MIYAKEJIMA CHURCH

2月2日の礼拝案内

次週 礼拝(2月2日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書10:19~30

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番30番、77番、507番、頌栄543

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月26日の礼拝説教

ヨハネ福音書10章7節から18節

イエス・キリストが神殿で一人の盲人の目を癒されました。それが安息日だったので、「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」という聖書の教えを厳格に守っていたファリサイ派の人たちは、このことを非難しました。しかし、「誰かを癒す、ということは罪びとにはできない」、ということで、このことが議論の的となりました。

果たして、イエスは律法の掟を破る罪びとなのか、安息日に神の御心を行うメシアなのか。

主イエスに癒された人は、ファリサイ派の人たちから尋問を受け、結局追放されてしまいました。ファリサイ派の人たちではなく、自分を癒してくださったイエスという方に従いたいと自分の意思を表明したからです。

追放されたその人のもとに、主イエスはまた来てくださいました。そしておっしゃいました。「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」

これを聞いてファリサイ派の人たちは怒りました。「私たちは見えない、ということなのか」

主イエスは怒る彼らに「羊は羊飼いの声を聞き分ける。羊は羊飼い以外の者にはついてかない」とたとえを話されました。しかしファリサイ派の人たちにはその話が何のことか分かりませんでした。

更に、「私より前に来たものは皆盗人であり 強盗である」とおっしゃいます。これはユダヤの宗教的指導者たちのことでした。羊たちは盗人や強盗にはついて行きません。

主イエスによって目を癒された人は、主イエスの声を、「自分が本当に従うべき声」として聞き分けたのです。そして自分に声をかけてくださったその方に、「主よ」と呼び掛けました。まさに「自分の羊飼い」として主イエスを選び取ったのです。

今日私たちが読んだのは、その続きです。主イエスは続けてご自分のことを「羊の門」「良い羊飼い」であることをおっしゃいます。

ご自分が「羊の門」である、ということは、神の支配・神の国へと入るには、イエス・キリストを通らなければならない、ということです。キリストご自身が、救いの入り口である、ということをたとえていらっしゃるのです。

そして主イエスはご自分のことを「私は良い羊飼い」であると11節でおっしゃっています。この「良い」という言葉は「美しさと愛に満ちている」という意味があります。

続けて羊飼いと雇い人の違いをお話しなさいます。雇い人は羊を所有していないので何か身の危険を感じることがあれば自分の安全を優先させて、羊を置いて自分は逃げるのです。当然でしょう。羊は自分の羊ではありません。まずは自分が助かることが一番です。

ユダヤの指導者たちが癒された盲人に対してやったことは、自分たちの考えを守るために彼を追放する、ということだった。彼らは「羊飼い」ではなく「雇い人」にしか過ぎないことを主イエスは明らかにされたのです。

主イエスはご自分のことを、羊を守るために自分の命をかける、「良い羊飼い」であることを宣言されます。羊飼いとして自分自身の身を羊のために投げ出すことを約束し、強盗が来たら 主イエスは羊のために全てを投げ出してでも守ろうとなさるのです。

「羊の群れは、羊飼いの声を聞き分ける」と主イエスはおっしゃっていますが、皮肉にも、ユダヤ人の指導者たち、聖書をよく研究していた人たちは、神の元から来られたキリストという羊飼いの声を聞き分けることはありませんでした。

更に皮肉なことに、ユダヤ人たちが罪びととさげすんでいたサマリア人の女性や、生まれながらに目が見えなかった人が、主イエスの声をメシアの声として、自分の羊飼いの声として聞き分けて来ました。

旧約聖書を見ると、古代イスラエルは遊牧社会だったので人と神の関係を表す比喩として羊と羊飼いの関係がよく用いられています。良い指導者は「人々の羊飼い」として表現されています。例えばダビデは神からこう言われています。

「我が民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる」サムエル記下5章の2節

逆に、イスラエルの指導者が神の御心とは違う方向に民を導くと、神はその指導者を悪い羊飼いとして裁かれます。

 初めは「良い羊飼い」として選ばれたダビデも、ウリヤを殺してその妻をめとった時、預言者ナタンがダビデのもとにやってきて、ダビデの犯した罪を明らかにしました(サムエル記下12章1節から7節)。あのイスラエルの英雄ダビデ王ですら、道を誤り、「悪い羊飼い」として神からの裁きが受けています。

少し、イスラエルの歴史を振り返りたいと思います。イスラエルはどのような指導者「羊飼い」に導かれてきたでしょうか。

出エジプトをして約束の地に入ったイスラエルの民は、人間の王が欲しい、と言いました。「他の国のように、自分たちにも人間の王が欲しい」

荒野を歩き、ようやく約束の地での生活が始まる。それまで、イスラエルの王は、神ご自身でした。エジプトから救い出してくださったのも、荒野を導いてくださったのも、神でした。神は昼は雲の柱によって民を導き、夜は火の柱として寝ずの番をしてくださったのです。

しかし、約束の地に入ってみると、周りの国々の繁栄が眩しく映ったのでしょう。自分たちも、人間の王が欲しい、と民は言い始めます。預言者サムエルは、民の訴えに対して、それはよくない、と言いましたが、民は聞きませんでした。

やがて、サウルという若者が王とされ、つぎにダビデが王となります。ソロモンがそれに続き、レハブアムの時にイスラエルは南北に分裂することになります。

ソロモンは派手な外交を続けて、外国からたくさんの妃をめとり、それと同時に異国の信仰もイスラエルに入ってくるようになりました。その息子のレハブアムの代になると、王は自分の周りに自分の言うことを聞く仲間だけを置きました。そのことで、レハブアムの圧政に民の怨嗟が高まり、イスラエルで内戦が起き、南北に分かれてしまうのです。

ダビデの血筋でない北王国はBC721年にアッシリア帝国によって滅ぼされました。そしてダビデの血筋をひいた王たちが治めた南王国も、BC587年にバビロニア帝国によって滅ぼされてしまいました。

イスラエルの歴代の王は、周辺国の異教礼拝・偶像礼拝になびいてきました。そうなると、民衆の信仰生活の中に、偶像礼拝が入り込んでくることになるのです。当時の異教の礼拝の中で、自分の子供を神にいけにえとしてささげるようなことまでしていたのです。

神は道を踏み外したイスラエルの歩みを正そうと、何人もの預言者を遣わされました。その道の先には滅びしかないことを何人もの預言者を通してお伝えになりました。

それでも、イスラエルは偶像礼拝をやめませんでした。最後には、アッシリア帝国、バビロニア帝国によって国が滅ぼされることになります。イスラエルの滅びは、民が神ではなく人間を自分たちの「羊飼い」として選んだ時から始まっていたのです。神から離れ、偶像礼拝に染まり、滅びへと向かう歩みとなっていたのです。

私たち信仰の群れの歩みは、どこに自分の「羊飼い」を見出しているか、どなたの声を自分の「羊飼い」の声として聞き分けているか、ということにすべてがかかっているのです。

一人の預言者が残した言葉を見たいと思います。バビロンに捕囚として連れていかれた人たちの中で、エゼキエルという人がいました。エゼキエルはバビロンで預言者へと召され、イスラエルの指導者たちに向かってこう預言しました。

「牧者たちよ、主の言葉を聞け。私は生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪に晒され、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこういわれる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私の群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。・・・見よ、私は自ら自分の群れを探しだし、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散り散りになっている時に、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。」エゼ34:8以下

このエゼキエルの預言を私たちはどう受け止めるでしょうか。偶像礼拝をしていた人たちに神が昔語られた言葉として、「過去の言葉」として終わらせていいのでしょうか。

この言葉は、まっすぐ私たちに向かってこないでしょうか。私たちは「良い羊飼い」の声を聞き分け、その方の後ろを正しく歩んでいるか、という問いかけとして、迫ってくるのではないでしょうか。私たちは、イエス・キリストが招き入れようとしてくださっている牧草地の柵の中に留まり、そこに新しく誰かを招き入れようとしているでしょうか。

まだキリストの牧草地の外で、誘惑に満ちた荒野を彷徨っている羊がたくさんいるのです。 Continue reading

1月19日の礼拝案内

 次週 礼拝(1月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書10:7~18

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番76番、233番、517番、頌栄543

【牧師予定】

◇1月19日(日)~23日(水) 伊豆諸島伝道委員会のため出張

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

1月12日の礼拝説教

 創世記9章20節から29節

「ノアの箱舟」とか「ノアの洪水」と呼ばれている物語は、9:19で終わりました。洪水によって世界が流され、箱舟へと導かれて救われたノアとノアの家族、そしてノアたちが乗せた生き物たちが新しい世界での生活を始めることとなります。箱舟から出たノアはまず神への礼拝を捧げ、神がそれに応えて祝福と契約の言葉を世界にお与えになりました。神の裁きによる新しい創造の御業が終わったのです。

今日読んだところは、新しい創造の御業ノアとその家族の後日談です。洪水の後、この世界は完全な調和を保ち、正しい人として選ばれたノアとノアの家族はそのまま清く正しく生きたか、というとそうではありませんでした。

この後日談は、私たちがこれまで抱いて来た「正しい人・ノア」のイメージを覆すものではないでしょうか。洪水が終わるまでは、ノアは正しい人であり、悪がはびこる地上で唯一選ばれた礼拝者として描かれています。そこで終わっていれば、洪水後、ノアとノアの家族は何一つ過ちを犯すことなく理想的な「正しい人」として生涯を終えた、誰もが想像したでしょう。

しかし、神の祝福と契約の言葉を受けた後のノアとノアの家族の様子を見ると、あまりに人間臭く、彼らが私たちと同じ地平に生きた人たちであったことがわかります。ノアがぶどう酒によって裸で寝るという醜態を晒してしまい、ノアの息子の一人がその恥を笑い、ノアから呪われる、という事件が起こるのです。聖書はノアと家族の欠点を示すような出来事が赤裸々に描いています。

ある人は、「この出来事はとても旧約聖書的だ」と言っています。聖書は理想的な人が理想的な人生を送った、という完璧な人間の姿を私たちに見せて、「がんばってこうなりなさい」というのではありません。洪水の後美しい世界が生まれ、人は悪や罪とは無縁の平和な世界が生まれていった、という理想を描くのではなく、むしろ、人間の不完全な醜さをそのまま浮き彫りに、私たちに警告を投げかけているのです。

洪水の後、「人が考えることは幼い時から悪いのだ」と神はおっしゃった通り、悪い意味で人間臭い歩みが続くことになっていくことが暗示されています。

ここまで、神が起こされた洪水は、ある意味では新しい創造の御業であった、ということをお話ししてきました。洪水後の人の生活は、洪水の前の人の生活へと戻っていくことになります。アダムとエバが蛇の誘惑に負けて神から離れたように、カインとアベルが兄弟殺しを演じたように、ノアから始まる新しい救いの世代は、恥と呪いの歩みを繰り返すことになっていくのです。

最初の天地創造の際の人間の歩みと、洪水後の再創造の後の人間の歩みは、韻を踏むように似ています。神が初めの天地創造の際、エデンの園をお創りになり、そこに果実を供えられたように、ノアもブドウ畑を作りました。最初の人アダムがそうであったように、ノアも大地を耕す人となりました。食べてはならないとされる果物を食べてアダムとエバが罪に陥ってしまったように、ノアは果実からできたお酒を飲んでこのような醜態をさらしてしまいます。ノアも裸になって醜態を晒してしまったことは、アダムとエバが、自分たちが裸であることに気づき恥じたことを思い起こさせます。ノアの息子たちの3兄弟の中で一人だけ、呪われることになるのはカインとアベルの物語を思い出します。

もしもノアが油断して酔っ払い、裸で寝てしまい、息子の一人に見られて笑われてしまうというだけなら、笑い話で終わったかもしれません。

しかし、その後を読むとは面白いとはとても言えないでしょう。

ノアの息子の一人である ハムがノアの天幕に来て自分の父親の裸の姿を見て、それを外にいた二人の兄弟に告げます。それは父親に対して適切なふるまいではありませんでした。彼は父のテントに入り そこで見た父の醜態を他の兄たちに話して、自分の父親を笑いの種としたのです。

それを聞いた2人の兄弟、セムとヤフェトは、ハムと一緒に笑わず父の恥を隠そうします。「着物を取って自分たちの方にかけ、後ろ向きに歩いていき、父の裸を覆った」とあります。

6章からノアは出てきますが、ここまでノアは黙々と神の言葉に従う「正しい人」として描かれてきました。理想の信仰者のような人として私たちも見て来たでしょう。ここで初めて人間臭いノアの姿を見ます。

6章からここまでノアの言葉は、一度も書かれていません。ノアが何を考え、何を話したのか、神が洪水で世界を流すと決断されたそのはじめから洪水の終わりまで、一言も記録されていないのです。ただ黙々と神の御計画に従ってきた人のように書かれています。

ここでついに私たちはノアの声を聞くことになります。聖書に記されている唯一のノアの言葉は、呪いの言葉でした。

私たちがここまで読んできたノアの物語は、洪水が地上にはびこっていた罪を洗い流し、この世界が新しくなったところで完結する話ではありません。洪水の後、新しく歩み出した人間がまた呪いに向かって生き始めることになった悲劇を描いているのです。

ぶどう酒を飲んで裸で天幕に横たわるノア、父親の恥を広めて笑おうとするハムを通して、私たちはまた人間の罪について考えさせられることになります。

聖書はありのままの人間の醜さを描き出します。ノアはハムの息子のカナンに対して呪いを発しました。ここに人が人を呪う現実が生まれます。そして人が人の奴隷となるという呪いが暗示されています。ノアの呪いの言葉は、洪水後の人類の有り様を映し出すのです。私たちが生きている現実を、このような仕方で描き出し、信仰の警告を発するのです。

ノアの呪いはハム本人を超えて、さらにその息子のカナンに向かいました。ハムから生まれたカナン、そしてそこから生まれる人たちに対する呪いです。10章を先取りして読んでみると、カナンからはソドムとゴモラに住む人たちが後に生まれることが書かれています。ソドムとゴモラは神によって焼き滅ぼされてしまうので、カナンから地上に広がる悪が、暗示されていると言っていいでしょう。

ここで私たちが考えたいと思います。ノアはカナンを呪っているが、それは私たちも同じようにカナンから生まれるカナン人のことを憎むべきなのか、ということです。

カナンを先祖に持つカナン人のことを、世界中の人たちは敵としなければならないのでしょうか。面白いことに、創世記全体を見るとイスラエル人とカナン人は仲がいいのです。

おそらく、このノアとハムの出来事が書かれたのは、イスラエルとカナンが敵対関係にある時代でしょう。その時代背景を反映して、この出来事は書かれたと考えるのが自然です。

聖書にそう記されているから人間の争いの歴史が生まれて来たのではありません。逆です。人間の愚かで罪深い争いの歴史の中で、聖書の物語が編まれていったのです。そして聖書は人間が作り出す愚かな現実を伝える信仰の使信となってきました。

後のイスラエルの歴史の中では、カナン人はイスラエルの敵として出てくることが多いことは確かです。しかし、イスラエルの敵は何もカナン人だけではありませんでした。

私たちはカナンから出たソドムとゴモラの人たちに与えられた滅びの出来事を超えた救いの時を生きています。神の救いの御計画が進められて、今、平和の君、イエス・キリストが来られました。私たちが今、ノアの呪いの言葉を読んで、誰か特定の民族を敵とすることは神の御心に逆行しています。

私たちがこの出来事を読んで、敵とすべきは、人間の罪なのです。呪いを、憎しみを、争いを生み出す人間の罪へと聖書は私たちの目を向けさせます。人間には捨てきれない醜さがあります。そのことから目を背けないことです。

そして更にそれよりも大切なことは、私たちは今、罪の呪いではなく、罪からの解放、罪の許し、立ち返りの祝福をもたらしたメシアが来てくださった時代を生きている、ということです。

イエス・キリストがカナン人の女性を受け入れられた記事が マタイ福音書に記されています。主イエスがティルスとシドンの地方に行かれた際、その土地のカナン人女性が主イエスに救いを求めてやってきました。「自分の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいるから助けてほしい」、と言うのです。

主イエスは何もお答えになりませんでした。それでも女性は「私を憐れんでください」と言ってついて来ました。弟子たちは「このカナン人の女性を追い払ってください」と主イエスに願います。この女性を疎ましく思ったのです。

イスラエルの歴史を振り返ると、ユダヤ人とカナン人は長年敵対関係にありました。主イエスにとっても弟子たちにとっても、民族的にカナン人であるこの女性とは距離がありました。信じる神も違うのです。

主イエスはこのカナン人女性の信仰を試されました。女性は「主よ、ダビデの子よ」と主イエスのことを呼びました。このイエスというユダヤ人青年を、メシアとして、イスラエルの神として求めているのです。

主イエスは「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。「私はイスラエルのメシアである。あなたはカナン人ではないか、カナンの神に救いを求めないのか」、という響きを含んだ言葉です。

女性は「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と言いました。主イエスは最後におっしゃいます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」 Continue reading

1月12日の礼拝案内

 次週 礼拝(1月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:創世記9:20~29

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番73番、183番、505番、頌栄543番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月5日の礼拝説教

 創世記9章1節から19節

 「箱舟から出たノアの息子はセム、ハム、ヤフェトであった」

私たちは6章から続く、ノアの洪水の物語を見て来ました。聖書の中では際立って分量のある、洪水から礼拝へ、礼拝から祝福へ、祝福から神との契約への導きを描いた、裁きから救いへと至る物語です。

このような神話のような物語が、なぜ聖書の中に描かれ、大切に読み継がれてきたのでしょうか。神が天地を創造なさって、そこに人間の悪がはびこるようになってしまいました。神はご自身の創造の御業を後悔され、悩みながらノアというその時代の中で正しかった人とその家族を選び、世界を洪水で押し流された、という話です。

神が御心に留められたノアの正しさとは、「神と共に生きていた」、ということでした。この世界の中でノアだけが選ばれた、ということで、私たちはノアという人を特別な人としてとらえて、「自分のような普通の人間とはよほど違った人なのだろう」「ノアは私たちの想像をはるかに超えた、次元が違うような立派な信仰を持っていたから、彼だけ特別に救いの箱舟へと選び出されたのだ」、と考えしまわないでしょうか。そうやって、自分の日常とはかけ離れた物語として読んでしまってはいないでしょうか。

これは契約の民がどのようにこの礼拝の生活へと導き入れられたのか、その恵みの根源、信仰のルーツを教えてくれる物語です。その意味で、この洪水物語は私の物語として読んでいいものなのです。

ノアは特別な人ではありません。普通の人よりも神に近いような存在として書かれているのではありません。ノアは天に上げられて神となった、という話ではないのです。

神は、洪水を生き延びたノアと、ノアの家族に、これから地上の生活における使命をお与えになりました。その使命とはノアと家族が祝福のうちにこの地上に満ちていくことです。そしてその使命とは、神が今私たちにお与えになっているものです。ノアと家族、そして被造物が洪水の後に与えられた神からの祝福、そしてこの地上に生きる使命は、今私たちの目の前にある限りない現実そのものなのです。

聖書は、ノアの姿を通して、「ノアのような信仰の高みを目指しなさい」と言っているのではありません。洪水の後、神に祭壇を築き、礼拝を捧げたノアと神を描き出し、「これが、あなたが生きている礼拝、契約、祝福の現実そのものなのだ」ということを伝えているのです。

私たちはどれだけ、この物語の中に自分の信仰の姿を見出しているでしょうか。

さて、今日読んだ9:18がノアの洪水物語の締めくくりとなります。

「箱舟から出たノアの息子はセム、ハム、ヤフェトであった」

ノアと息子たちの名前が記されています。この洪水物語の初め、6:9も同じノアの系図で始まっています。

「ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた」

この洪水物語は、なぜ洪水が起こされたのか、ということ一緒に、この洪水から救い出されたのは、この人たちだった、ということを強調しているのです。そして洪水が終わった後、聖書はこう記しています。

「この3人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである」

ここから、地上の新しい世代が始まっていった、ということを私たちに伝えているのです。神の和解の契約とともに新しい世代が始まっていくことになります。洪水の後、地上の全ての人間がここから始まった、ということは、私たちの信仰のルーツはここまでさかのぼる、ということでしょう。

洪水によって、人間の心が清くなるのではいか、という期待は幻想に終わりました。「人間の心は生まれた時から悪いのだ」と神はおっしゃいます。洪水の後もそれは変わりませんでした。

聖書が伝えている希望は、「それでも人間は終わりではない」ということです。地上に人の悪が満ちた混沌の世界から、神の救いによって新しい信仰の一歩が与えられた、その恵みの現実を聖書は私たちに教えてくれているのです。

私たちはこの物語を通して自分の信仰の根本を見ると共に、自分たち自身の信仰の歩み出しを思い返すことが出来るのではないでしょうか。

何の理由もなく信仰を求める人はいないでしょう。道が見えなくて、どこかに平安を見出したくて、どんな時でも心のよりどころになるものが欲しくて、神を求め始めるのです。

信仰とは何でしょうか。それは、生きる道そのものです。生きる方向そのものです。自分がただ生きているのではなく、どこを向いて生きているのか、今この瞬間何のために生きているのかを知っていたいのです。それを教えてくださる存在を、そのような生き方へと導いてくださる存在を求めているのです。

この物語は、神との契約と共に歩みだす信仰の民の始まりを描いています。だから、私たちはこの中に信仰者としての自分の姿を見出すことが出来るのです。そして、今自分が導かれた信仰のあり方を吟味させられるのです。

ノアの礼拝と神からの祝福、これが神との契約に生きる私たちの今の信仰を描き出したものなのです。

箱舟を下りて礼拝を捧げたノアに、またその家族に、神は祝福の言葉をお与えになりました。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」

9:1と9:7にこの神の祝福の言葉が繰り返されています。これは、初めの天地創造の際に神が男と女に対しておっしゃった祝福と同じ言葉です。

続けて神はこうおっしゃいます。

9:2~4「地の全ての獣と、空の全ての鳥は、地を這うすべてのものと、海の全ての魚とともにあなた達の前に恐れおののき、あなた達の手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。私はこれらすべてのものを青草と同じようにあなたたちに与える」

読み方によっては、人間は世界の全ての生き物に対して好き勝手して許されているようにもとれます。被造物が人間に対して恐れおののく、そして人間は何を食べてもいい、と言われているのです。新しくされた世界において人間は我が物顔に世界を支配していいということなのでしょうか。

最初の人アダムも「地を従わせよ」と言われました。しかしそれは、「大地に仕えなさい」という意味の言葉でした。

確かに人間にはこの地上で自由に生きることが許されています。それが神の祝福です。その自由というのは、神が示された平和の中における自由なのです。好き放題やっていい、ということではありませんでした。

この言葉の後、神は人間に制約をお与えになっています。

「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」 Continue reading