MIYAKEJIMA CHURCH

8月20日の礼拝案内

次週 礼拝(8月20日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄24:24~25:12

 交読文:詩編18:2~7

讃美歌:讃詠546番、28番、217番、229番、頌栄540番

【報告等】

◇8月19日(土) 10時より 役員会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

8月13日の礼拝説教

使徒言行禄24:24~25:12

「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った」(24:25)

カイサリアの町で行われたパウロの裁判が終わりました。ローマの総督フェリクスの前でユダヤの最高法院の代表団とパウロ、それぞれの弁明がなされました。総督フェリクスはパウロの主張に興味はもちましたが、判決をそこでは下しませんでした。彼は千人隊長から事前に受け取っていた手紙を読んで、パウロはユダヤ人の掟の解釈のことで訴えられているだけでローマの法律に違反していることは何もない、ということを本当はわかっていました。最高法院の訴えの内容とパウロの弁明を比べて見ても、パウロの主張の方が筋が通っています。

しかし、不思議なことに、フェリクスは判決を下しませんでした。「千人隊長リシアが来るのを待つ」、と言って、なぜか裁判を延期したのです。裁判が延期されたので、最高法院の代表団は仕方なくエルサレムに戻って行ったようです。そしてパウロはカイサリアに留め置かれ、ある程度の自由が認められ、友人たちからの援助を受けたりすることも許されました。

なぜフェリクスは、判決を先延ばしにしたのでしょうか。今日読んだところを見ると、フェリクスは、パウロから金をもらおう、賄賂をとろう、という下心があったようだ。パウロが無罪であることを知っていて、無罪の判決を下さなかったのは、ユダヤ人に気に入られようとしていたからでもありました。何より、フェリクスの妻ドルシラはユダヤ人だったので、フェリクスはドルシラと一緒にパウロの話をもっと詳しく聞きたいと思ったのです。

裁判を延期することにしてから数日してフェリクスが、妻のドルシラと一緒にパウロの下に来ました。パウロは二人にイエス・キリストへの信仰の話をしました。パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなって、聞くのをやめた、と書かれています。フェリクスは何を恐れたのでしょうか。そんなに恐ろしいことをパウロは語ったのでしょうか。

少し、フェリクスとドルシラの夫婦の背景にふれておきたいと思います。このドルシラは、ユダヤ人を支配していたヘロデ・アグリッパ1世の娘で、フェリクスの三番目の妻でした。

ドルシラの父アグリッパ1世は、使徒言行禄12章に出てきます。主イエスの弟子であったヤコブを殺し、地域に起こった飢饉を教会のせいにして、キリスト者を迫害した人でした。まるで自分が神であるかのように振る舞うアグリッパを神が撃たれた、ということがそこには書かれています。

また、このドルシラの叔母にヘロディアという人がいました。福音書に出てくる、自分の叔父のヘロデ・アンティパスと結婚したことを洗礼者ヨハネから非難され、娘をつかってヨハネの首を切った人です。

ドルシラははじめ、シリアの小国の王、アズィゾスという人と結婚していましたがフェリクスがドルシラに一目ぼれをしました。フェリクスはユダヤ人の魔術師を遣わしてドルシラを離婚させ、自分の妻としました。

このようにフェリクスとドルシラの背景を見て行くと、二人の結婚は、いい形のものではなかったということがわかります。そして聖書が伝えている「正義」や「裁き」という言葉に敏感に反応してしまう背景を持っていたことが分かります。

この夫婦はパウロの伝える信仰に興味をもち、話を聞きにやって来ると、「正義や来るべき裁き」という言葉を聞いて恐怖を覚え、聞くのをやめました。あまりに自分たちにとって身近な問題であったからです。

皮肉なことですが、本当に聖書の言葉を聞いて自分の道を正す必要がある人ほど聖書の言葉を遠ざけようとするのではないでしょうか。怖いからでしょう。聖書に向き合うということには、実は、とてつもない勇気を必要とするのです。神の教えと向き合うということは、自分の罪と向き合うということであり、自分の罪をご覧になっている神と向き合うことだからです。

パウロは、自分に判決を下すフェリクスに対して、こびへつらったことは言いませんでした。ただ、聖書の教えを、そして福音を忠実に伝えました。

もしもパウロが、フェリクスとドルシラの夫妻にわいろを贈り、その結婚を称賛するようなことを言っていたら、気に入られて釈放されたかもしれません。パウロだって、そのことはわかっていたでしょう。しかし、パウロは自分の釈放と引き換えに福音に反することはしませんでした。

パウロにとっては、キリストを伝えるということ、全ての人に求められているキリストの正義、全ての人を待ち受けているキリストの裁きを伝えることが全てであり、自分の釈放以上に大切なことだったのです。

結局フェリクスはパウロの裁判を再開することなく、カイサリアでの総督の任期をおえることになります。自分が釈放されるために福音を曲げてわいろを渡すことをしなかったパウロは、結局無罪判決をフェリクスから引き出すことはできませんでした。

見方によっては、パウロは不器用だった、駆け引きが下手だった、と見ることもできるでしょう。しかし、このことも、神の御手の内にあることでした。神はフェリクスにパウロの判決をお委ねにならなかったのです。

フェリクスの後に、新しい総督がカイサリアに赴任しました。フェストゥスという人です。フェストゥスも、まずユダヤ人たちから気に入られること、そしてユダヤ人たちに自分の威厳を示すということを重要視しました。

フェストゥスは、カイサリアに赴任して三日目にエルサレムに上って、ユダヤ人たちの話を聞きました。「祭司長たちやユダヤ人の主だった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたい」とフェリクスに頼んだ、とあります。

フェストゥスは前任者フェリクスがしたように、最高法院の代表者たちをカイサリアに呼び出し裁判を開きました。しかし、その裁判の内容は、一回目と同じでした。パウロの有罪は立証されず、パウロは律法について、神殿について、ローマ皇帝に対して無実であることを弁明しました。

フェストゥスにとって、この裁判はバカバカしいものだったでしょう。本当は前任者が解決しておかなければならない裁判を自分がやっているのです。「何年も前のことでなぜ自分がこんな裁判を開かなければならないのか」と思っていたでしょう。

パウロは10節で「よくご存じの通り、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません」と言っています。「よくご存じの通り」ということは、フェストゥスもパウロの無実を知っていた、ということです。

フェストゥスはパウロに尋ねました。「エルサレムに戻って、私の前で裁判を受けたいか。」エルサレムで裁判を開いて自分がパウロに「お前は無実だ」と宣告すれば終わりになるのです。

もし、ここでパウロが「そうします。エルサレムで私の裁判を開いてください」と言えば、エルサレムで自分の無罪が宣言されて全てが終わりになっていたでしょう。

しかし、パウロは「私は皇帝に上訴します」と言いました。これからイタリアのローマに行って、自分でローマ皇帝に直訴する道を選んだのです。確かに、ローマの市民であるパウロにはその権利があります。しかしフェストゥスは驚いたのではないでしょうか。「パウロは釈放されたくないのか。どうして遠くローマまで行って裁判を受けようなどと考えるのか」

パウロがもしここで上訴しなかったら、おそらく無罪放免だったでしょう。しかし、自分が手っ取り早く無罪放免になることよりも、ローマに行って皇帝に直接イエス・記の福音を語る道を選びました。

パウロはエルサレムにはまだ自分を殺そうとする人たちがたくさんいることを知っていた。それ以上に、パウロは既に神の言葉を聞いていたのです。

エルサレムの兵営に捕らえられていた時パウロは実際に神の声を聞きました。

「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

パウロは、ただ自分の無実が晴れて、釈放されるということ以上に、「ローマに行ってキリストを証しする」という神のご計画に従おうとしました。パウロは自分の思いではなく、神の御心を求めました。自分の無罪判決以上に、ローマでキリストを証しする道を選んだのです。

私達はこのパウロの姿に、キリストの御後に倣う信仰者としての在り方を見ることが出来るのではないでしょうか。裁判にかけられた時のイエス・キリストのお姿と重ならいます。

イエス・キリストは逮捕されてから十字架に上げられるまでに、自分の身の潔白を主張することもおできになりました。しかしキリストはただ、沈黙を守られました。

イザヤが預言した通りでした。

「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私達の罪を全て主は彼に負わせられた。苦役を課されて、かがみこみ彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない子羊のように、彼は口を開かなかった。」

主イエスを見たポンテオ・ピラトは、「私はイエスに何の罪も見いだせない」と言いました。それでも、群衆は「イエスを十字架につけろ」と叫び続けました。主イエスはただ口を開かず、屠り場に引かれて行きました。

イエス・キリストは十字架に上げられる前にゲツセマネで祈られました。ご自分の無実が証明されることではなく、ご自分を通して神の御心が成る、ということを祈られたのです。

「苦しみの杯を取り除いてください。しかし、私の思いではなく、あなたの御心が成りますように。」

キリストはただ、神の救いの御心をお求めになりました。そしてその御心が、自分の十字架にあるというのであれば、そこに向かわせてください、と祈られたのです。私達のために。

パウロはその場で自分の無実を弁明し、無罪判決を勝ち取ること以上に、ローマに行って福音を語る、という神の御心を求めました。そのように、私達にも神の御心を成すために、自ら苦難を背負わなければならないことがあります。

しかし、私達は知っています。その苦難は、キリストが共に担ってくださる軛であり、必ず、天において報われるものなのです。私達は、キリストの御名が知られるために重荷を背負い、天に積まれる宝を知っているのです。

どんな時でも、神は私たちに使命を与えてくださっています。目先の自分の利益よりも、自分に与えられている大切な使命に、そして備えられている天の宝に目を向けていたいと思います。