MIYAKEJIMA CHURCH

4月28日の礼拝案内

 次週 礼拝(4月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:27~42

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番15番、235番、168番、頌栄543番

【報告等】

◇4月27日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

4月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:16~26

「それはあなたと話をしているこの私である」

サマリアのシカルという町の井戸で、あるサマリア人女性とユダヤ人男性の旅人が出会った、という出来事を読んでいます。「私に水を飲ませてください」と言う旅人の一言から会話が始まって行きます。

人目を避けて、一日の一番暑い時間帯に井戸の水を汲みに来た女性にとって、見ず知らずのユダヤ人男性から話しかけられたことは迷惑だったでしょう。しかし、この旅人との会話が 進むに従って彼女は「この人には何かある」と思うようになっていきました。

「私にはこの井戸に勝る水がある。あなたが私が誰かを知ったら、あなたの方から私に水をくださいと言ったでしょう」と旅人は言いました。「私にはこの井戸に勝る水がある」という言葉に、サマリア人女性は食い下がります。このユダヤ人の旅人は、サマリア人の祖であるヤコブよりも、まるで自分の方が偉いかのような言い方をしているのです。

「この井戸は私たちサマリア人の先祖であるヤコブが掘ったのです。あなたはヤコブよりも偉大だと言うのですか」

旅人は、静かに答えました。

「この井戸の水は飲んでも渇くが、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

女性は「水が湧き出る」、と聞いて、「もう水くみに来なくてもいいのでは」、という期待を抱きました。しかしそこまで会話が進むとなぜか旅人は女性に「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言います。

「私に夫はいません」と答える女性に、「あなたはこれまで5人と結婚して、今は夫ではない男性と暮らしている」と答えました。女性は初めて会うこのユダヤ人の旅人が、自分のことを全て知っていることに驚きました。彼女の誰にも知られたくない生活のすべてを見通しているこの方のことを、女性は本当にサマリア人の先祖であるヤコブよりも偉大な方ではないかと思い始めるのです。

「あなた」という呼び方から「主よ」という呼び方になり、「あなたは預言者だとお見受けいたします」と言うようになりました。不審に思いながらも、女性は少しずつこの旅人の言葉に恐れを抱くようになっていき、この方の言葉を神の言葉として聞くようになっていったのです。

使徒パウロはコリント教会にこういう言葉を書いています。

「神は・・・私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」Ⅱコリ2:14

「キリストを知るという知識の香り」とは何でしょうか。

「キリストを知る」とは、どういうことなのでしょうか。

この女性はキリストと会話を続ける中で、少しずつ、「この方は預言者ではないか」、「この方は本当にキリストではないか」と心の目が開かれていきました。本を読んで、聖書学者が書いていることを理解して「キリストを知る」ということももちろん大事なことでしょう。しかし、このサマリア人女性は、難しい内容の宗教の本を読んだり、キリスト教の講演を聞いたのではないのです。

この女性は、自分に声をかけて来られたキリストに対して、「この方は誰なんだろう」と思いながらも、キリストの言葉を聞き続けた、求め続けた、ただそれだけで「この方は本当にメシアかもしれません」と人々に告げるようになります。彼女は諦めなかったのです。救いを、キリストをも求めることを諦めなかったのです。

当時はユダヤ人男性がサマリア人女性に声をかけることなど非常識なことだった。

それでも、彼女はこの方に出会い、言葉を交わしながら「あなたはヤコブに勝る方なのですか、あなたがおっしゃる水とはなんですか。なぜ私のことを全てご存じなのですか」と言って、その場を立ち去ることをしなかったのだ。

これが、「キリストを知ろうとする」ということではないでしょうか。この方に出会い、この方に全てを知られていることを知り、自分の内にあるあらゆる醜さをご存じの上で招いてくださる懐の深さを知って、どんどん求めていくことです。

このサマリア人女性は、目の前に座って自分に話しかけているユダヤ人の旅人の名前すら知ります。恐らく、主イエスとこの女性との会話は数分のやりとりだったでしょう。キリストを求め、真の礼拝を求め、罪の許しを求める女性は、目の前に現れ、全てを知ってくださっている方に、命の水を求め続けました。そのことによって、キリストを知っていったのです。

私達はキリストを知って、求め始めるのではないのでしょう。逆ではないでしょうか。キリストに知られ、キリストを求めるからこそ、キリストのことが少しずつ分かって来るのではないでしょうか。パウロが「キリストを知る」、と表現しているのは、そういうことではないでしょうか。

1世紀のキリスト者たちは、キリスト教の勉強をしてキリストを知ったのではないのです。聖霊の導きとしか言いようのない、「キリストとの出会いだった」としか言いようのないことを経験して、「キリストを知る知識の香り」を身にまとったのです。キリスト者たちは、その「キリストを知る知識の香り」をまとって生きることで、隣人をキリストの元へと導いて行ったのです。

招いてくださるイエス・キリストに向かって、直接「あなたは一体誰なのですか」と問いかける、そこにこそ、「キリストに出会う」、ということの本質があるのでしょう。それは、私たちのキリスト教についての知識量というようなものとは関係なく、もっと、単純なことではないでしょうか。

「このような私まで、神は探し求め、招いて下った」、という事実に打たれ、ひれ伏すことです。それが、本当の意味で「キリストを知る」ということでしょう。

さて、サマリア人女性は旅人に向かって、「あなたを預言者とお見受けします」と告白した。そして一つのことを尋ねた。

「サマリア人はサマリアの山で礼拝しましたが、ユダヤ人はエルサレムに礼拝の場所があると言っています」

女性は何を知りたがっているのでしょうか。彼女の言葉は、「預言者であるあなたに、サマリア人の私が一体どこで礼拝すればいいかを教えてほしい」、という訴えだった。彼女は、礼拝の場所を探し求めていたのです。

自分の私生活を全て知っているということは、この方は預言者なのだろう、そして預言者は神の言葉を託されているのだから、私が神を礼拝するためには、どこに行けばいいのか教えてほしい、と思ったのだ。

それにしてもなぜ突然、女性は正しい礼拝の場所がどこなのかを尋ねたのでしょうか。礼拝の場所を知りたいと願うことは、どこで罪の許しを得られるのか知ろうとした、ということです。

女性の訴えは、「私の罪は一体どこに持っていけば許されるのですか」ということでした。

申命記18章15節に「モーセのような預言者が来る」と言われています。それは、神から離れた人を神の元へと招く言葉を伝えてくれる人、正しい神との関係へと導いてくれる人が来る、ということです。このサマリア人女性は、今自分の目の前にいるユダヤ人男性が、その預言者ではないかと希望を持ちました。それは、罪の許しの希望だったのです。

女性は、「私どもの先祖はこの山で礼拝しました」と言っています。サマリアは、信仰の父と呼ばれるアブラハムやイスラエルという名前を神から与えられたヤコブが礼拝を捧げた場所でした。

アブラハムが神に召され、故郷ウルを離れ、旅をしてたどり着いた場所は、サマリアでした。アブラハムはそこで礼拝を捧げています。創12:6

また、一度は逃げ出したヤコブが家族と兄エサウの下に戻った時にも、そこで礼拝を捧げました。創 33:20

しかし、主イエスの時代には、サマリアから礼拝の場所が無くなってしまっていました。イスラエルは歴史の中で、南北に分裂してしまいます。南のユダヤ人と北のサマリア人に別れ、ユダヤ人たちはエルサレムで、サマリア人たちはサマリアでそれぞれ礼拝をささげるようになりました。

サマリアの人たちは Continue reading

4月21日の礼拝案内

次週 礼拝(4月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:16~26

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番14番、164番、265番、頌栄543番

【報告等】

◇4月27日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

4月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:7~19

「あなたの夫を連れてきなさい」

イエス・キリストと、サマリア人女性の出会いの場面を読んでいます。女性は井戸のそばに座って来た旅人が、自分に話しかけてきたことに驚きました。当時、「ユダヤ人とサマリア人は交際しなかった」、と書かれています。男性が女性に話しかけることも、はばかられていた時代でした。

それでも主イエスはかまわず女性に話つづけていらっしゃいます。しかし、この場面を読むと、主イエスと女性の会話はなかなかかみ合っていません。

「水を飲ませてください」と女性に頼まれた主イエスでした。しかし本当に問題にされたのは、女性がご自分に水を飲ませてくれるかどうか、ということではありませんでした。「水を飲ませてください」と言った御自分が一体何者であるか、そして主イエスが女性にお与えになろうとしている「水」とは何なのか、をお伝えになろうとしたのです。

3章で主イエスとニコデモの会話が記録されていますが、それとよく似ています。ニコデモは主イエスの言葉の表面的に理解しようとしました。このサマリア人女性も同じです。

ニコデモとの違いは、このサマリア人女性は、自分に話しかけてきたユダヤ人の旅人が言葉で言い表すことのできない何かを伝えようとしているのではないかと感じて、なんとか理解しようと聞き続けたことです。

ニコデモは、イスラエルの教師として「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と、主イエスに食い下がりました。

「もしあなたが神の賜物を知っており、『また水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」

この言葉を聞いて、女性は「この人はユダヤではとても偉い人なのだろう」と思ったようです。「あなた」と呼んでいたのが、「主よ」と呼ぶようになり、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言うようになっていきます。そして最後には女性は人々のところへ行き、「あの方はメシアかもしれません」と告げて回ることになるのです。

イエス・キリストとの出会いによって、人は自分がまとっている仮面や鎧を脱いでいくことになります。そうやって身軽になっていくにつれて、キリストの存在を間近に感じるようになっていくのです。

サマリア人女性は、主イエスの言葉を不思議に思いました。自分はからかわれているのだろうか、と思ったかもしれません。「水を飲ませてください」と言ったかと思うと、「私に頼んだら生きた水を与えたことでしょう」などと言うのです。水を入れる入れ物を持ってもいないのにそんなことを言ってくるのです。

そしてまるで自分が、旧約聖書の創世記に出てくるヤコブよりも偉いかのような言い方をすることが気になりました。女性は主イエスに質問します。

「あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え彼自身もその子供や家畜もこの井戸から水を飲んだのです」

ヤコブはイスラエルとも呼ばれ、イスラエル12部族の元になった人です。特にサマリア人の祖先とされていました。このユダヤの旅人はヤコブが掘ったこの井戸の水に勝る「生きた水」を与える、などと言っているのです。

サマリア人女性にとって、ヤコブ以上に偉い、という人物は考えられなかったでしょう。女性は、主イエスをヤコブと比較しています。だから主イエスがおっしゃることの意味がなかなか分かりませんでした。

キリストに対する無理解というのは、人が誰しももっている、このような比較に根差していることが多いのです。「イエス・キリストと誰それは、どちらが偉大だろうか」、などと考えるのです。

キリストを世界の偉人の一人に数える人は多いのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストのことを、単に「社会にいい影響を及ぼした偉い人の一人」として見るのであれば、このサマリア人の女性やイスラエルの教師ニコデモのように、主イエスがおっしゃる言葉が理解できなくなってしまいます。キリストをキリストとして見る信仰の目を持たなければ、聖書を読んでも本当のところはよくわからない、ということになってしまうのです。

ニコデモは、「人は上から新たに生まれなければならない」と言われて、「どうして母の胎に戻ってもう一度生まれることができるでしょうか」と言いました。この女性も、「私はあなたに生きた水を与えよう」と言われても「あなたはヤコブよりも偉いのですか」と言いました。ちぐはぐなやりとりです。

ニコデモも、サマリア人女性も、主イエスのことをはじめはキリストではなく「ユダヤ人の律法の偉い教師」として見ました。だから人の知識で、人の地平でしかこの方を見ることができなかったのです。

主イエスがおっしゃる「生きた水」とは何なのでしょうか。ヤコブが掘った井戸の水とはどう違うのでしょうか。女性は主イエスがおっしゃった「生きた水」のことを文字通り、わき出す水のことだと理解しています。

ヤコブが掘ろうが、誰が掘ろうが、井戸から水を汲んで飲んでもやがて喉は渇きます。しかしこの旅人は言うのです。

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」

この言葉は女性にとってとても魅力的なものでした。女性は生きるために毎日この井戸に水を汲みにこなければなりませんでした。しかし水汲みは嫌な作業でした。人目を避けて、一日で一番暑い時間に水汲みに来ていました。人目を避けなければならないような生き方をしている人だったのです。

この人が水をくれるというのであれば、自分はもう人目を避けてこの井戸に水くみに来る必要はなくなります。女性は答えました。

「主よ、渇くことがないように、またここにくみに来なくてもいいようにその水をください」

これこそ女性の本当の願いでした。

よく見ると、主イエスは女性に「生きた水、湧き出る水」とおっしゃっています。単なる「水」のことをおっしゃっているのではないのです。文字通りの水ではなく、何か霊的な意味でこの言葉を女性にお伝えになっているのです。

聖書で、水は「命」の象徴です。

詩編42:1~2「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」

イスラエルの詩人は歌っています。「水を求めるように神を求める」「魂の渇きを満たしてくださるのは神であり、自分の魂は命の神を常に求めている」

預言者イザヤの書にも、神の言葉があります。

イザヤ書55:1「渇きを覚えているものは皆水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き私のもとに来るがよい。聞きしたがって魂に命を得よ」

国を失い、バビロンに捕らわれていたイスラエルの人たちに向けて神が預言者を通して語られた言葉です。

外国にとらわれていたイスラエルの人たちは魂が飢え、渇いていました。そこで神の招きの言葉を聞いたのです。

「水の所に来なさい」

「水の所」とは神の御許です。このようにイエスキリストがおっしゃる「生きた水」とは神のことです。そして「私はあなたに生きた水を与えることができる」とおっしゃるのはつまり「私が神である、だからここに来なさい」ということなのです。今サマリア人女性は目の前に「命の源泉」を見ているのです。

ここまで言われても女性はまだキリストがおっしゃっていることが理解できていません。彼女はまだ主イエスが自分の水汲みの仕事を軽減させてくれる、ことを期待しています。

私たちもこの女性が持っていた期待と同じようなことをキリストに対して抱くことはないでしょうか。キリストを信じれば何か自分の仕事が楽になるという期待をいたりはしないでしょうか。自分が抱えている仕事や問題が軽くならないのであればすぐに私たちはすぐにキリストを疑ってしまうのではないでしょうか。 Continue reading

4月14日の礼拝案内

次週 礼拝(4月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:10~19

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番13番、152番、400番、頌栄543番

【報告等】

◇4月27日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

4月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:1~9

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

イエス・キリストと、一人のサマリア人女性の出会いが記録されています。主イエスがユダヤ地方からサマリアを通って旅をされていた途中のことでした。2人の出会いは、主イエスが旅に疲れてそのまま座られた井戸のそばでした。

旧約聖書を読むと、井戸のそばでいろんな人たちの出会いがあったことが書かれています。イサクや、ヤコブ、モーセもそうです。彼らは、井戸で何かしらの出会いがあり、それが結婚のきっかけとなったりしました。小さな偶然のような誰かの井戸での出会いが、歴史の中で全ての人間にとって大きな意味を持つことがあります。

今日私達が読んだところを何気なく読むと、サマリアの井戸で主イエスと女性が出会った、というだけのことでしょう。しかし旧約聖書の物語や、当時のユダヤとサマリアの背景を踏まえて読むと、表面を読んだだけではわからない、この出会いに隠された神の導きの深さを見ることが出来るのです。

主イエスはユダヤ地方で洗礼者ヨハネと同じように、人々に洗礼を授けていらっしゃいました。「実際に授けていたのは弟子達であった」、と書かれていますが、主イエスの権威のもとに弟子達は人々に洗礼を授けていたのでしょう。

主イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を造り、洗礼を授けている、ということがファリサイ派の人たちに知られることになりました。

「イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。

ファリサイ派の人たちから警戒され、宣教活動の邪魔をされることを煩わしく思われたのでしょう。

ヨハネ福音書を読むと、主イエスの一行は頻繁にユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していたことが分かります。北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方を行き来する際、一つ問題がありました。ガリラヤ地方とユダヤ地方の間に、サマリア地方があったということです。

何が問題かというと、ここにも書かれているように、この当時、ユダヤ人はサマリア人と交際しなかったのです。ユダヤ人がガリラヤとユダヤを行き来する際、サマリアを通るか、迂回するかを決めなければなりませんでした。ユダヤからガリラヤまで、まっすぐ行けば三日ぐらいで行けますが、サマリアを通らず迂回していくとなれば、二倍か三倍、時間がかかるのです。

主イエスと弟子達は、サマリアを通ってガリラヤに向かうことにしました。そして一行がサマリアに来た時、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座られました。て弟子達は食べ物を買うために町に行っていました。主イエスは井戸のそばにお一人でいらっしゃいました。そこに一人のサマリア人女性が井戸に水を汲みに来ます。主イエスはこの女性に「私に水を飲ませてください」と頼まれました。

女性は驚いています。

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

この女性の驚きは当時では普通のことでした。ユダヤ人がサマリア人に、しかも男性が女性に、こんなにも大っぴらに話しかけ、ものを頼むということは考えられないことだったのです。

少し、この時の女性の驚きについて、背景の解説を加えておきたいと思います。

BC870、ダビデの治世が終わり、ソロモンが死ぬと、イスラエル王国は北と南に分かれました。北王国はサマリアを首都に、南王国はエルサレムを首都にしました。

北王国はBC721にアッシリア帝国に占領されてしまいます。アッシリアは、そこにユダヤ人以外の民族を入れました。そのことで、サマリアを中心とする北王国は混血が進んでいきました。

一方、南王国もバビロニアによってBC586に滅ぼされましたが、人々はそのままバビロンへと連れて行かれ、捕囚生活を送りました。やがてその人たちの子孫は、エルサレムのあるユダヤ地方に戻って来ることになります。捕囚からの帰還民は自分たちのユダヤ人としての純血が保たれたことを大切にし、サマリアの人たちを異民族として見るようになります。こうして、歴史の中で北のサマリアと、南のエルサレムの間に深い溝が出来ていったのです。

元は同じ国民だったのに、国が分裂し、外国に滅ぼされることを通してこんなにも深い溝が出来ていたのです。そのような背景の中で、ユダヤ人の主イエスと、サマリア人女性が出会い、言葉を交わしたのです。

問題はそれだけではありません。主イエスが話しかけられた相手がサマリア人であったということに加え、それが女性だった、ということです。主イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人という民族の違いに加え、性別の違いも大きなものでした。

当時、律法の教師は、道で女性に話しかけてはならないと教えていました。ファリサイ派の一部の人たちは、女性を見ないように、目を閉じて歩くほどでした。

そしてもう一つ、踏まえておかなければならないのは、この女性が、正午ごろ、水を汲みに来た、ということです。正午ごろというのは一日の中でも一番暑い時間帯です。

そんな時には普通水を汲みに来る人はいなません。

しかし、この女性はわざわざ正午ごろ水を汲みに来ました。つまり、人目を避けていたのです。この女性は、人目を避けなければならないような、後ろめたい生活・不道徳な生活をしていた人であった、周囲の人たちから「罪人」として蔑まれていたような人であった、ということがわかります。

主イエスが声をかけられたのは、普通、ユダヤ人の律法の教師が絶対に声をかけることのないような、人目をはばかるような生き方をしているサマリア人の女性だったのです。

ここで私達は主イエスと女性が出会った場所に注目したいと思います。それはシカルという町でした。そしてこの井戸は「ヤコブの井戸」とあります。

旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムの孫にあたるヤコブにまで歴史をさかのぼる町であり、この井戸はヤコブに由来する井戸でした。福音書は、イエス・キリストとサマリア人女性が出会ったのはその街のその井戸だった、ということを強調しています。何かその場所に象徴的な意味があったのです。

ヤコブは、兄エサウを騙したことで恨まれ、家から逃げ出した人でした。荒野を逃げる途中、野宿した時、夢を見ます。

「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、そこを神のみ使いたちが上ったり下ったりしている」、という夢でした。

夢の中でヤコブは神から言葉をいただきます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

主イエスが弟子の一人ナタナエルを召された時、こうおっしゃいました。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなた方は見ることになる。」1:51

ヤコブが見た天と地をみ使いたちが行き来するあの光景を、主イエスの弟子達は、主イエスを通して見ることになる、と約束されたのです。

キリストがこのシカルに来られた、そしてこの女性に話しかけられた、ということは、天の招きがここまで来た、神の招きがこのような女性にも届けられた、ということです。天に続くはしご、天に至る道、真理と永遠の命に至る道が、このシカルに、サマリアにも、そして周りから蔑まれていた女性にまでも示されたということなのです。

洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「花婿」になぞらえ、自分はその「介添え人」であると言いました。誰かが主イエスと出会うということは、ある意味、その人がキリストの花嫁として迎え入れられる、ということです。

主イエスは今、一人の異邦人女性が井戸のそば出会われました。当時のユダヤ人の感覚では一番接点のない相手でしょう。対照的な二人の出会いです。男性と女性、教師と罪人、天から来られた方と、この世で最も低い者、ユダヤ人とサマリア人の出会いです。民族、信仰、階級、性別、職業、地位・・・そういった人を隔てるものすべてがここに含まれている。しかしそれを超えて、主イエスは全ての人を探し求めていらっしゃいます。ヤコブが見た天と地を結ぶ階段として、神と世をつなげようとなさっているのです。人間が愚かにも造り上げて来てしまった、その互いの溝を埋めようと、キリストは世に来られました。

私達は、神が選んでくださらなければ、神のものとなることは出来ません。キリストに選んでいただかなければ、キリストのものとなることは出来ません。 Continue reading

4月7日の礼拝案内

次週 礼拝(4月7日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書4:1~9

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番12番、148番、154番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月31日の礼拝説教

創世記4:13~26

「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」

最初の人間アダムとエバがそうであったように、その息子であるカインも神の前に罪を犯しました。アダムは土から造られ、土を耕し、土に仕える生き方が神から与えられが、大地を治める神のようになろうとして、自ら神の祝福から離れる一歩を踏み出してしまいました。

神は人間に「土を耕す」ことをお求めになりました。「土を耕す」というのは、「大地に仕える」ということでした。人は神がお創りになった祝福の大地仕え、祝福の実りを得て生きる楽園にいました。しかし楽園から追放されてしまった人間は、大地を祝福から呪いへと変えてしまうことになります。

アダムの長男カインは、アダムが犯した人間としての罪を、繰り返してしまいました。弟アベルを殺してしまったのです。祝福の実りをもたらすはずの大地に、カインは自分の弟の地を吸わせてしまいました。

カインが自分の弟アベルを殺したことで、カイン自身だけでなく「大地も呪われることになった」、と書かれています。カインが大地に仕えても、大地はカインのために産物をうみださない、と神から宣言されてしまいました。そして、カインは、「地上をさすらう者」とされてしまいます。

聖書の中でも有名な、創世記の兄弟殺しの事件です。カインは、計画的に自分の弟を殺しました。神から「あなたの弟はどこにいるのか」と聞かれても、「私は弟の番人でしょうか」などと、小馬鹿にした答え方をしています。

カインは、アベルを殺しても、神にはばれないと思っていたのでしょうか。神がアベルの捧げものに目を向け、自分の捧げものには目を向けてくださらなかった、という恨みもあったでしょう。神に対して不貞腐れた子供のように振る舞っています。

土の中に染み込んだアベルの血は叫び声となり、神にまで届いていました。カインの罪を糾弾する声は、消えることはなかったのです。神の前に自分の罪を隠し切れない人間の姿がここにあります。

神の前に虚勢を張っていたカインでしたが、「あなたは呪われる」という神の言葉を聞いて、崩れ落ちました。それまで、自分が神から離れ、土から離れ、地上をさすらう者となるなどということを考えたこともなかったのです。神がいらっしゃって、土が自分に実りをもたらす、という大前提が崩れるなど、考えもしなかったことでした。皮肉なことにカインは土を耕すものであったにもかかわらず土から呪われ土から見捨てられるものとなってしまいました。

カインは神ご自身から直接「あなたは呪われる」という言葉を言われ、初めて自分がしたことの罪の重さを知りました。カインはここに至って自分を生かすものなんであるかを知ったのです。

結局、人は罪の歩みの中で、神の声を聞かされるのです。人は欺くことは出来ます。しかし、血の叫びを聞かれた神から、自分の罪をごまかすことは出来なくなり、神からの罪の宣言を聞いて、崩れるのです。

最終的に罪が結ぶ実とは何でしょうか。カインが犯した罪は、カイン自身を失わせるものでした。これまで彼は神と共に生き、大地に仕え、家族の調和の中で生きて来ました。しかしここに来て、それまでの自分と決別しなくてはならなくなりました。彼は自分自身を失うことになったのです。

カインは自分の罪を嘆きます。

「私の罪は重すぎて負いきれません」

自分が犯した罪の重さを知って、もう自分が自分の足で立って生きることが出来なくなりました。大きな石を乗せられているように、罪の重さにつぶされ、生きていくことはできない、と嘆きます。

この時ほどカインは孤独を感じたことはなかったでしょう。自分の手で大地を耕し、弟を簡単に殺せるほどの力をもっていた人です。自信にあふれ、神からとがめられても臆することなく言い返していたカインです。それが、自分の罪を神から指摘されたとたんに、崩れ落ちたのです。そして疎外感の中で神に向かって嘆きました。

しかし神は、蛇の誘惑に負けたアダムをエバをお見捨てにならなかったように、弟を殺したカインをお見捨てにはなりませんでした。アダムとエバをエデンの園から追放された際に守りをお与えになったように、これから「地上をさすらう者」となるカインに守りのしるしをお与えになったのです。どんなしるしであったのかは書かれていませんが、カインが他の人から暴力を振るわれないよう、何かしらの目印をお与えになりました。

ここを読むと、神の許し深さを感じさせられます。しかし、カインがアベルと神に対して犯した罪がなかったことされた、ということではありません。カインは今自分が生きている場所から追放されることになりました。それは神の前から追放され、「さまよう者」とされた、ということです。

土を耕すものであったカインは、神と大地から追放され、地上をさまようものとなりました。4:17を見ると彼は結婚して、一つの街を築いたことが書かれています。一度は「地上をさすらう者」とされたカインですが、街を築き、そこに定住したようです。町をつくり、そこに人々を迎え入れるようになった、ということですので、カインはその街の支配者になった、ということでしょう。

カインはどのような街を築いていったのでしょうか。カインが住んだのは「ノド」という土地でした。ノドは「さすらい」という意味です。カインが造った街は、ノド、つまり「さすらい」の町でした。「地上をさすらう者たち」が集まり、カインがその中心にいて築かれていった町であった、ということでしょう。

神から離れたカインは、自分と同じような人たちを集めて街を作ったのです。「善悪を知る木の実を食べた」ような人たち「土の上で誰かの血を流した」ような人たちが集まって来て、カインはその中心にいたのです。カインは再び土を耕す生活に戻ることなく、自分と同じように神様の元からから追放されてしまったような人たちを集めて自分をその中心に置いていたのです。

聖書は、守りのしるしを与えられたカインのその後を描くことによって私たちに何を伝えているのでしょうか。カインのような人でも、神に許されるのだ、という愛の物語なのでしょうか。

そうではないでしょう。カインが築いた町は、神から追放された人たち、「地上をさまよう者たち」が集まってくるような町でした。とても平和な町であったとは考えられません。

その町は、そしてカインの子孫はどうなったのでしょうか。聖書にはそのことも書かれています。カインからエノクが生まれ、その後も、イラド、メフヤエル、メトシャエル、レメクと代が替わっていきます。

カインから5代目のレメクのことが19節以下に書かれています。レメクは、ある時自分の二人の妻を呼んで、誇らしげに語っています。

「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐7倍ならレメクのためには77倍」

細かいことはわかりませんが、レメクは暴力を持って誰かに復讐をしたようです。そして自分の妻たちにその自分の暴力を誇らしげに語るのです。「自分は自分の先祖カインに与えられたしるしよりももっと強い守りのしるしを持っているのだ、自分は無敵だ」と言って、暴力を誇るレメクの姿が描かれています。

カイン同様、レメクは自分の持つ力、暴力の強さをもって、神を軽んじていることが分かります。神に背を向け、神のもと離れたカインの罪は、世代を超えて実りを結んでしまっているのです。

カインの物語は、私たちに大きな警告として与えられています。これは、カインが罪赦されて町を築くほどの者とされた、という美談ではありません。神から追放され「地上をさすらう者」となったカインが、同じように神に背を向けた者たちと一緒に町を築き、暴力と不信仰を育ててしまったという物語なのです。

カインとアベルの物語全体の結末が最後に記されています。「カインとは別の系譜が生まれた」、ということです。アダムとエバの夫婦に、セトという名前の新しい子が授かりました。「カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである」とあります。

カインが弟アベル殺し、土を耕す生活から追放されてしまったために、地を受け継ぐ者がいなくなってしまい、祝福の系譜が途切れてしまいました。だから神は再び創造の御業をもって、夫婦にセトの命を授けられ、新しい祝福の系譜を造られたのです。

セトにはエノシュという子が授かりました。「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあります。「主の御名を呼び始めた」というのは、「神を礼拝し始めた」ということです。ここから礼拝の歴史が始まるのです。罪に苦しむ人間は、礼拝無しに自分を保つことは出来ません。

カインとセトが、神から離れてさすらう命と神を礼拝する命の分かれ目になりました。このセトの子孫にノアという人が生まれやがてイエス・キリストへとつながっていくことになります。

イエス・キリストは、山上の説教の中で「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とおっしゃいました。キリストはご自分を求める人たちには「受け継ぐべき大地」があることをしめされたのです。

人間は神から離れるという罪を犯し、楽園を失いました。それで受け継ぐ地がなくなってしまった、ということではありませんでした。立ち返るべき場所があるのです。キリストは「あなたがたが立ち返る場所は私だ」、と世に向かって呼びかけられたのです。

神はカインとは別の系図をお創りになり、エデンの園から追放されもう楽園とは切り離された人間が、再び神と共に生きる命へと戻れる道筋を残されました。何によってか。キリストの復活によって、です。

今日はイースターです。キリストが墓の中から復活なさったことを記念し、与えられた祝福を祝う日です。もう、私たちはこの地上をさすらう必要はありません。キリストが蘇られたあの朝に、天の故郷へと戻る道筋が示されました。

私達は誰もがいずれ肉体の死を迎え、墓に入ることになります。しかし、私達の墓は世の終わりに空っぽになります。「起きなさい」というキリストの一言によって、私達は永遠の命へと招き入れられることになるのです。礼拝を続け、そこに至る道をしっかりと踏みしめて行きましょう。