MIYAKEJIMA CHURCH

3月24日の礼拝案内

次週 礼拝(3月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記4:1~12

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番10番、139番、515番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月17日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:31~36

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」

今日読んだ言葉は、誰が話している言葉なのかがよくわからない言葉です。普通に読むと、27節から続く洗礼者ヨハネの言葉のように読めます。しかし、聖書が書かれた時代にはカギカッコはありませんでした。聖書の原文では、どこまでがヨハネの言葉のか、という区切りははっきりしないのです。

聖書学者の中でも意見が分かれていて、「これは洗礼者ヨハネの言葉だ」と言う人もいれば、「これは福音書を書いたヨハネによる説明の言葉だ」と言う人もいれば、「これはイエス・キリストご自身の言葉として読むべきだ」という人もいます。

これが一体誰の言葉なのか、ということははっきりしませんが、それ以上に大切なことは、今日私たちが読んだこの言葉が、イエス・キリストのことを証ししている、ということ。そして、キリストに対して私達がどうあるべきか、ということを直接私達に訴えていることです。

31節「上から来られる方は、全てのものの上におられる」

これはイエス・キリストのことを指しています。この福音書の初めの1章で言われているように、キリストが「上から来られた方・天から来られた方」であることを改めて強調しています。その「上から来られる方」が、「地に属する者」のために天から地上に来てくださり、天にいらっしゃる神を証ししてくださる、と1章のキリスト証言を繰り返しているのです。

今日読んだ言葉の前半部分では、天から来られた方に対して、地に属する私たちがどう向き合うべきなのか、ということが言われています。

32節では、キリストがおっしゃることを、「この世の人々は誰も受け入れない」と言われています。これも、1章で言われていることの繰り返しです。

「暗闇は光を理解しなかった」

「言葉はご自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

ここを読んで、私たちは主イエスとニコデモの会話を思い出すのではないでしょうか。ニコデモは、主イエスに向かって、「あなたは神の元から来られた教師です」と言いました。「この方には何かある。この方は特別な方だ」と、ニコデモはイエスという方に大きな期待を抱いてやってきました。

しかし、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と主イエスから言われると「どうしてそんなことができましょうか」と理解することが出来ませんでした。

天から来られたキリストが「霊の言葉」を聞かせても、地に属するニコデモは「どうしてそんなことができるでしょうか。どうしてそんなことがあるでしょうか」と繰り返すのです。

ニコデモは主イエスのことを「あなたは神の元から来られた教師です」と言ってはいますが、本当に「神の元から来られた方」であると信じ切ることはできませんでした。主イエスがおっしゃることを何も理解できないまま、頭の中にいろんな疑問を抱いたまま、主イエスの元から去って行きました。

ニコデモは、キリストの言葉を聞き理解するための前提を持っていませんでした。それは、「この方は本当に天から来られた神の子である、天の言葉を伝えてくださるキリストである」ということです。それが無ければ、主イエスの業も、言葉も、あの夜のニコデモのように、なんだかよくわからないものとして終わってしまうでしょう。

今でも、イエス・キリストのことを、知っている人はたくさんいます。しかし、一体どれだけの人が、キリストのことを本当に知っているでしょうか。本当に知ろうとしているでしょうか。「人々に愛を伝えて、最後に十字架にかけられて殺された、歴史上の偉人」というように考えている人は多いのでしょうか。どれだけの人が、「過去の偉人」としてではなく、「天から来られ、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、復活して永遠の命に至る道を拓いてくださり、今も私たちに聖霊を拭き注いでくださっている方」として見ることができているでしょうか。

主イエスはニコデモに「上から新たに生まれなければならない、水と霊とによって新たに生まれなければならない」と言われました。なぜ私たちは洗礼によって新たに上から生まれなければならないのでしょうか。

洗礼を受けて、そこから本当の意味でイエス・キリストを知ることが始まるからです。私達はキリストを全て理解して、洗礼を受けるのではありません。キリストを知りたいから、キリストを少しでも理解したいから洗礼を受けるのです。聖霊の注ぎ、聖霊の交わりを通して、キリストを知って行くことになります。

私たちは教科書を読んで理解するような仕方でキリストを知っていくのではありません。生きることを共にすることで知って行くのです。

34節 「神がおつかわしになった方は、神の言葉を話される」

これがイエス・キリストの地上での使命でした。キリストがこの地上で私達にお伝えになったことは、地上に生きる私達が自分たちで見聞きすることのできない天のことです。

主イエスはニコデモにおっしゃいました。

「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り見たことを証ししているのに、あなた方は私たちの証を受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば。天上のことを話したところでどうして信じるだろう。」

キリストには苦しみがありました。地上にいる人たちは、地上のことにしか目を向けていませんでした。だから天上のことをどれだけ話して聞かせ、奇跡を見せても、信じようとしませんでした。

この後の7:28を見ると、主イエスはエルサレムの人々に向かって大声で叫んでいらっしゃいます。

「あなたたちは私のことを知っており、また、どこの出身かも知っている。私は自分勝手に来たのではない。わたしを遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私を遣わしになったのである」

また、8:26以下にはこんなユダヤ人たちと主イエスのやりとりが記されています。

「あなたは一体どなたですか」とユダヤ人たちが主イエスに尋ねて来ました。

「それは初めから話しているではないか。あなた達については言うべき事、裁くべきことがたくさんある。しかし私を遣わしになった方は真実であり私はその方から聞いたことを世に向かって話している」と主イエスはお答えになります。

福音書はユダヤ人たちについてこう記しています。「彼らはイエスが御父について話されていることを悟らなかった」

主イエスがニコデモにおっしゃったように、神は風を吹かせるように、霊を吹かせていらっしゃいます。自分に向かって吹いてくる霊の音に、どれだけ耳をすませるか、ということが、私達の信仰の姿勢でしょう。

自分の知識で、この世の知恵で神を知ることはできません。

使徒パウロは、手紙の中で書いています。

「神は世の知恵を愚かなものにされた・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています・・・神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました」 Continue reading