されることになるのです。

その歴史を踏まえてこのパウロの言葉を読むと、私たちは真実を見出すことが出来るのではないでしょうか。

「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。」

このパウロの言葉の十数年後、実際に、アナニアは打たれることになるのです。

パウロはユダヤ人たちから誤解を受け、神殿から追い出され、ローマ兵に逮捕され、最高法院で大祭司と向き合うことになりましたが、パウロは、自分の意志とは全く違った仕方で、神の言葉を預言することになったのです。

「白く塗った壁」・・・外側はよく見えても内側は汚れているアナニアに与えられる神の裁きをパウロは預言しているのです。深いところで聖霊がパウロを導いていることが見えるのではないでしょうか。

私たちはここで、パウロがこの大祭司に向かって言った「白く塗った壁」という言葉を通して、自分自身を顧みなければならないのではないでしょうか。「自分はどうだろうか」、ということです。一人の信仰者として、「白く塗った壁」になっていないかどうか、一度立ち止まって自分を吟味しなければならないのではないでしょうか。

旧約時代、外側を取り繕い、内側は腐敗していたイスラエルに、神は預言者エゼキエルを通してこうおっしゃいました。

「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言って私の民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは剥がれ落ちる』と。・・・お前たちが漆喰を塗った壁を私は破壊し、地面に打ち付けて、その基礎をむき出しにする」

イスラエルは神に選ばれた民でした。神の元へと立ち返るために選ばれた民です。その立ち返りの歩みの中へと他の人たちを招き入れることを求められていたのに、イスラエルは偶像礼拝に走ってしまいました。他の神へと向かってしまったのです。

外側は「神の民」として飾ることができていたかもしれません。「平和だ、平和だ」と言葉だけは言えたかもしれません。しかし中身は、「偶像の民」となっていました。

そのイスラエルに、神はエゼキエルを通しておっしゃいます。

「漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは剥がれ落ちる』」

その言葉通り、エルサレムはバビロンよって破壊されました。

旧約時代のエルサレム、そして今日読んだところに出て来た大祭司アナニアを通して、私達は自分自身を、そして教会としての内実を省みなければならないのではないでしょうか。

もし、私たちが、外側だけきれいで、内側に醜いものを抱えるような教会であったとしたら・・・「白い壁」「白く塗られた墓」になってしまったとしたら、神ご自身がキリスト教会を裁かれることになるのです。ここで、聖書から示されている信仰の警告を受けとめたいと思います。

さて、大祭司とのこのようなやりとりがあってから、パウロは最高法院に対して弁明してこう言いました。

「兄弟たち、私は生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、私は裁判にかけられているのです」

なぜパウロがこんなことを言ったのか我々は不思議に思うのではないでしょうか。実際には、これは裁判ではないし、「死者が復活するという望みを抱いている」ということでパウロはここに引き出されているわけではありません。

実際には、パウロが神殿で禁止されている場所に異邦人を連れ込んだと勘違いして群衆が騒いだだけです。そしてパウロを逮捕したローマ兵が、ローマ市民であるパウロを裁けないから最高法院が尋問しているだけなのです。

しかしパウロはここで「死者の復活」ということをいきなり持ち出しました。周りを見回して、ここでは正しく話を聞いてもらうことはできない、と知って最高法院全体を巻き込んだ議論へと向かわせようと機転をきかせたのです。

ここで最高法院の中で議論が割れました。同じユダヤ教であってもファリサイ派とサドカイ派は、聖書の解釈が違っていたからです。

サドカイ派は今の旧約聖書の初めの5つ、モーセ五書と呼ばれている言葉だけを自分たちの信仰の基準にしていました。「もう神の啓示はモーセ五書で終わっている」という立場でした。モーセ5書の中には、死者の復活は出てこないので、サドカイ派の人たちは、復活を信じていませんでした。

それに対して、ファリサイ派の人たちは、「まだ神は我々に御心を示し続けてくださっている」と信じていました。ファリサイ派は、モーセ五書だけでなく預言書や知恵文学などを加えた、今私たちが旧約聖書と呼んでいる書物の言葉を信仰の基準としていたので、復活を信じていました。

パウロの言葉を聞いて、復活はあるのかないのか、ということをファリサイ派とサドカイ派の人たちが議論を始め、その議論が激しくなったので、結局パウロはそこからまた兵営に連れて行かれることになりました。

マタイ福音書16章で、ファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスに「天からのしるしをみせてほしいと言ってきた場面があります。「本当にナザレのイエスは天からのメシアなのか、証拠がほしい」、と言って来たのです。

それに対して主イエスはこうおっしゃいました。

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

そしてその場を立ち去られました。

「与えられるのは、ヨナのしるしだけ」とはどういうことなのでしょうか。旧約聖書のヨナ書を見ると、ヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日目に吐き出され、異邦人に神の言葉を伝えに行った人です。 Continue reading

7月9日の礼拝案内

【本日の予定】

◇礼拝後、祈祷会があります。

 次週 礼拝(7月9日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄22:30~23:9

 交読文:詩編17:13~15

讃美歌:讃詠546番、23番、265番、366番、頌栄539番

【牧師予定】

◇7月7日(金) 銀座教会にて 東支区伝道部委員会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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7月2日の礼拝説教

使徒言行禄22:22~29

「パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない』」(22:22)

パウロは、自分が書いた手紙の中で「キリストに召され、異邦人への使徒とされたパウロより」と自己紹介しています。使徒言行禄を読むと、パウロがイエス・キリストによって召されたのは、「異邦人に福音を告げる」という使命のためだったことが確かに記録されています。

異邦人への福音宣教ということにおいては、パウロは適任だったでしょう。彼は当時の国際人でした。異邦人の町で生まれ、エルサレムで育ち、ガマリエルという当時尊敬されていた教師から聖書を学び、生まれながらにローマの市民権を持っていたユダヤ人です。ユダヤ的、ギリシア的、ローマ的な背景を兼ね備えた国際的知識人でした。

パウロは、柔軟にユダヤ人に対して、異邦人に対して福音を伝えていきました。コリントの信徒への手紙の中でこう書いています。

「私は、誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。・・・律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。全ての人に対して全てのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、私はどんなことでもします」

相手がユダヤ人であっても異邦人であっても、相手が聖書の教えを知っていても知らなくても、相手が強い人であっても弱い人であっても、パウロはその人に合わせて福音を伝えることができたのです。

イエス・キリストは、十字架に上げられる直前、弟子達に、終わりの日が近づくしるしをお話しなさったさい、こうおっしゃいました。。

「これらのことが全て起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証をする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたたがに授けるからである」

キリストは「前もって弁明の準備をするな」とおっしゃいます。パウロは、エルサレムに来る前に、「エルサレムでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています」と言っていました。エルサレムで自分に苦難がある、ということを知っていて、「それでも行く」と決断していました。

なぜでしょうか。「たとえ捕らえられても、自分には完全な弁明ができる」、という自信があったからでしょうか。そうではないでしょう。キリストの、「前もって弁明の準備をするな」という言葉を信じたからです。イエス・キリストがその時自分に言葉と知恵を授けてくださることを信じ、その言葉がキリストを証しすることになる、という信仰をパウロは持っていたからです。

語るべき言葉が与えられる・・・今日私たちが読んだ場面にはそのことが示されているのではないでしょうか。

パウロはエルサレムに戻ると、同胞のユダヤ人から非難され、ローマの兵士に捕らえられてしまいました。彼はその機会を捉えて、キリストを証ししました。パウロの苦難を通して、キリストご自身が福音を語られたのです。このような混乱の中にも、聖霊の不思議な導きを見ることが出来ます。

さて、パウロは、ユダヤ人たちにヘブライ語で語り掛けました。自分の生まれ、育ち、そして聖書の言葉・神への信仰に対する熱心さ、神からの召し出した時の話です。ユダヤ人たちは静かに聞いていました。熱心に教会を迫害していたパウロが、神に召し出されて、迫害していた教会のために働くようになったというのです。自分が思ってもいなかった仕方で神に出会い、天の声を聞き召し出される、ということは、旧約の預言者たちが経験したことでした。ユダヤの群衆にとって、それは興味深い話でした。

しかし、パウロの話を聞いていたユダヤ人たちは、パウロがあることを言った途端に怒って騒ぎ始めました。「神が私を異邦人に遣わした」という言葉です。

ユダヤ人の群衆は、「神はユダヤ人の神であって、異邦人を招くはずがない」、と思っていたのです。静かに真剣に話を聞いていた人たちは、「神が私を異邦人に遣わされた」という言葉を聞いて、パウロが嘘を言っている、と思ったのでしょう。

当時のユダヤ人たちにとって、異邦人をイスラエルの神の元へと招くことよりも、自分たちと異邦人を区別することのほうが重要でした。当時のユダヤ人にとって、異邦人との交わりは、自分を汚すことでした。

キリストの一番弟子であったペトロでさえそう思っていました。ローマの百人隊長コルネリウスに招きを受けた時、ペトロは正直に言っています。

「あなたがたもご存じの通り、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」

なぜ当時のユダヤ人は、異邦人と距離を置こうとしていたのでしょうか。外国の支配・異邦人の支配の中にあって、必死に聖書の教えを守っていたからです。異邦人の王から神の言葉である律法を捨てるよう迫られたこともありました。

そのような異邦人・外国人の偶像礼拝から、律法によってきちんと自分たちを正しい神への信仰を守ろうとしていた時代でした。

旧約聖書の創世記12章を見ると、神はアブラハムに最初におっしゃっています。

「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」

「地上の全ての氏族」、つまり、世界の全ての人は、アブラハムを通して、またアブラハムの子孫・イスラエルを通して神の元に招かれるということが言われているのです。

パウロはその神の御心を、自分の歩んできた道を語りながら伝えようとしました。今や、神が異邦人を招かれる計画を進めていらっしゃる、と。しかし、ユダヤの群衆は、神が異邦人を招いていらっしゃるということを受け入れることはできませんでした。

ローマの兵士たちは、パウロがヘブライ語で話していたので、なぜ群衆が突然怒り始めたのかわかりませんでした。収まりがつかないので、兵士たちはパウロを自分たちの兵営へと連れて行くことにしました。

兵士たちは、パウロを兵営に連れて行き、パウロを鞭打って、群衆に何を話したのかを聞き出そうとしました。群数をあおってローマへの反乱を起こさせようとしたのではないかと疑ったのでしょう。

しかし、パウロはここで、「ローマ市民を裁判にもかけずに鞭打っていいのですか」と言いました。これを聞いて兵士たちは驚きます。

ローマ帝国では、ローマ市民は法によって守られていました。裁判もせずに鞭打ったり処刑したりすることは禁じられていました。誰かがパウロを訴えるのであれば、その訴える人が直接ローマの役人に訴え出なければならなりませんでした。それらの手続きを一切なしで、ローマ兵たちはローマの市民であったパウロを鎖でつないで連行してしまったのです。ローマ兵たちはそのことを恐れました。

千人隊長は「私は多額の金を出してこの市民権を得た」と言いました。それに対してパウロは「私は生まれながらローマ帝国の市民です」と言いました。そのことで、千人隊長とパウロの立場が逆転します。ローマの市民権を金を出して獲得したローマの千人隊長が、生まれながらのローマ帝国の市民のパウロを縛ってしまったことを知って、恐れが生じました。

不思議です。普通で考えると、千人の兵士を束ねる千人隊長の方が、何の後ろ盾もないキリストの使徒パウロよりもはるかに強いのです。しかし、パウロの一言を聞いて突然恐れるようになったのです。

私たちは考えさせられるのではないでしょうか。地上の人間の権威などそれほど脆いものなのです。

旧約聖書のエレミヤ書を読むと、捕らえられていた預言者エレミヤの下に、イスラエル南王国の王ゼデキヤが言葉を求めた場面があります。

紀元前6世紀、エレミヤはバビロンに降伏するよう人々に預言しました。神がバビロンの軍隊を用いてイスラエルの罪を裁こうとなさっているのだから、皆バビロンに降伏して神に立ち返れ、と伝えました。バビロンに降伏することが「命の道」であり、バビロンに抵抗することは「死の道」である、と説きました。

当時のイスラエル南王国はバビロン派とエジプト派に分かれていました。エジプトと手を組んでバビロンに対抗しようとしていた人たちは、エレミヤを「売国奴」とみなして憎み、エレミヤを水溜めに投げ込み、牢屋につないでしまいます。

バビロン派とエジプト派の間で板挟みになったゼデキヤ王は、牢の中にいたエレミヤに神の言葉を求めました。

「主から何か言葉があったか」

たとえ一国を支配する王であっても、神の言葉を求めざるを得ない瞬間が訪れるのです。どれだけ人間がこの地上で権威を持っていたとしても、人は神の権威を恐れ、神の言葉を求めざるを得ないのです。人は、自分が地上でもっている権威など一時のものであり、一瞬でなくなってしまうはかないものである、ということを思い知る瞬間が与えられます。

イスラエルの祭司であったイザヤは、ある時天の声を聞きました。

「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」 Continue reading