MIYAKEJIMA CHURCH

3月17日の礼拝案内

次週 礼拝(3月17日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書3:31~36

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、142番、356番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月10日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:22~30

「あの方は栄え、私は衰えねばならない」

イエス・キリストが、実際に福音宣教を始められたお姿が描かれています。主イエスは、ニコデモとの出会いの後、ユダヤ地方に行ってそこに滞在し、ご自分の下にやってくる人たちに洗礼を授けていらっしゃいました。

ヨハネ福音書は、洗礼を授けられる主イエスのお姿そのものに焦点を当てて描いてはいません。人々に洗礼を授けられる主イエスを、ヨルダン川の対岸にいた洗礼者ヨハネがどのように見ていたか、という視点で描いています。

私達は洗礼者ヨハネの視点で、このイエスという方をどう見るべきなのか、そしてイエスという方の前で自分はどうあるべきなのか、ということを考えるよう促されているのです。

主イエスはユダヤ地方で、洗礼者ヨハネはヨルダン川をはさんだ対岸のアイノンというところで、それぞれ人々に洗礼を授けていました。ヨハネの弟子達が、ヨハネの下に来て言います。

「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」

ヨハネの弟子たちにとって、自分たちの先生よりも後からやってきたイエスという人の下に人々が流れていくことは面白くないことでした。これに先立って、「ヨハネの弟子達と、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」、と書かれています。詳しい内容は書かれていませんが、おそらく、ユダヤ人の1人がヨハネの弟子達に「向こうにいるイエスと、あなたがたの先生であるヨハネと、どちらの洗礼の方が優れているのか」と聞いてきたのでしょう。

洗礼者ヨハネの弟子達は、当然自分たちの先生が授ける洗礼の方が上だ、と思っていたでしょう。ナザレのイエスに洗礼を授けたのは、そもそも自分たちの先生なのです。それを、後から来たイエスが、自分たちの先生と同じように洗礼を人々に授け始め、ユダヤ人からは「ヨハネよりもイエスの洗礼の方が優れているのではないか」と言われたり、人々がイエスの方に多く流れて行くようになると危機感を覚えたのでしょう。

イエスの方が栄え、自分たちの先生であるヨハネが衰えるということが、ヨハネの弟子達には辛いことでした。ヨハネの弟子達は、たまらなくなって、自分たちの先生に訴えたのです。

主イエスと洗礼者ヨハネは、この福音書の中でもよく比較されています。(4:1、5:33、10:41)

ナザレのイエスも洗礼者ヨハネも人々に洗礼を授けていたので、どちらの洗礼が優れているのか、ということは議論になっていたのでしょう。

洗礼者ヨハネが殺され、主イエスが十字架で殺された後にも、「自分が受けた洗礼はヨハネのものか、イエスのものか」ということは重要視されました。使徒言行禄の19章を見ると、エフェソの町でパウロが、ヨハネの洗礼を受けていた人たちに改めてイエス・キリストの洗礼を授けなおしたことが書かれています。

パウロは、その際、エフェソの人たちにこう言っている。

「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」

このパウロの言葉は、洗礼というものの本質を言っています。キリストに向かうものであるということです。

我々キリスト者の間でも、「自分が誰から洗礼を受けたのか」ということを必要以上に重要視することがあります。しかし、自分に洗礼を授けた信仰の指導者がどんなに立派な人か、ということよりも、洗礼を受けた自分が今どれだけキリストに向かっているか、ということにこそ本質があるのです。

ヨハネの弟子達は何とかしなければならないと思い、「みんながあの人の方に行っています」とヨハネに訴えました。しかし当の洗礼者ヨハネはそのことに何の問題も感じていませんでした。ヨハネは、自分の弟子達に言います。

「天から与えられなければ、人は何も受けることが出来ない」

ヨハネは、対岸で洗礼を授けているイエスという方こそ、天から来られた方であり、自分はあの方を待っていた、あの方の前に遣わされた者に過ぎない、と言いました。

弟子達の予想に反して、洗礼者ヨハネは、人々が自分ではなくイエスという方に向かっていくことをむしろ喜んでいるのです。ヨハネはこれまで、自分の弟子たちにも、エルサレムから遣わされてきた使者たちにも「自分はメシア・キリストではない」と伝えてきました。自分はキリストの到来を告げる前触れの声にしか過ぎない、自分の後から来られる方は自分よりも偉大である、その方は神の子羊であり、聖霊によって洗礼を授ける神の子である、と言ってきました。

2人が同じように洗礼を授けるのであれば喧嘩になりそうなものですが、違うのです。洗礼者ヨハネはイエスという方を見て、今こそ自分が小さくならねばならない、ということを知ってむしろ喜んだのです。

ヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿とその介添え人に例えています。主イエスが花婿であり、ヨハネが介添え人です。

この当時のユダヤの結婚式は、花婿は1人か2人の友人に付き添われて花嫁の下まで結婚式場まで向かっていました。花婿の付添人は結婚式場に花婿が入り、その会場に喜びの声が上がるのを聞くことを喜びとし、そこで自分の役割が終わった後満足して、身を引くのです。介添え人は決して結婚式の主人公にはなりません。主人公は花婿であり花嫁なのです。

聖書は神とイスラエルの契約関係を男女の結婚関係と重ね合わせて私たちに見せています。イスラエルは神と結婚の契りを交わした信仰の契約共同体なのです。

イスラエルの歴史は、神との契約に対する不誠実の歴史でした。イスラエルは神との愛の契約を結んだにも関わらず、歴史の中で偶像礼拝を続けたのです。そのことによってバビロンに国を滅ぼされ、捕囚とされました。数十年続いた捕囚生活から解放され、エルサレムへと戻ることが許される時、預言者イザヤが神の言葉を告げました。

イザヤ書54:6

「捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若い時の妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、私はあなたを捨てたが、深い憐みをもって私はあなたを引き寄せる」

イザヤ書62:5

「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」

洗礼者ヨハネはヨルダン川の向こう側に見える主イエスと、主イエスを求める人たちの姿を見て、今こそ自分が小さくなる時であると悟り、そのことを喜びました。花婿の介添え人のように、花婿と花嫁を引き合わせることを喜びとし、自分は静かに身を引くのです。

私たちも、誰かを教会へと招き、キリストと出会ってもらうことを喜びとします。大切なことは、自分がキリストになることではありません。誰かをキリストの下に連れて行くことを喜びとするのです。そこで自分の手柄を誇ったり、自分には人を導く力があるなどと勘違いしてはならないのです。

私たちには、自分自身がキリストに出会った時の喜びがあります。その喜びは、キリストと自分を結んでくれた、誰かがいたから、何かがあったからでしょう。もう自分が忘れてしまっている、たくさんの小さな小さなきっかけがあったはずです。

私たちはキリストを大きくするのであって自分が中心になって目立つことや、自分の姿が知られることを喜ぶのではありません。洗礼者ヨハネのようにイエスキリストと誰かをで合わせてその喜びの声を聞いて喜ぶ。そのようにして神のお名前が大きくされることだけを望むのです。

私達は思い出したいと思います。カナの婚礼の際、婚礼の宴の裏で、キリストが水から変えられた葡萄酒を黙々と運んだ使用人たちがいました。キリスト者の働きはいつでも日の当たらないようなものかもしれません。しかし、人知れず誰かのために執成しの祈りをして、その祈りが聞かれた時、私たちはキリスト者としてこの上ない喜びを感じるのです。

24節には「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」と書かれています。後に洗礼者ヨハネに何が起こるのかが暗示されています。投獄され、首を切られて殺されることになるのです。

洗礼者ヨハネの働きは、大きなものでした。荒れ野で悔い改めを人々に叫び求めながらメシアの到来の前触れを告げていたのです。神がこの世にお与えになった大きな招きの御業、救いの御業のために大きな働きをした人です。それにも関わらず、ヨハネは牢に入れられて、殺されてしまうことになるのです。なんと報われないことか、と思わされるのではないでしょうか。

ヨハネは主イエスの方に人々が行くのを見て、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言いました。ヨハネは命を落とすほどに衰えることになるのです。洗礼者ヨハネは、キリストの到来の前触れとして荒れ野で叫んだだけでなく、キリストの受難の前触れとして、自分の命を用いました。そうやって、ヨハネはキリストのために道ぞなえをしていったのです。 Continue reading